人形と女性(2)
竹久夢二と堀柳女
人形作家・堀柳女は1930(昭和5)年に竹久夢二と人形制作グループ「どんたく社」を結成して同年2月、銀座の資生堂ギャラリーにて「雛によする展覧会」(図1)を開いた。この時期に現れた創作人形作家の多くが、プロとしての人形職人からはじめて個人としての作家になった人たちであったとすれば、この展覧会に参加した人たちはアマチュアからはじめた人たちであった。既に著名であった竹久夢二がうしろだてになったことによって、それらの人形作品は「芸術」として認知されるようになったと言える。ただ竹久夢二の作品もまた、純粋芸術としてではなく、現代で言えばグラフィック・デザイナーの草分けとして、応用芸術として評価され、印刷物によってその名を広めていった。夢二と人形との出会いには堀柳女が大きく関わっているが、この堀と竹久夢二の出会いは少女雑誌『少女の友』の投稿欄の投稿者と選考者の関係にはじまり、文通を経て実際に会うという経過を踏んでいる。二人の出会いは雑誌というメディアの普及なしには考えられないものであった。この点で彼らの人形作家としての出発点は、徒弟制度からそのキャリアをはじめた人形職人出身の人形作家たちとは大きく異なるものであった。
(図1)
では堀柳女のような女性の人形作家は突然変異のように登場してきたのだろうか。たしかに1936(昭和11)年の改組第一回の帝展に入選した人形作家6人のうち女性は彼女一人であった。しかし人形制作と女性の関係は既にこの頃かなり一般的なイメージとなっていたようだ。
まずはここで、当時の女性「人形作家」の一般的なイメージを知るために、ある大変有名な小説に登場する女性人形作家についての記述を少し引用してみたい。そこには同時代を舞台としてある一人の若い女性人形作家が登場している。
妙子は女学校時代から人形を作るのが上手で、暇があるとよく小裂を切り刻んでいたずらをしていたものであったが、だんだん技術が進歩して、百貨店の陳列棚へ作品が出るようになった。彼女の作るのは仏蘭西人形風のもの、純日本式の歌舞伎趣味のもの、その他さまざまで、どれにも他人の追随を許さない独創の才が閃いていたが、それは一面、映画、演劇、美術、文学等に亘る彼女の日頃の嗜みを語るものであった。兎に角彼女の手から生れる可憐な小芸術品は次第に愛好者を呼び集め、去年はサチコの肝煎で心斎橋筋の或る画廊を借りて個展を開いた程であった。
これは谷崎潤一郎の『細雪』の一節である。この作品は大阪船場の旧家の四人の姉妹の物語であり、その意味で「ブルジョア文学」(長谷川如是閑)と言えよう。この小説が執筆され、月刊誌『中央公論』に掲載されはじめたのは第二次世界大戦中の1942年、ただし翌年軍部から掲載を止められて実際に完成するのは戦後の1948年のことであるが、作品の舞台は戦前の大阪近辺、主人公は「大阪船場に古いのれんそ誇る蒔岡家の四人姉妹」で、人形を製作していたのはそのなかでもっともモダンで自由な生き方をしていた四女妙子という設定である。時代は戦争がはじまる少し前、大正デモクラシーの自由な雰囲気がまだ垣間見られた頃のことである。この四女を「人形作家」とする設定は、この小説のなかでは傍系的なテーマに過ぎないし、彼女の人形作家としての葛藤や成熟が描かれているわけでもない。また彼女はこのあと人形作家として大成していくわけでもない。
ただここで興味深いのは、モダンな少女の趣味とその延長上にある職業として「人形作家」があり得たということ、その展示場所として百貨店の陳列棚や画廊が考えられたということである。当時の女学生と人形製作の関係については、新潮文庫版の註にある「関東大震災後、東京の女学生の間でフランス人形の製作が流行し、次いで、新しい日本人形を研究・創作し、発表することが盛んになって行った。その結果、昭和十一年から始まった帝国美術院展覧会にも、芸術作品としての人形が出品される程になっていた」という記述が参考になろう。そして女学生たちが人形製作に励むことになった背景には、当時の女子教育があったと考えてよいだろう。
学校教育と人形
当時の学校教育は、男性と女性では異なっており、女性においては「良妻賢母」教育としての裁縫や手芸が重視されていた。ちなみに良妻賢母教育とは「家族制度の下で夫に仕えて『家(イエ)』を守り、時代の国民を育成する役割を女性に割り当てるものである」(木村涼子『〈主婦〉の誕生』2010)。江戸中期に松平定信はその『修身録』で「女はすべて文盲なるをよしとす、女の才あるは大に害をなす」と書いていたが、明治時代に学制が始まってからも、女性を学校に通わせることには強い抵抗があった。高等女学校は1899(明治32)年の高等女学校令によって正式に制度化されたが、学科目として家事、裁縫があり、随意科目に手芸が設置され、同じ中等教育でも男子のそれとはかなり異なっていた。女性の教育においては、学問を修めることや社会で直接役立てることよりも、結婚して家庭に入り主婦として母として役に立てることができる実践的な科目が求められ、そのために裁縫、手芸などの手仕事が重視されていたのである。では明治期における「裁縫」や「手芸」の内容はどのようなものだったのであろうか。たとえば高等女学校令が制度化された同じ年に出版された『裁縫と手芸』という本の挿図(図2)には母が裁縫をして、娘が人形を製作しているかあるいは人形で遊んでいるらしき図が見られる。母と娘と人形、これは母と娘の関係を娘と人形が反復する形で女性の制度的な文化継承を表していると言えよう。
(図2)
