20世紀は他者の時代と言われるが、実は同一者の時代だったのではないか、というのが先回のテーマであった。先回取り上げた小熊英二の『日本人の境界』(1998)において、典型的な同一者としてとりあげられていたのは、エドワード・サイードのオリエンタリズム論における「中産階級以上の白人男性」という「対象設定」であった。それは「『われわれ』以上の脅威が存在しない支配者の言説という対象設定」とみなされていた。
一方、「日本型オリエンタリズム」においては、日本は「微妙かつ両義的な位置」にあった。それは「近代日本においては、『欧米』という『日本』より上位の脅威が存在する状況のもとで、『日本』より下位の者たちを支配する言説が形成されていた」からであった。「オリエンタリズム論は、『文明』『野蛮』や『西洋』『東洋』、あるいは『男性』『女性』といった二項対立図式を批判しているが、その批判そのものが、二項対立が鮮明である局面でしか十分に機能していないように思われる」と小熊はさらに続けている。
先回も書いたように、このような位置に立つことは特別なことではなかった。「たとえばオリエンタリズム論のなかで、後発帝国主義国だったドイツやイタリア、ロシアなどは、どう位置づけられるのか? 一九世紀のイギリスのなかでも、イングランドよりも下位に置かれていたスコットランドやウェールズ、労働者階級の女性などは植民地支配と無縁だったのだろうか?」と小熊英二は問いかけている。
こうした問題は現実社会のさまざまな問題の背後で影響を与えているが、日本や日本人について思考する際にも影響を及ぼしている。日本においては「日本人男性」が、自らを日本人男性としてアイデンティファイしようとする際に、自らの立ち位置が明快な二項対立図式に当てはまらないがゆえに、さまざまな思考の悪戦苦闘をしてきたことは歴史を振り返ってみれば容易にみてとれることである。敗戦によって帝国主義的な自意識を喪失し、代わりに経済大国としての自意識を新たに獲得し、アジアにおいて特殊な位置にいるという「特別」な自画像を作り上げても、その不安は続いたのではないだろうか。こうした不安定な自意識が、日本人男性の近代的主体形成にはまとわりついていたといえるだろうが、実はこうした不安に「日本人女性」もまた巻き込まれていたといえよう。
「日本人女性」のこの立場は、日本人男性の立場に輪をかけて複雑であった。日本人男性の場合は、白人男性中心の帝国主義的ヒエラルキーのなかで、自分たちの男性的権威を何らかの形で削がれていたと見ることに一定の妥当性があるといえる。しかし女性の場合はそこにさらにジェンダー差別が絡み合う。「日本人男性」の優位性が敗戦によって削がれたが故に、日本人「男性」と日本人「女性」の関係も変化せざるを得なかった。しかしそれは男性と女性の立場が平等に近づくというようなものではなかったことはいうまでもない。
また優位とされた「中産階級以上の白人男性」という対象設定であるが、それが「男性」に限定されていることに注意しなければならない。筆者が今回のこの連載で主にとりあげようとする1960年代半ばから1970年代は、第二波フェミニズムの潮流が欧米から世界に広がっていった時期であるが、この運動の主要な担い手は、後から振り返ると「白人・中産階級・異性愛者の女性」であったということは、現在ではよく知られている。すなわちこの時期の「中産階級以上の白人女性」についてはまた別に論じる必要があるということである。
この時期のフェミニズムのあり方に幅広い影響を与えた代表的なフェミニズムのテクストとして挙げられるのは、1963年にアメリカで刊行されたベティ・フリーダンの『女らしさの神話』The Feminine Mystique、1970年のシュラミス・ファイアストーンの『性の弁証法』the Dialectic of Sex、そしてケイト・ミレットの『性の政治学』The Sexual Politicsなどであろう。
今回ここで取り上げようと思うのはこのケイト・ミレットのテクストである。1970年に出版された『性の政治学』は1973年に早くも邦訳されているが、このテクストと日本との密接な関係はそれほど広くは知られてはいない。
