テクスト効果 2025-2026

第6回 ダーク・ヒーローになれなかった女性たち
榊山裕子

ダーク・ヒーローになれなかった女性たち


 先日、ある論考を書くために戦前のいわゆる「変態言説」をいくつも読むことになり、あらためて一つの事実について考えさせられた。それは、そこに関わる人々が、ほぼ例外なく男性であるということである。

 現在では「変態」という言葉は、軽蔑や嘲笑を含むものとして用いられることが多い。しかし戦前においてこの語は、性科学や精神医学、さらにはそれと接続する猟奇趣味的な雑誌文化のなかで、治療や矯正を目的とする専門的な言説にとどまらず、むしろ広く文化的関心の対象として流通していた。その過程で、この語はある種の知的関心の対象として扱われるようにもなった。そこに関わった人々の多くは高等教育を受け、必ずしも典型的なエリートではないにせよ、当時の知的中間層、あるいは準エリート層に属していたといえる。

 にもかかわらず、いやむしろそれゆえに、「逸脱」はほぼ一貫して男性の欲望として語られていた。とりわけ性に関わる領域においては、女性は語る主体ではなく、観察される対象であり、記述される身体にとどまっていた。もっとも、当時においても性について語る女性がまったく存在しなかったわけではないが、それは主として芸者などの「玄人」の領域においてであった。そもそもそこでは男性の欲望に応じて、ある種の女性的なるものが非日常的空間で演じられていたのであり、その意味でそこでの逸脱は、男性にとって真に危ういものになることはなかった。

 しかし日本の「変態言説」が参照した、西欧から輸入された性科学は、女性を単なる対象ではなく、欲望をもつ人間として観察しようとしていた。それが同時に新たな客体化を伴っていたとしても、そこでは女性一般の性や女性自身の欲望に対して、ただならぬ関心が向けられていたといえる。

 すなわち、こうした言説を読み、論じる男性たちは、女性を、素人・玄人の別を問わず、欲望する存在として認識せざるをえなくなっていった。そのことが逆に男性の欲望を刺激する一面もなかったわけではないだろう。しかしそれは、日常にもそうした逸脱が侵食してくることを意味し、感覚的にはどこか不安や恐れを伴うものであったと考えられる。すべての女性が性的欲望をもつ主体として現れうるという事態は、男性にとって、日常空間で制御しえない他者に直面しかねないことを意味するからである。こうした不安に直面した時、人はなんらかの防御を考えるが、それでも自分の欲望は手放すことはできない。

 実際、戦前の日本の変態言説のなかでは、ピグマリオニズム――すなわち生身の女性を忌避し、人形や人工物に欲望を向けるという観念――が、繰り返し、しかも執拗に語られている。それは、女性が主体として現れる可能性を感知しつつあったからこそ、それを回避しながら、その不在を埋めようとする欲望の形式であったのではないか。

 こうした欲望のあり方は、単なる個人的な嗜好として理解されるべきものではなく、当時の知的制度や教養の枠組みの内部で形成されていたものでもあったと考えられる。当時、男性と女性のあいだには、「知」と「教養」をめぐるダブルスタンダードがさまざまに張り巡らされていた。

 「変態言説」がほぼ男性の占有物であったのも、当時の「教養」の制度の非対称性そのものに由来していたのではないだろうか。芸術的表現においても、異常、異端、逸脱といった語が指し示す、表現の裏街道が逆に特権化されるような位置、すなわち丸山眞男のいう「アウトサイダー的知識人」や「高等遊民」に通じる位置は、基本的に男性のものであった。

 こうした位置に立つことは、教養的主体が自己を反転させることによって獲得する、もう一つの特権的な位置、いわば裏側からのエリート性である。だとすれば女性は、その反転の前提となる教養的主体の位置そのものを十分には与えられていなかったため、逸脱することによって自己を再編成するという運動、すなわち逸脱の主体としての位置取りからも排除されていたことになる。

 戦前、男性と女性では、そもそも与えられる教育が異なっていた。それゆえ、女性が反転しえた規範が、当時の女学校におけるいわゆる良妻賢母教育に限られていたとするならば、そこから形成される逸脱の回路にも、おのずと限界があったのかもしれない。

 もっとも、その外部において、性や身体を媒介とするかたちで語りの位置を得ながらも、豊かな教養や社交的能力によって一定の承認を受けていた女性たちも存在していた。しかしそれは、教養的主体の延長としての逸脱とは異なる回路に属していたといえる。女性たちがこのように二つの空間に分断されていたのに対して、男性はその両者を比較的自由に往復することができた。男女の差は、表における高等教育の差にとどまらなかった。広い意味での教養、とりわけ性に関わる文化的教養において、表通りと裏通りの双方を歩きうること自体が、男性の特権であった。

