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テクスト効果 (18)
  芸術編(6)



榊山裕子

人形と女性(1)

人形の居場所と居場所のなさ

 明治初期に美術や芸術という概念が西欧から入り、「美術」「芸術」概念がもたらしたヒエラルキーのもとで展示、教育などが行われるようになってから、居場所がなかなか定まらなかった人形が「『公』的に『芸術』としての『身分』を得たのは、現代の日展に相当する帝展こと帝國美術院改組第一回の美術工芸部門に、平田郷陽、堀柳女、鹿児島寿蔵ら六人の人形作家が入賞した1936年(昭和11年)のことであった」と先回、冒頭で書いたが、こうした「公認」の原動力となったのが1930年代の「人形芸術運動」であった。ちなみにここでいう「公」は近代市民社会の「公共」という概念よりは前近代的な「お上」という言葉に親和性がある。それゆえここで公認とは端的に国のお墨付きを得ることであることには注意しておかなければならないが、いずれにしても「人形」がこうしたお墨付きを得たことによって、座りのいい居心地のいい場所を得たかというと、必ずしもそうではなかったというのが人形作家の実感であったようだ。たとえば、当時、帝展に入選した人形作家の一人、鹿児島寿蔵は、その30年後、1966年(昭和41年)に「人形の伝統と技法」という一文のなかで、当時を振り返って次のように書いている。


   人形とは何かということと工芸美術(ひろくいえば美術)としての人形は、いったいどんな位置にあるにだろうか。この二つの問題を久しく考えてきたが、いまだ自問自答の域をでないありさまである。
   昭和十年に文部省の美術展覧会の改組があって、翌年に第一回の帝展が開催された。このときに、第四部すなわち工芸の部に人形も出品することになって六名が入選した。このことについては、当時の有力者たちの功績を多としなければならぬ。さて搬入可能ということになったころのことであるが、あるアンケートに答えた某は「人形なんか、玩具箱のなかに入っておればいいのだ」という意味の答をしていた。正直いって、それは今日でも人形の性格なり一面なり、そのあり方を突いているようにも思う。(「人形の伝統と技法」鹿児島寿蔵)


 このように、人形は暫定的に組み入れられた工芸というジャンルのなかでどうも収まりが悪く、そのことは人形が「工芸」に組み入れられて三十年余りたってからも指摘され続けていた。上記の場合は人形の玩具的側面が指摘された格好だがそれだけではない。それは鹿児島の同じ文中の次のような一節に端的に表われている。


   美術といえば、日本では、彫刻、絵画、工芸および書道がその主要を成し、そのなかの工芸は、陶磁、染織、漆、木竹、人形その他にわかれているが、その部立ては、たんに便宜上からきている。そうした多岐な部立てのなかで、人形はどんなふうにみられているのだろうか。
   そもそも工芸品とは、工作上のプロセスと資材とが、必然的に規定する品物としての目的ある芸術であることに言を差しはさむことはなかろう。人形もそうした規定のなかにある。だが、他の諸工芸すなわち器ものないし道具としての用をなすものなどとは、かなりの相異がある。染織とはやや近いところにあるが、それでも相当の開きがある(鹿児島寿蔵「人形の伝統と技法」)


 すなわち「工芸」は「用の美」と言われるように、道具としての使用価値と美とが結びついていると考えられるのだが、人形はどうもそうした道具としての価値からは外れるということである。それ故「工芸」に組み入れられることは人形を作る人々にとってもどうも収まりの悪さを免れることはできなかったのである。

人形とジェンダー

 人形を、美術か工芸かという二者択一において見る限り、この人形の収まりの悪さは解消できそうにない。そこで今回は人形の問題をあらためて考えるに際して、ジェンダーの視点を取り入れてみることにしたい。なぜならこの1930年代の人形芸術運動の背後には、女性の社会進出が連動していたからである。また愛玩物としての人形は古くから女性と関わりが深いからである。そしてジェンダーの問題を取り入れることによって、美術/工芸という二項対立からは見え難くなっている別の対立軸、あるいは併存するもう一つの流れが見えてくるはずだからである。

 たとえば是澤博昭は『日本人形の美』(2008)において、「人形芸術運動の作家には、大別すると三つの大きな流れがある」として次のようにその流れを分類した。


  1 職人から人形作家への脱皮を目指す若い人形師
  2 人形製作に新境地を見出したアマチュア作家
  3 社会参加の道が制限されていた時代に、自己表現の場を人形製作に求めた女性 (是澤博昭『日本人形の美』)


 では具体的に誰がどの流れに分類されるのか。是澤は次のように続けている。


   たとえば、帝展改組第一回展の入選者の中で、1職人出身者は平田郷陽・野口光彦・野口明豊・羽仁春水の四人、鹿児島寿蔵・堀柳女(ともに後の人間国宝)は2・3に属する人である。 (是澤博昭『日本人形の美』)