ケイト・ミレット(1934-2017)という人物と日本との関わりは極めて深い。『性の政治学』の邦訳者の一人でもある藤枝澪子によれば、ミレットは「英国オックスフォード大学で英文学修士号取得。1960年代初めに日本に滞在し、彫刻に開眼。65年彫刻家吉村二三夫と結婚、後に離婚。コロンビア大学博士論文を出版した『性の政治学』(70年、邦訳73年)により女性解放運動の最前線に躍り出る。バイセクシュアルであることを明らかにし、マスコミの攻撃を受け、大学の教職を追われる」(『岩波 女性学辞典』2002年)とある。吉村二三夫(註1)は東京芸大を卒業後アメリカに渡り、アメリカを中心に活躍した彫刻家である。一方ケイト・ミレットは文筆の分野と美術の分野で幅広い活躍をしており、その代表的なテクストによってだけではなく、フェミニズム美術史的な観点から、その美術作品も評価されている。当時バイセクシュアルであることを表明していた彼女は、吉村とも互いに自由な関係を保っていたようである。
さて『性の政治学』の日本語版の冒頭には「日本語版への序文」がある。これは1961年から1963年にかけて日本に滞在した時期に彼女の身に起こったさまざまな出来事について主に書いたものであるが、これが、当時のアメリカの白人女性と日本人女性、そしてアメリカの白人女性と日本人男性との関係の、半世紀前におけるややこしいあり方をリアルに語っていて、時代の証言として実に興味深いのである。そしてミレットが日本に滞在していた時期は、第二波フェミニズムの最初のテクスト、ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』が出版され、欧米で第二波フェミニズムが勃興する寸前の時期であったということを思うと、その偶然はさらに興味深いものに見えてくるのである。
またこの本の1970年に刊行された原著の冒頭には、当時の夫、吉村二三夫への献辞 For FUMIO YOSHIMURA という言葉が記されているように、日本との繋がりは彼女のこの本にとって重要だったことが読み取れよう。「日本語版への序文」によれば、ミレットにとって「日本ですごした二年間は楽しいもの」であった。またそれは一人の彫刻家として人間としての「意識を高める」ものであった。そしてさらに重要なのはそれが同時に「日本はまた、一人の女としての」彼女の意識を高めることになったという証言であった。
ミレットの文は文学者らしい具体的で臨場感に富んだ描写と、芸術家らしい繊細な人間観察で、日本社会に異分子として到来した彼女をめぐる当時の日本の人々の人間模様をよく伝えている。敗戦からようやく回復しつつあった日本の1960年においてまだまだ外国人は珍しかった。そんなこの国に降り立って、まず彼女が認識したことは自分が「ガイジンノ オンナ」であり、「日本で女が扱われる際の習慣的な軽蔑、常に局外者の位置におかれる欺瞞的(いんちき)な安全保障といったものから一時的にまぬがれて」いたことであった。さて、どういうふうに彼女はそこから免れていたのだろう。
彼女が白人男性であれば事態はもう少し簡単だっただろう。当時の白人男性と日本人男性のヒエラルキーはその意味では明確だったからである。しかし彼女は白人ではあるが女性であった。彼女自身の語りによれば彼女はそこで「ホワイト・ニガーとかアラバマに現われたアフリカ黒人の王子とでもいうような存在」であった。つまり彼女もまた被差別的な立場にある女性であり、そのことによって「わたしの国よりももっとあからさまに性差別主義(セクシスト)社会の中で、女であるとはいったいどういうことなのかについて、実に多くを学」ぶことになったのである。
まず日本人男性たちは、彼女に対して「西欧流の礼儀作法(エチケット)」いわゆるレディファーストの態度を示そうとした。彼らは自分たちが「国際人(コスモポリタン)、洗練された人間であることをわたしに見せるのが嬉しかった」のだと冷静に彼女は分析している。それは彼女自身に敬意が払われているというよりも、同胞の男性と同様、彼女がアメリカ人であり白人であることからきていたのだろう。こうして日常の慣習にはないレディファーストを実践してみせる日本人男性たちによって、同じ場所に存在しているものの不可視の存在になっていた日本人女性とは異なる特権的な待遇を彼女は享受することになった。
