笑ってはいけなかったはずのもの――ヒコロヒー「村の生贄」
先回は「ダークヒーローになれなかった女性たち」というテーマだった。それは、古典的な女性役割とは異なる役割を掴み取ろうとした女性が、結局それを掴み損ねる話であった。今回は逆に、古典的な女性役割を律儀に引き受けようとすることで、かえってその役割に収まりきらなくなる話ーー女性お笑い芸人ヒコロヒーの「村の生贄」というコントについて考えてみたい。
それは、雨が長く降らないある村で、雨乞いとして、その村で最も美しい生娘が生贄として差し出されるという設定の話である。どこかで聞いたことのあるような設定であるし、筋書き自体はほとんど説明を要しない。選ばれた女性は運命を受け入れ、共同体のために犠牲になる――そうした物語は、神話や昔話のかたちで、いくらでも思い浮かぶ。
ここに登場するのは、ヒーローではなくヒロインである。それも体制に対してアンチを唱えるダークな存在ではなく、体制に順応し、自分の運命を受け入れようとする女性の話である。本来であれば、これは悲劇になるはずの話である。あるいは、もう少し言えば、悲劇として扱われることで、ようやく安定する類の話である。そこにあるのは、同情であったり、崇高さであったり、いずれにしても「笑う」ことからは遠い感情である。
しかしここではこのシチュエーションが笑いに転化されていく。
舞台の中央に、生贄として選ばれたヒコロヒーが一人、椅子に座っている。彼女は生贄になるという運命そのものには抵抗しない。逃亡を企てるわけでも、制度の不条理を告発するわけでもない。ただ待機中の時間に、目の前にいると想定されている村長に対し、客席に向かって、延々と饒舌に不満をこぼし続けるのである。
その不満の核心は、生贄にされる恐怖ではなく、選ばれたとはいっても、八番目という中途半端な順位であったことに向けられている。一番目、二番目あたりの上位の娘たちの美貌は認めるとしても、少なくとも七番目の女性よりは自分の方がマシだったのではないかということを彼女は気にかけている。また彼女の次の九番目に至っては、生娘どころか、子供が九人もいるではないかと不満を述べる。そもそもこの村には十二人しか女性がいないという驚きの事実まで露呈する。このあたりでこの制度の矛盾も顔をのぞかせるのだが、その点に特に重きが置かれるわけではない。彼女の不満は彼女の順位が、「選ばれた」と自らに言い聞かせるにはあまりにも中途半端であり、テンションが上がらないという個人的な感情の次元にとどまっている。こうした個人的で世俗的なナルシシズムは、共同体の崇高な儀式という枠組みと噛み合わない。
そうしてみるとこれが「お笑い」として成立するのは、生贄になる本人が延々と自己語りをしているからかもしれないと考えてみることができる。つまり生贄についての話を美しい悲劇にするのは、周りの人であって、通常、本人ではないのである。
とはいえ、このコントにおいて、ヒコロヒーの演じる女性は、女性が慣習的に役割とされてきたもの、すなわち古い意味でのジェンダー役割を逸脱しているわけではない。彼女は犠牲者として生贄になることは受け入れている。長老に対して抵抗するわけではない。彼女は古典的な女性役割に疑問を呈することはなく、従順なのである。
一方で、他の女性に対するささやかな嫉妬心や女性的なナルシシズムも、古くから女性的とされてきたものである。こうしたことにこだわるのは、男性の美的評価を気にする「女性らしさ」のヴァリエーションである。この点でも彼女は古典的な女性役割に固定されているといえる。
しかし一つ一つ見ると特に意外性のないこの設定が、なぜ笑いを生むのかといえば、この二つの女性的役割の組み合わせが奇妙だからなのかもしれない。崇高な犠牲者になる女性と、ささやかな嫉妬心に惑わされる愚かな女性とは、同じ女性性とされている役割ではあるが、同時に演じられるものとはされてこなかったのではなかったか。
ある種の笑いがズレによって生み出されるのだとしたら、ここでのズレは、女性役割からの逸脱というよりも、女性役割同士のあいだに生じるズレなのかもしれない。
さらに付け加えるならば、彼女の「おしゃべり」そのものもまた既成の女性役割そのものといえる。長い間、女性は、崇高な役割を理解し得ず、あらゆることを日常的な次元で解釈し、おしゃべりや噂話の対象としてしまうとみなされてきたように思う。女性の語りは、掟や法のような、より崇高な意味を扱う言葉とは別のものとされてきたのである。
ここでもその設定そのものは特に疑問に付されることもなく、物語は進行する。最後に彼女の理不尽な役割が執行されないのも、彼女のおしゃべりによってその矛盾が暴かれたからではなく、ただ彼女が生贄になろうとする刹那に、雨が降り始めたからに過ぎない。
しかし現代人であるわれわれはこうした慣習が迷信に過ぎないことをすでに知っている。そう考えると、女性のおしゃべりは本当に無意味なものだったのだろうか、という問いが残る。長く無意味なものとされてきたその語りのなかに、別のかたちの真理が潜んでいたのではないか。
ヒコロヒーのどこか古典的な笑いが、現代的な笑いとして静かに立ち上がってくるとすれば、その理由はこのあたりにあるのかもしれない。
参考動画:ヒコロヒー「村の生贄」
榊山裕子 テクスト効果バックナンバーは下記のリンクから
テクスト効果バックナンバー
「セミネール通信」2026年5月号表紙に戻る