 さて3つの分類のうち性別が記入されているのは3だけである。これは1、2が基本的に男性であるという前提があるためだろうか。少なくとも1はそうであったといえよう。人形の「職人」は基本的に男性であったからである。一方、2と3に関しては、鹿児島寿蔵は男性なので2に属する人であったことがわかるが、問題は堀柳女の場合である。彼女が3であると同時に2でもあるのかは、この記述からは定かではない。
 さて、是澤の記述は次のように続く。


   アマチュア作家や女性たちは、職人が継承してきた伝統的な型にとらわれない完成や着想でユニークな作品を発表し、既成の人形師に大きな刺激を与えていた。しかし彼らの技法はあくまでも自己流、あるいは手芸の延長であり、技術的には未完成であった。(是澤博昭『日本人形の美』)


 是澤によれば「アマチュア作家や女性たち」は、この時期人形を作ることに興味を示していたが、プロの作家として認知されるには、技術において未熟であった。しかし「一方、人形職人は幼い頃から叩き込まれる技術があるが、伝統の型にとらわれる傾向が強かった。それが独創的な作品を要求される創作活動の支障」となっていたという。人形芸術運動は「アマチュア作家や女性たち」の技術不足、そして人形職人の「伝統の型」へのとらわれを、相互に乗り越えていくための手助けとなった、と是澤は指摘しているが、これは当時の人形界を知る人の共通認識と考えてほぼ差し支えないだろう。
 たとえば小林すみ江は『図説 日本の人形史』のなかで、昭和8年に「人形芸術運動の機運を援けるために」彼女の父である山田徳兵衛が会長を勤める「日本人形研究会」が「日本最初の人形学校」として設立されたと書いている。そこでは「人形作りを代々の家職とするプロには芸術全般の教養を授け、また技術的に未熟なアマチュアには初めてプロの技法を公開して習得させ、両者を交流させてレベルの交流を図った」とのことであり、当時の写真にはこの研究会に所属する女性たちによる勉強会「人形すがた会」で、技術を持つ男性たちがそれを持たない女性たちに人形の制作技法を教えている様子が映しだされている。それはまさに男性から女性への技術の伝授であるように見えるが、では女性の人形作家はそういう経路でプロの創作人形作家への道を踏み出していったのだろうか。

 まず帝展改組第一回に入選した唯一の女性作家で、後に人間国宝となる堀柳女の場合はどうだったのだろうか。彼女は山田徳兵衛や職人出身の人形作家とも一定の交流を持っていたが、人形作家としての技術習得期において、彼らから直接技術を教わったわけではなく、この勉強会にも参加したわけではないようである。堀の自伝『人形に心あり』を読むと、彼女を人形作家に育てた揺籃は、こうした職人から出て作家意識に目覚めた人形作家たちとはかなり異なる環境であったことがわかる。
 人形という創造物は「工芸」というジャンルに今一つ馴染めなかったことを先程指摘したが、実は、当時の工芸の担い手が主に「職人」であったことを考えれば、職人出自の人形作家たちが「工芸」と親和性を持っていたこともまた事実であった。
 ところが女性たちはこうした「職人」から出発するという経路を持たなかった。それゆえ女性が人形製作に接近するには別の経路があったことになる。そこにはただ職人=プロに対するアマチュアという観点からだけでは汲み取れない別の要素があったのではないかということである。アマチュアというのはその分野に関してまったく無知であるわけではない。場合によってはプロ並みの技術を持つ場合もある。それが生業になっていないというだけの場合もあろう。ただアマチュアにおいても、そこに自らを「作家」と認定するという意識があったことは重要である。それは逆に言えば、かなりの技術や創造性があったとしても、自らを「作家」とみなす意識がない限り、あるいはそういう意識を持つことが肯定されない限り、その人は「作家」ではないということを示している。
 その意味では、アマチュアとプロとの比較は先述の是澤の分類が示しているように、まず男性間の比較として考えられるべきであるかもしれない。なぜならそもそも女性の職業進出には当時一定の枷がかけられていたからである。しかし同時に考えておかなければならないのは、だからといって、女性が何も習得しなかったわけではなかったということである。現在でも比較的わかりやすい例をだすならば、いわゆる主婦業と言われるものが、料理、裁縫などにおいてある程度の専門性を要求されるがプロとなるほどの専門性はむしろ望まれないように、女性の「仕事」にはプロ/アマという二項対立とは別の技術水準が望まれていたということなのである。
 先程の是澤の「アマチュア作家や女性たち」という記述もその観点から見るとよりわかりやすくなる。この記述から見えてくることは、アマチュアであれプロであれ「作家」と自らを見なさない、あるいは他人からもそう見なされない「女性たち」のなかには水準的には少なくともアマチュア作家並みの、場合によってはプロにかなり接近した「女性たち」がいた可能性があるということである。ただ「女性たち」にはそれを専心すべき「仕事」とみなす意識を持つことがないように、注意深く排除されていた可能性があるということである。これは女性の職業進出において期待された仕事がいわゆる「女性的」とされる仕事か男性の補助職に限定されていたことからも、またそもそも男女に与えられた教育が異なっていたことからも、そして教育において職業においてその見えない壁を乗り越えようとすることに対して当時どれほどの抵抗があったかを見ればそれと知れる。当時、女性に「大学」の門が閉ざされていたという事実が端的に示しているのは、女性に望まれる教育は制限付きだったということである。しかし逆にそうであればこそ、恵まれた環境にあった一部の女性たちにはモラトリアム的な猶予期間において,付加価値としての飾りとしての「教養」としての、芸術的なものへの接近が比較的許されていたと言える。ただしそうした女性たちにおいても、教育は男性と同等ではなかったことは重要である。むしろ教育が同等でなかったことがある種の文化を育む土壌の一つにもなっていたといえよう。女性に求められていた知は脱構築批評のバーバラ・ジョンソンがいみじくも指摘していたようにソクラテスとは別の意味での「無知の知」であったのかもしれない。