しかしこの特権は、逆にこの国の女性たちの置かれた状況を合わせ鏡のように映し出した。それは彼女が名誉白人のように、日本人男性集団のなかで一種の名誉男性として扱われたことで、それとの対比によって鮮明に見えてきたことである。なぜなら彼女に対する偽善的かつ慇懃な扱いとは裏腹に、日本人男性たちは目の前にいる彼らの伴侶などの女性に対しては決してそういう態度を示すことはなかったからである。彼らは彼女たちをいわば「召使」のように扱っていた。目の前で起こっているその事実が否応なく目に入ってくるにつれ、ミレットは次第に自分自身の特権に対するこの無自覚さが、彼女の目の前で「目をふせて給仕している」同じ女性である彼女たち、いわば姉妹(シスター)である彼女たちにたいする「裏切り」であることに耐えられなくなってくる。
彼女は「ガイジンであり、芸術家であり、米国人―GI、征服者、人種差別主義者と同じ人種――であるという特別な事情によって、男たちと席を同じくし、談笑することを許された」に過ぎなかった。初めのうち彼女は「おだてられ、仲間の女たちよりも上位になり、考慮に値する人間として選ばれ、知的な話題で意見を求められ、まじめに耳を傾けられ、インタビューまでされる」その立場を堪能していた。それは目の前で「ご馳走を供するために台所を出たり入ったりで駈けずりまわり、食事を出せばあとはまるで召使よろしく座をはずすものとされている女たちの役まわりよりは、会話に加わっているほうがずっとおもしろいにきまって」いるからである。
しかし彼女はやがて「夢からさめ、自分の特権のもつきわめて見かけ倒しの性格を見定め、自分と同族の女たちをおとしめたわたしの共犯性を恥じなけれならな」くなるのである。
「オイ」、「コレヲ モット」、「アレヲ モット」と横柄にどなり声をあげ、傲慢に手を叩く、そこには見わたした中で自分こそ主人たるべく生まれついていると自覚し、ゆかたにでっぷりした肉体を包んでゆったりとおさまり返り、「ダンナサマ」とか「オヤジ」としての優越性はもって生まれたもので、確固不動のものと思い込んでいる姿がそこにはあり、それにこたえて、廊下をぱたぱたと走る足音がするのでした。いまや彼はわたしに向かってテーブルに指で漢字を書いて見せ、女がほうきに従属し、男に服従すべきものとして生まれたのは天命だと、得々として説明までしているではありませんか。満面に笑みをたたえて、孔子はこう教えている、釈迦はこう語った、佐藤首相はこういって妻をなぐった、きのう新宿のバーでタナカくんがいったとてつもなくおかしな話等々。彼が陽気につぎつぎと侮辱を浴びせかけるのを聞きながら、日毎にうっ積していたわたしの激しい怒りが煮えくり返りました。わたしを前にして女をそしることばをこんなに吐くなんて、彼はわたしを男だとでも思っているのだろうか。
彼女はここでこの怒りを吐き出したくなるが、しかしそれはできないのであった。それはなぜだろうか。ケイト・ミレットの観察眼の鋭さとその分析の的確さはむしろこの先の次の言葉にあるだろう。
だがわたしに期待されているのは、「愉快な冗談」として全てを笑いとばし、彼のいばりくさったユーモアは本心ではない、つまり、他人(ひと)をおどしたり、権利を奪ったり、閉じ込めたりするたぐいのものではないというふりをすることにあったのはいうまでもありません。
これはのちに社会学者・江原由美子が、ウーマンリブ運動に対するマスコミのとり上げ方に典型的に見られた「からかい」における日本的な差別のあり方について分析した「からかいの政治学」(1985)に見られるからかいの構造を思い起こさせる。日本では女性に対するあからさまな行動としての性差別があった一方で、言説としてはそれを冗談として済ませるような手法でその暴力性や権力性を覆い隠していたということがわかる。
女性差別はいうまでもなく欧米にも存在していた。先述の日本人男性たちが彼女に対して発揮して見せたレディファーストなるものも実は欺瞞的なものであることにケイト・ミレットは気づいていたか、あるいは気づかざるを得なかった。
西欧では幾世紀にもわたって「騎士道」と称する、ちょっとした偽善的ないんぎんさを女に示して、男が支配する体制を隠蔽してきたのにたいし、日本人は男性の権力(メイル・パワー)というきびしい現実をわざわざ取りつくろったりすることはけっしてなかったからです。
