「無知と機知」再考
前回、わたしは2003年、今から20年以上前に書いた「無知のレッスン」というエッセイを、蔵ならぬファイルの彼方から引っ張り出してきた。しかし実は、その7年後にも、書きかけのまま置き去りにしていた「無知」というテーマに関わる文章があった。
2010年12月、精神分析ゼミ「トピカ」で、「無知と機知」という題で発表したときの草稿である。その発表は、実のところ未完に終わった。「機知と性差」「機知と快」という二つの導入に時間をかけすぎ、本題であるはずの「無知と機知」については、最後にごく短いスケッチを示しただけで終わってしまったのである。しかし、16年経った今、その草稿を読み返してみると、その後の展開をまだ知ることのできなかった時点で、仮説として提示されていた、未来への問いかけが、そこに記されていたことに気づいた。
それは、女性と笑いの問題である。
当時も女性芸人はいた。しかし、多くは「紅一点」と呼ばれるような立場であり、「女性が人を笑わせる」ということ自体が、まだどこか例外的なものとして受け止められていたように思う。
その後、状況は少しずつ変わっていった。「女芸人No.1決定戦 THE W」が始まったのは2017年である。女性だけを別枠で競わせること自体には議論の余地があるものの、少なくとも当時は、それまで見えにくかった女性芸人の存在を社会に印象づける契機にはなった。女性芸人が突然増えたわけではない。変わったのは、女性が「笑わせる側」として見られるようになったことである。
もっとも、この変化は単に女性芸人の問題ではない。笑いを受け止める側の社会が、女性の笑いをどう見るかという問題でもあった。そんなことを考えているうちに、16年前に途中で放り出した問いを、もう一度考えてみたくなった。
まず、2010年の発表で手がかりにしたフロイトとラカンの議論を、ごく簡単に振り返っておこう。フロイトによれば、「滑稽」は笑う者と笑われる者の二人がいれば成立する。しかし、「機知」にはもう一人、笑いを共有する第三者が必要になる。ラカンはこれを言語の問題として読み替え、「機知」が成立するためには、「それは機知である」と受け止める〈他者〉の存在が必要だと考えた。
このことを思い返すと、前回取り上げたヒコロヒーの「村の生贄」というコントも、少し違って見えてくる。コントの内部では、ヒコロヒーの言葉は村長の前での「たわごと」にすぎない。しかし、舞台の外にいる観客は、その「たわごと」を機知として受け止め、笑う。機知は、作品の内部ではなく、その外側で成立しているのである。このことは、「おしゃべり」と呼ばれ、長いあいだ軽く扱われてきた女性の言葉を考え直す手がかりにもなる。
しかし同時に、逆の問いも浮かんでくる。男性の「機知」は、なぜ単なる「おしゃべり」と区別されてきたのだろうか。
フロイトは『機知――その無意識との関係』のなかで、強い快をもたらす「傾向的機知」を、「敵対的機知」と「わいせつな機知」とに分けて論じている。とりわけ興味深いのは、「わいせつな機知」の分析である。フロイトによれば、その原型は男性が女性に性的な話を持ちかける誘惑の場面にある。しかし男性だけの集まりでは、女性は語りかけられる相手ではなく、話題の対象へと退き、その場では男性同士が笑いと快を共有する。女性への欲望は、ここでは男性同士の共犯的な笑いへと姿を変える。笑いはいつしか、男性同士の連帯を確認する儀式にもなるのである。
機知を語る者。その対象となる者。そして笑う第三者。
本来なら、この三つの位置に性別は決められていない。しかしフロイト自身の分析を読むと、その配置はかなり偏っている。女性は機知を語る主体としてではなく、機知の対象として位置づけられることが多いのである。この構図は、前回取り上げたマンスプレイニングともどこか似ている。そこでは女性は「知らない者」とされ、説明される側に置かれる。こちらでは、笑いの対象に置かれる。知の配分は、笑いの配分でもあったのである。
さて、ここからが、2010年の発表で最後まで語ることのできなかった部分である。当時の草稿には、こんな一節が残されていた。
女性が発する言葉が人々を笑わせる光景がしばしばテレビなどでも見られ、それが主に「天然ぼけ」や「無知」の装いを伴っていることに注目してみたいのである。そこにあるのは本当の「無知」なのだろうか。それとも女性の「機知」は、「無知」という装いを借りることで効力を発揮してきたのか。
16年という歳月は、この問いを古くするどころか、むしろ具体的に考え直すための材料を与えてくれた。もし「機知」が〈他者〉による承認を必要とするのだとすれば、その〈他者〉が長いあいだ男性中心の共同体によって支えられてきたかぎり、女性にとって真正面から機知を語ることは容易ではなかったはずである。
だからこそ、「天然」や「無知」は、一つの迂回路になったのではないか。「無知」を演じることによって、正面から承認を求めることなく笑いを生み出す。そう考えるなら、「天然」は機知の反対ではない。むしろ、「天然」は、機知が身につけた歴史的な仮面の一つだったのである。
前回わたしは、モリエールの『女房学校』を手がかりに、「無知を教える」という逆説について考えた。そこで教えられていたのは、本当に無知でいることではない。知っていても、それを知らないかのように振る舞うことだった。知ってはならないことの周囲に、点線のような空白をつくり出す技術である。
