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タイムマシンにおねがい 

第3回 セミネールと9.11

「治療技法論」(2012〜)ー「心的構造論」(2003〜2011)ー『人形の身体論―その精神分析的考察」(2001〜2002)←「新世紀人形展」(1999)


 『人形の身体論ーその精神分析的考察」第4回は、2001年9月20日木曜日午後7時から9時、会場を前回の池袋・東京芸術劇場から東京・早稲田の早稲田奉仕園に戻して、開催された。その日のテーマは本来「「皮膚/体感 (その2)」 のはずであったが、この日の公開セミネールの一週間あまり前、9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件のため、急遽「テロリスムについての諸考察」がテーマとなった。
 この日のテーマは、「人形の身体論」というテーマからは離れるため、『ドール・フォーラム・ジャパン(DFJ)』誌連載の「人◇形◇愛の精神分析」にも、後に青土社から出版された『人形愛の精神分析』(2006)
にも収録されることはなかったが、現在の『セミネール通信』の前身であるDFJ発行の『セミネール通信』に
「セミネール断章」として一部掲載されていたので、今回は、この蔵出しの記録をここに転載したい。

 なお、下の写真がその日の板書である。
 「Warum Krieg? ( Why War?)」「Pulsion de mort 」と書かれている。

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藤田博史講義◆セミネール断章◆ 榊山裕子編 

 人類の歴史に深く刻みこまれるであろう2001.9.11 アメリカの連続爆破テロ事件に世界が揺れるなか、
開催された今回のセミネールでもこのことが話題にならないはずはなかった。今回は「セミネール断章」でも、精神分析の立場から見たテロリスム考察の一部を採録する。

◆第4回セミネール 「皮膚/体感(その2)+テロリスムについての諸考察」◆
会場:早稲田奉仕園(東京・早稲田)
              日時:2001年9月20日(木)19:00~21:00

 今、私の頭の中にあるのは、恐らくフロイトが生きた時代も戦争をやっていたわけで、
どうして人類は人を殺したり、悪者を仕立て上げて攻撃を加えたりするのだろうかということです。私の掲示板にも書きましたが、フロイトとアインシュタインの書簡があります。     
 Warum Krieg? 英語に訳すとWHY WAR?ここでフロイトが考えたのは「死の欲動」です。人間は生きていこうというエネルギーだけではなく、死のうとするエネルギーもまた同時に持っている。フランス語でpulsion de mort(註1)と言いますが、要するに平和を唱える人もそうでない人も、死に対する一定の「欲動」を持っている。それは個人レベルで見てもそうだし、集団レベルでもそうであるということです。
 もし精神分析に何か出来ることがあるとすれば、個人の中で洗いざらい見つけ出したものを、個人の寄り集まりである集団に対して適用できるかどうかということです。どういうことかというと個人レベルではかなり明らかになっていること、たとえば先ほど私が申し上げた「言い間違い」とか「やり損ない」(註2)、あとは精神病の症状、神経症の症状を含め、個人レベルではかなり明らかになっていることが、集団レベルでどこまで使えるかどうかということです。要するに人間が作ったものは人間の形をしているという大原則に従うならば、個の寄り集まりである集団も、恐らくその集団全体として、ひとつの生き物のように、精神分析の適用がなされ得るのではないか、という発想も成り立つわけです。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、フロイトの「集団心理学と自我の分析」(註3)という論文があります。これははじめてフロイトが、集団に対して精神分析を適用できるかどうかということを考えた論文ですが、まずそこに尽きるでしょう。要するに個人のレベルではかなり分析が進んでいると。では集団ーーー集団といっても二人以上なら集団ですがーーー、国家レベルとかの集団の動きに対して、どの程度まで精神分析を適応できるのか、あるいはどこから適応不可能なのか、ということです。
 「横断歩道みんなで渡れば怖くない」という言い方があるように、恐らく集団特有の精神分析があると思うのです。私が思うに、集団が集団であることの所以というのは、言葉の繋がりです。要するに言語と同じ構造で繋がっている。つまり一番繋がりやすいのは、同じ言葉を話す人間同士なのですが、言葉によって捉えられた人間が、不可避的に持っている衝動というのは「死の欲動」です。つまり我々が個人のレベルにおいて言葉を話し続けるということは、逆に言えば言葉以前の生き生きした我々の生身の身体を言葉によって蝕まれている、つまり言葉によって殺され続けている、言葉を発声しながら連続的に言葉によって我々は殺されている、という風に考えることが出来るわけですが、まさにそういう意味において、我々の「欲動」が言葉によって抑圧される限り、最終的に言葉によって倒されて、「死の欲動」がまた人類の「欲望」を覆うのではないか、ということです。

註1 「死の欲動」 pulsion de mort フロイトの後期の欲動理論においてつかわれた言葉で生の欲動に対立し、また緊張力の完全な除去に向うような、つまり生体を無機的状態に導くような欲動の基本的範疇を指す。死の欲動は最初は内部に向い、自己破壊に傾くが、二次的には外部に向い、攻撃欲動または破壊欲動の形で顕現する。(ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』みすず書房)
註2 「失策行為」(言い間違い、書き間違い、度忘れ、やり損ない、思い違いによる錯誤行為など)を指す。
註3 「集団心理学と自我の分析」(Massenpsychologie und Ich-Analyse) 1921


 この日の会場写真は、人形作家・秋山まほこ氏によるものである。秋山氏はこの連載の人形写真を担当し、毎回このセミネールに参加していた。青土社刊の『人形愛の精神分析』の冒頭には、彼女の人形写真が「秋山まほこ人形館」として掲載されている。


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藤田氏とスタッフ

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講義中の藤田博史氏


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講義室の後ろのドアから中を見る


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DFJの小川千惠子(現・羽関チエコ)氏(右)とスタッフ


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当日の藤田氏のカバン

 つづく






公開セミネール『人形の身体論ーその精神分析的考察』

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『人形愛の精神分析』紹介・青土社公式サイトより

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ドール・フォーラム・ジャパン公式サイト

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早稲田奉仕園公式サイト

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秋山まほこ「秋山まほこ人形館」

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