ミレットは、ここで西欧流の「騎士道」由来のレディファーストも男性支配体制の「隠蔽」に加担していたにすぎないことを指摘しているが、さらに付け加えるならば、西欧社会の「騎士道」が欺瞞的であるように、あからさまな差別を「愉快な冗談」と見せかけることによってそれへの反論や正当な批判を封じ込めるることが、日本での性差別を覆い隠す手法であったといえようか。
ミレットはこうして日本の性差別の諸相を発見することで、自分たちの西欧文化がそれとは異なる平等なものであることを再発見したわけではなかった。むしろ日本社会でのこの経験は、一見日本よりはマシに見えるアメリカの状況も、蓋を開けてみれば同じようなものであることに気づくことになったのである。こうして日本社会で経験した部外者として見聞きした諸矛盾は、アメリカに帰ってから当事者として「米国もまたまがいものでしかないという事実」の自覚を促すことになった。彼女がここで描きだしていたのは、第二波フェミニズム寸前の、1960年代初頭の日本とアメリカの現実であった(注2)。
ケイト・ミレットが日本を訪れていた1960年代初頭、身についていないレディファーストを実践し、そのように「ガイジン女性」の前で振る舞うことで自分が国際人で洗練された人間であることを証明する一方で、もう少し打ち解けてくると、酒の勢いなどを借りながら、女とは男に従属すべき存在なのだ、と白人女性である彼女の前で、あえてそれを冗談として語って見せた日本人男性のその振る舞いの動機はどこからきたのだろうか。彼にはもしかすると冗談を装いながらも、そうせずにはいられない衝動や心的な動機があったのではないだろうか。
またケイト・ミレットはこの序文のなかで、この時代に日本の女性の芸術家たち、独身であれ、既婚者であれ、そうした女性たちが創造的な仕事をするにあたっていかに過酷な状況に置かれていたかを描き出しているが、なぜこうした事実に当時男性たちは間近にいながら目をつぶることができたのだろうか。そしてこうした過酷な現実があったにもかかわらず、なぜ日本では、この国を母性社会と呼んだり、日本は女性が強い、故にフェミニズムは必要ない、といった言説が長きにわたってはびこることになったのだろうか。そしてなぜ2025年の現在でさえも、日本のジェンダーギャップ指数は148カ国中118位にとどまっているのか。その理由はもしかすると日本人男性が西欧文化に対してもっていた複雑な感情と深く関わっていたのかもしれない。次回からは、主に芸術、文化、セクシュアリティの観点からこの問題についてさらに考えていくことにしたい。
=====================
註1)吉村二三夫の名前には「二三夫」と「二三生」の記述が見られる。ここでは近年の多くのテクストに見られる「二三夫」の記述に従うが、邦訳『性の政治学』では「二三生」と記述されており、引用部分に関してはそのまま表記した。
註2)とはいえミレットを援助した画家、桂ユキ子(のちの桂ゆき)への深い感謝の念、また批評家の瀧口修造、東野芳明、南画廊の清水楠男との交流について敬愛の念を込めて記すことも彼女は忘れていない。そのなかでも最も長く筆を割いているのは、日本では稀有な芸術家カップルの例、「一つだけ全く非類型的な」例のことであった。それこそがのちに夫となる吉村二三夫と当時の伴侶である芳子との関係であった。二三夫は、芳子の才能を信じ、家事も分担していたが、それを周りの連中は批判的にからかうように見ていたという。「吉村って奴はどこかおかしいんだ。あいつは平等主義者で、買物かごをぶら下げて自転車でマーケットへ買い物に行くのさ。これほどばかげたことってあるかい?」と同調を求めるように、周りは言い笑い声を立てたという。しかしミレットから見ると彼らこそは「魅力に富んだ」カップルであった。ミレットは芳子の芸術家としての魅力にも強く惹かれていたようである。芳子はその数年後に病に倒れ亡くなることになるが、「絵を画くのを止め、赤ん坊を産んで二三生につくすことを期待するクラスメートたち」「二三生が主人らしく振舞わず、家庭の雑用を手伝うのは彼女のせいだと小言をいい、嘲って、罪の意識でいっぱいに」した「夫婦共通の友人たち」、そうした周りの圧力によって「どんどん弱気になり、収入を得る仕事に力を入れて、画業のほうをおろそかにして」いった芳子をまじかで見ていたミレットは「ある点では、彼女は日本によって死んだのだ」と思わされることになったのである。
榊山裕子 テクスト効果バックナンバーは下記のリンクから
テクスト効果バックナンバー