ここで登場する「手芸」という概念は、「芸術」とも「工芸」とも異なるが、その製作物は実は工芸とかなり重なる部分を持っている。つまりしばしば同じものが工芸にも手芸にも分類されていたわけだが、それがとりたてて問題となることはなかった。美術と工芸におけるような分類を巡る領土争いのような問題はそこでは発生していなかった。「手芸」の範疇が時代を追って変わることは山崎朋子の『近代日本の「手芸」とジェンダー』(2005)に詳しいが、そこで山崎が述べていることは、明治以降「手芸」という概念は「作り手のジェンダー」を規定するものであったということである。すなわち「手芸」は女性の手になるものであったということである。
「手芸」は基本的にその作り手が女性であることを前提とした概念であり、女性が行なう手仕事を総称して用いられる概念であった。制作に用いる材料や素材、技巧、手法、題材などにかかわらず、女性が作るものを「手芸」としてとらえることができ、作り手のジェンダーこそが、手芸を「手芸」として規定する最大要素であると言える。(山崎朋子『近代日本の「手芸」とジェンダー』)
実際、制作物を作る手順が記された手芸にまつわる当時の実用書の数々を紐解くと、その内容の豊富さと幅広さに驚かされる。「手芸」という名称のもとに並べられたものたちは、子供や家族や人形の服、ペン立て、絨毯、造花、押絵、クッション、カバン、木彫、刺繍、スカーフ、帽子、人形などなどその内容は雑多というか実にさまざまである。そしてこのリストにあるようにそこにはさまざまな人形や人形の服も含まれていた。
「手芸」と「工芸」が同じ内容を含みながら、概念として抵触しなかったのは「手芸」が女性というジェンダーを割り当てられていたからであり、女性の手になるものであるということは日用に耐え得る程度の技術は必要とされながらもプロのものではないこと、いわば「永遠のアマチュア」の作品であることをまずは意味していたからである。
女性雑誌と人形
学校教育や家庭での母から子への技術の伝授だけではなく、この時代の「手芸」普及に重要な役割を果たしたのが、いわゆる女性向け雑誌である。先述したように堀柳女と竹久夢二の出会いは『少女の友』という当時若い女性の間に大変な人気を誇った雑誌を介してであった。そしてこの雑誌の表紙絵で少女たちの人気を博したのが、竹久夢二や中原淳一である。竹久夢二は画家として名声を獲得した後、人形製作をはじめているが、中原淳一は逆に人形製作から一人のアーティストとしてのスタートをはじめている。1932(昭和7)年に松屋で「第一回フランス・リリック人形展覧会」という個展を開催、翌年には資生堂ギャラリーで「フランス人形第二回展」を開催し,その頃から『少女の友』を中心に表紙絵を描き一斉を風靡すことになる。時を同じくして,『少女の友』や『主婦之友』などの女性雑誌や単行本で、ふらんす人形をはじめとしてさまざまな人形の作り方が特集され、この時期は人形制作や創作人形の鑑賞が女性たちの間でブームになっていたといえよう。
中原淳一による『少女の友』表紙
そうした時代背景は、先述の『細雪』の妙子の描写にも現れているが、この妙子の描写でもう一つ興味深いのは、その少し後の記述で彼女の暮らしぶりについて「本家の兄は妙子が職業婦人めいて来ることには不賛成であった」と書かれていることである。つまり彼女は「女学校」時代に人形作りをはじめ、いっぱしにデパートや画廊で展示するまでになっていたとはいえ、そうした活動は「職業婦人めいて」いるとして反対されていたということである。そしてその反対者が、妙子の姉である長女の夫であることも重要である。それは姉妹の父は既に亡くなっていたのでこの義兄がいわば保護者であったということである。妙子はこのとき既に成人に達していたがそれでもその自由はある程度束縛されていたということが理解される。『細雪』新潮文庫版の註には現在ならキャリアウーマンと呼ばれるであろう「職業婦人」という語について「当時、良家の女性は家事・育児に専念するのが当然とされ、職業を持つのは、貧乏なためにやむを得ずする恥かしい事と考えられていた」とある。ここで「手芸」という語のもう一つの含意があらためて確認される。ジェンダーとしての女性に割り当てられていたこの「手」の「芸」は、プロフェッショナルな技術を求められ、また職業として成立する「工芸」とは異なり、「アマチュア」性を暗黙のうちに要求されていたということである。『〈主婦〉の誕生』のなかで木村涼子は「すべての領域に秀でた『アマチュア』、それが『主婦』にもとめられた姿だ」と指摘しているが、このことは一定の技術は習得してもそれをお金に換える職業とすることに対する足かせともなっていた。
女性と人形と職業
しかしでは堀柳女のような著名な人形作家が登場するまで、プロフェッショナルな人形製作に女性が携わっていなかったかといえば必ずしもそうではなかったようだ。たとえば大正期の女性向けの実用書には、家計の補助としてどのような内職の仕事があるのか、そしてそれがどの程度の収入になるのかということを克明に記した本が何冊も刊行されており、そこには造花作りやシャツのボタン付けなどに混じって人形の服の仕立てや玩具の人形を塗る仕事、人形の首付け、人形の顔の仕上げなど、さまざまな内職が時には手間賃の値段まで添えて記されている。また昭和初期の東京商工会議所の資料を見ると五月人形や雛人形を含む分業制の「人形細工」の下請けとして「婦人の内職」にかなりの人数が割かれていた実態を見ることができる。プロフェッショナルな男性の職人とは別にこうした女性たちの「手」が早くから人形作りを支えていたという事実は人形と女性を考える上で興味深いもう一つの側面を見せていると言えよう。
(つづく)