 一方、同時期の西欧では、精神分析が女性が自らの欲望を語ることを可能にする言説空間を形成しつつあった。そこではのちにフェミニズムが批判するような女性性への偏見がいまだ払拭されてはいなかったものの、それでもなお「語る主体」としての女性の萌芽が見られる。この連載で先回扱ったジョアン・リヴィエールの「仮装としての女性性」(1929)が書かれたのもその頃のことである。それに対して、日本の変態言説においては、欲望は語られても、それを語る主体は一貫して男性にとどまっていた。女性を主人公として男性がそれを描くことはあったとしても、それは女性が主体として語ることではなかったのである。

 同時代の日本においても精神分析は紹介されつつあり、古澤平作が1930年代前半にフロイトを訪れていることも、その一端を示している。しかし多くの日本論と同様に、そこでは実際の女性の問題に先立って「日本」という問題が前景化されており、そのことが女性の主体化の問題を後景に退かせていたとも考えられる。そこには、「日本」そのものがどのように主体として位置づけられるのかという問題が、背後で強く意識されていたのかもしれない。


 それでは戦後、女性が男性と同等の高等教育を受けることが可能になり、女性を二つの領域に隔てていた性の制度も公的には解体されたように見えるなかで、事情は大きく変わったのだろうか。たしかに女性の意識は急速に変化したかもしれない。しかし男性中心社会の構造そのものは、そう簡単には変わらなかったのではないだろうか。

 このような男女の非対称的な配置は、性をめぐる言説の水準においてもまた、特有のかたちで現れていた。「正常」や「異常」といった区分は、あらかじめ存在するものではなく、ある時代の言説が与えた位置づけにほかならない。そのことを踏まえたうえで言えば、こうした世俗化した性言説においては、極端に言えば、女性はヒステリーとして記述されることはあっても、逸脱の主体としてはほとんど扱われなかった。行為としての逸脱を演じることはあっても、それを自覚的に引き受ける主体としては位置づけられず、その多くは女性の性、いわば女性の「自然」に回収されたのである。

 つまり、先に述べたような制度的配置のもとで、女性は男性中心の言説空間において、「正常」そのものが男性を基準として制度化されているため、その外部に置かれていた。その結果、正常を基準とした「異常」として自己を位置づける回路を持ちえず、あえて異端の道に踏み込む回路も閉ざされていたのである。ここで言う「閉ざされていた」とは、個々の女性の能力や資質の問題ではなく、そうした位置を割り当てる言説の構造そのものを指している。そのため非理性的な振る舞いは、逸脱や異端とはみなされず、また教養的な遊戯やディレッタンティズムとも位置づけられることなく、女性の「自然」という説明不要の箱に放り込まれていった。

 性に関して女性が自覚的に発する言葉に対する反応が、長く過敏なものであったことは、ウーマンリブ運動に対する当時の社会の執拗な揶揄や糾弾からもわかることである。

 異端的な振る舞いという点でいえば、著名な女子受験校から国立大学に進み、一九八〇年代に当時の性のタブーに果敢に挑戦したAV女優・黒木香は、それに見合うだけの評価を与えられてきただろうか。彼女はそこで、逸脱する主体としてではなく、やはり対象として消費されるにとどまってはいなかっただろうか。ここでもまた、ダーク・サイドのヒーローを気取ることができるのは、男性の特権だったのではないだろうか。

 一方、革新的とされる少女漫画の領域に目を向けると、そこでも奇妙な非対称性が見出される。逸脱や異端の位置に立つ主人公が描かれる場合、それはしばしば「少女」ではなく「少年」として表象されてきた。少女の身体のままでは、主体的に逸脱する位置を担うことが困難であったのかもしれない。

 男性の直接的な検閲が希薄であるように見える少女漫画の世界においてすら、このような配置が繰り返されてきたとすれば、そこにもまた、主体と逸脱をめぐる非対称な構造が働いていたと考えるべきだろう。

 芸術表現として描かれてきた逸脱や異端の物語のなかでは、一見女性が主人公に見える場合であっても、それは女性の主体的な選択というより、女性という性の「自然」に由来する、いわば本人の意思を超えた力に突き動かされているかのように語られることが多かった。そしてそれでもなお収まらない場合であっても、それはしばしば女性性の枠内に回収されるかたちで処理されてきた。

 すなわち女性は、哀れなヒロインとして語られることはあっても、自覚的に悪であろうとする裏のヒーローにはなりえなかったというわけである。

 逸脱的表現が、教養的主体の自己反転によって獲得される特権的な位置、いわば裏側からのエリート性を帯びていたとするならば、女性はその前提となる位置を十分には与えられていなかった。その結果、逸脱を通じて自己を再編成する主体、すなわちダーク・ヒーローからも、長く排除されてきたのである。そしてその構図は、はたしてどこまで過去のものとなったのだろうか。


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