今回考えてきた「天然」も、その延長線上にあるように思われる。女性に「無知」を装うように仕向けることは、女性を従属させるための技術だった。しかしその一方で、それは女性が笑いを積極的に生み出すための別の回路にもなった。真正面から機知を語ることが難しいとき、「無知」という仮面をかぶることで機知を成立させる。そこにはたしかに一つの知恵があり、一つの抵抗があった。しかし、だからといって、「天然」や「無知」をそのまま肯定することはできない。
抵抗は、しばしば既存の秩序の内部で生まれる。だからこそ、それは秩序を揺るがすこともあれば、逆に秩序を支えてしまうこともある。
王のそばにいる道化がそうである。道化は王を笑うことができる。しかし、道化であるかぎり、王の地位そのものを覆すことはない。むしろ王を笑うことのできる空間をつくることで、王権を別のかたちで支えているとも言える。
「天然」という仮面も、どこかそれに似ている。女性は「無知」であるという前提を利用しながら、その内部で自由に語る。しかし、その自由は、「女性は無知である」という前提を一度は受け入れることによって成り立っている。
こうしたことを考えていると、わたしはお笑いコンビ、ハリセンボンの箕輪はるかが「IPPON女子グランプリ」で優勝したときのことを思い出す。これは2022年に放送された企画で、大喜利形式で機知を競う人気番組「IPPONグランプリ」の女性版である。女性だけの大会が企画されたこと自体は画期的だった。しかし通常のIPPONグランプリと異なり、「芸人ブロック」と並んで「タレントブロック」が設けられ、両ブロックの優勝者が総合優勝を争うこととなり、芸人ブロックの箕輪はるかとタレントブロックの滝沢カレンが対決した。最終的に勝者となったのは箕輪はるかだったが、わたしにはむしろ、女性芸人の専門性が、タレントの「面白さ」と同じ土俵で競われていることの方が気になった。箕輪はるかが、現在ではさまざまな大喜利番組で、男女を問わず一目置かれる存在となっているだけになおさらである。
滝沢カレンの魅力を否定したいわけではない。彼女は自分が芸人ではないことをよく理解したうえで、その自由な言葉遣いを成立させている。問題は個人ではない。女性の笑いは、専門的な技芸としてではなく、「天然」や「素人らしさ」と地続きのものとして受け止められがちなのではないか、ということである。
2010年の草稿を読み返していて、もう一つ興味深く思ったことがある。当時のわたしは、「女性が『機知』を当たり前に発する世の中」が来ることを期待するだけでなく、「機知」を支えてきた男性同盟そのものが変化することで、そこから新しい機知のあり方が生まれるのではないか、とも書き残していた。そして、そのときに起こるであろう、男女の新たな「共犯性」についても考えてみたい、と結んでいる(注1)。
ただ当時において、それは理論的には語り得ても現実は伴っていなかった。16年を経た今、その予感はどこまで現実になったのだろうか。女性芸人は増え、女性が笑いを生み出すことも以前ほど特別なことではなくなった。しかし、わたしの問いはまだ残っている。女性は、「天然だから面白い」「女性なのに鋭い」といった枠組みを離れて、そのまま機知を語る主体になれているだろうか。あるいは、いまもなお、何らかの「仮面」を必要としてはいないだろうか。
2010年のわたしが思い描いた「来るべき機知」は、まだその途上にあるように思われる。この問いは、おそらく笑いだけの問題ではない。女性の知や専門性が、どのように承認されてきたのかという問題にもつながっている。そのことについては、また別の機会に考えてみたい。
注1)この草稿の最後の部分は次のように書かれていた。
<しかしもし「無知」の装いが「機知」の代理を果たしていたとするなら、それは女性の社会的地位が、「女子供」と言われるように子供と相似的なものとして考えられてきたからであろう。
それゆえ、大げさに言えば、女性が「機知」を当たり前に発する世の中が到来してこそ真の男女平等は実現するということになるのかもしれない。あるいはまたそれとは別に「機知」を介した「男性同盟」がその効力を一定程度喪失したところから、また新たな「機知」のあり方が再編成され、その際、女性が発する「機知」も「機知」として効力を発するようにわれわれの言語の在り方が変わる時代が来る、ということも考えられよう。あるいはまたわいせつな機知をセクシュアル・ハラスメントとして断罪する傾向が20世紀にはあったとして、それが一定程度の役目を果たした21世紀の現在、筆者としてはむしろこうした「機知」における男女の共犯性について考察してみたいと考えている。こうしたことを語る際に女性が被害者の場に身を置く時代は既に過ぎつつあると思うからである。そしてそうした新たな段階であらためてまた性差を伴った機知に人々が新たな快を見いだすということも考えられるだろう。そうした来るべき「笑い」について思いを馳せることを含めて、次回の発表としたいと考えている。
(2010年12月16日)>
この「次回の発表」が今回の16年ぶりのエッセイということになる。
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