堀柳女の場合

 さて、堀が人形を作り始めた最初のきっかけは当時女性に絶大な人気のあった竹久夢二との出会いにあった。すなわちいわゆる「少女文化」と呼ばれるものがその背景にあった。そして人形とこの少女文化、もしくは性別役割分担がかなり厳格であった時代の女性の文化は、「人形」と大変近しい関係にあった。
 夢二自身も人形を作ったことが知られているが、この出会いはどのようなものだったのだろうか。まずは当時の時代背景を知るために、この堀の人形作家になるまでの道のりを彼女自身の自伝『人形に心あり』から少し覗いてみることにしたい。

 堀の実家は千葉県佐倉の藩士である。父の生家も藩士であり母の家に養子で入ったという。父は「帝大の工科で造船の方を専攻していましたが、押し寄せる時代の波に家産は傾き始め」肺を患い堀が四歳のときに亡くなったという。そして彼女は日本橋で大きな運送店を営み堀家の養女となる。その後堀家も傾くのだが、かなり裕福な恵まれた生活をしていたことは間違いない。そうしているうちに雑誌『少女の友』に投稿した絵をきっかけとしてその選者をしていた竹久夢二と師弟関係を結ぶことになる。ただしこの師弟関係は住み込みの徒弟制度のようなものとも、学校における師と生徒との関係ともだいぶ異なっていたようである。ここではまずそもそも夢二と知己を得るきっかけについて記した堀自身の記述を少し長くなるが載せてみることにしたい。というのは、この記述からこの時代の少女文化の特有の雰囲気が垣間見られるからである。ちなみにここに登場する雑誌『少女の友』は1908年(明治41年)創刊の女性雑誌である。ここにいわゆる少女文化とでも呼ぶべき文化が静かに花開いていた。


   私が、ぼつぼつ絵を習ひはじめた時分、雑誌「少女の友」が、課題のある絵を募集した事があります。「道」といふテーマでした。生意気盛りな私は、少々しやれた、壁画風の、才走ったものを描いて、早速応募してみたのです。画題を、少女らしく素直には受けとらずに、可成りひねくれた作品にしてみたのでした。背景、風俗を十七世紀ごろの西洋にとり、春の神と冬の神とがすれ違ふ道を描いてみたのです。(堀柳女『人形に心あり』)


 この作品を出品したところ一等に当選し、その選者が当時一斉を風靡していた竹久夢二で、竹久との文通を経て「師弟関係と申しますより友達関係とでも言つたおつき合ひが」続いたのだという。
 そして堀の人形の制作は、彼女が自分の弟の病いの療養のために女中を伴い付き添いのために高田馬場付近に住んだ時期に始められたのだという。それまでしばらく、当時結婚してまもない姉のもとでいささか窮屈に暮らしていた彼女にとって自由な時間が到来したことになる。是澤が上記で指摘しているように「社会参加の道が制限されていた」時代、女性は家の中でもいわば一種の監視(それは女性間の相互監視である場合もある)下にあったため、そうした監視から免れる時期を持てたことが創作者としての彼女にとって幸いしたことになろう。そんな暢気な生活のなかで人形を作り始めたその動機はたわいのないものであったようだ。


   弟の看病をしながら、私はチューインガムを噛み噛み、俳句を作ったり、絵を描いたりしていたのです。あるとき、甘味の完全にとれてしまったチューインガムを手に取って、指先でつまんでいるうちに、ふと、面白い顔の形が出来上がって来たのです。それは実に思いがけない顔なんです。(堀柳女『人形に心あり』)


 こうしてチューインガムを沢山買い込んで人形を作り始めた彼女は、そこから「しんこ細工」の人形へと進んでいく。これが三越の人の目にとまり、売り物として置いてもらうことになったという。そうしたきっかけを経て、しばらく訪れていなかった竹久夢二のアトリエにこの「しんこ細工」の人形を持っていったのをきっかけに「夢二の人形製作」がはじまったと堀の記述にはある。こうして彼らは人形製作の技術も新たに開発し、グループを「どんたく社」と名づけ、昭和5年に銀座の資生堂で第一回の人形展を開催する。この人形展は人形芸術運動が盛んになる時期と平行しているが、職人的な技術や文化とは別のところから出て来た文化的傾向であったと言える。次回は主に女性の間で花開いたこの文化的傾向と人形の関係について考察してみることにしよう。

(つづく)