ファッションと政治―女性性という仮装
ファッションとしての政治
政治家とファッション誌、少なからず違和感を感じさせるそのような組み合わせの特集が、最近組まれたことを、上野千鶴子のブログ「高市高支持率の謎」で知った。
雑誌は『éclat』2026年2・3月合併号。「時代の”動き”を変える人 高市早苗 そのエナジーの正体」というタイトルの特集だ。書き手は斎藤薫(美容ジャーナリスト)、中野香織(服飾史家)、岡本純子(コミュニケーション戦略研究家)と、それぞれの分野で第一線にいる人々である。書店の雑誌コーナーで、WiLLやHanadaのような雑誌の表紙を高市が飾る光景には、だいぶ目が慣れてきたが、美容院などで何気なく眺めるようなファッション誌のこうした特集はこれまで目にしたことがなかったので、さすがに目が一瞬点になった。しかも、そこに並んでいる言葉は、どこか既視感のある、雇用機会均等法以前のキャリアウーマン像を思わせる、レトロなレトリックである。それは例えば次のようなものである。
もしこの人がただ猛烈なだけの仕事人であったらこんな支持は得られていない。同時に“愛らしさ”を併せ持つからこそ、働いて働いて……も好感度に変わったのだ。(斎藤薫)
首相の装いは、日本の女性リーダー像も塗り替えつつある。権威的でもなく、媚びてもいない。行動力と品格を両立させ、「私のまま」でいいと覚悟を決め、周囲をユーモアとあたたかさで巻き込みながら成果を出していく、しなやかな強さを持つリーダー。(中野香織)
ここにみられるのは、女性を語るときに繰り返されてきた独特のレトリックである。それは、意味として対立する二つの語を必ずワンセットにして提示するという形式をとる。
猛烈/愛らしさ
権威/媚び
強さ/しなやかさ
このワンセットの背後にあるのは、男性的/女性的という古風な二分法である。言い換えれば、男性性と女性性の双方を同時に体現する人物像が作られているのである。「猛烈/愛らしさ」「強さ/しなやかさ」の場合は男女両者のジェンダーに付与されたプラスのイメージを促進するために肯定形が使われる。マイナスなイメージを帯びることの多い「権威/媚び」の場合は、「権威的でもなく媚びてもいない」というように否定形を使うことで、二重のダメージを負うことのないように予防線を張る。
こうしたレトリックは、女性が公的な場面に進出していくようになった時代と関連している。女性が公的な権力の場に登場するとき、この二重性はしばしば要求される。それは単なる形容の技巧ではなく、それまで女性性とされてきたものと、公的場面での仕草の折り合いがよくはないからである。女性が男性性を帯びた振る舞いをする時、同じ行為であってもその意味は変わる。強さはしばしば冷酷さとして読み替えられるのである。
つまり、同じ行動であっても、それを行う主体が女性であるというだけで評価の意味が変わってしまうのである。ここではプラスであるはずの男性性イメージに、女性性のマイナスイメージが覆い被さって、ダメージを深くしてしまう。こうしたイメージに戸惑う人々の違和感を鎮めるために、さまざまな装いのレトリックが繰り出される。強さだけでは冷酷に見える。柔らかさだけでは頼りない。そこで二つのイメージが組み合わされて、その違和感に対処しようとするのである。
興味深いのは、ここで語られているのが「政治」そのものではなく、まず「装い」であることである。女性政治家について語るとき、政策よりも先にその外見や振る舞いが語られるという現象は、決して珍しいものではない。この点で、ファッションと政治は思われているほど無関係ではない。むしろ女性が権力の場に立つとき、装いはしばしば重要な意味を持つ。ファッション誌がその点に注目したのもその意味では必然であったともいえるのである。
仮装としての女性性
この構造は、20世紀初頭に精神分析家ジョーン・リヴィエールが「仮装としての女性性」と呼んだものを思い起こさせる。リヴィエールの1929年の論文「Womanliness as Masquerade」は、男性社会に進出しはじめた女性たちの振る舞いを観察したものである。彼女が注目したのは、仕事で成功した女性が、その成功のあとに強い不安を感じるという現象だった。
会議で見事な発表を行った女性が、その直後に男性からの承認を求める。しかもそれは単なる仕事上の評価ではなく、女性としての魅力の確認でもある。リヴィエールはこうした振る舞いについて、女性らしさが仮面として装われる可能性を指摘した。女性が男性的な能力を発揮したあと、あえて女性らしさを誇示するのは、男性からの報復への不安を和らげるための防衛だというのである。
女性が恐れるのは、自分が男性性を所有していることを知られることである。それゆえ女性は、男性的な成功を収めたあと、今度は女性性を誇示する。リヴィエールはこれを、盗人がポケットを裏返して「何も持っていない」と示す振る舞いになぞらえている。
この分析が重要なのは、女性性を「本質」ではなく「演じられるもの」として捉えた点にある。女性性とは自然な性質なのではなく、ある状況のなかで演じられる役割でもある。この問題は、ラカンの精神分析やフェミニズム映像理論のなかでさまざまに読み替えられ、その後、ジュディス・バトラーによって、ジェンダーとは社会の規範のなかで反復される行為によって作られるものでもあると論じられることになる。そう考えるなら、女性を語るときにしばしば現れる「強さと柔らかさ」「猛烈さと愛らしさ」といった対立する形容の組み合わせも、女性性という仮装の空虚さを暴くものというより、それを成立させ続けるためのレトリックとして理解することができるだろう。こうした二重性のレトリックは、時代に応じて微調整されながら、社会の違和感を調停する言葉による装置として働いているのである。
そう考えるなら、衣服や装いがこの演技のなかで重要な役割を果たすことは偶然ではない。ファッションとは、しばしば女性性を演出するための舞台装置でもあるからである。ファッション誌が女性政治家を語るとき、そこに現れているのは単なる衣服の問題ではない。女性が権力の場に立つときに要求される女性性という仮装が、装いという言葉のなかで語られているのである。女性政治家の笑顔がときに不自然に見えるのは、この構造と無関係ではない。それは単なる個人の性格ではなく、社会の欲望のなかで演じられる役割でもある。
政治家の装いが語られるのは、必ずしも女性に限ったことではない。男性政治家のスーツや身振りもまた、権威や能力を演出する政治的な記号である。しかし女性の場合、そこに求められるのはしばしば権威や能力ではなく、権力を持っても危険ではないという無害性の証明である。
こうした女性性の仮装は文化によってさまざまな形をとる。日本ではとりわけ、「無垢」や「無知」を装うという形の仮装が広く見られてきた。その意味では、日本のアイドルに見られる振る舞いは、この構造の一つの典型かもしれない。もちろん男性もそれが演技であることに気づいているかもしれない。しかしそれは仮装が失敗していることを意味しない。むしろその振る舞い自体が、男性的権威を脅かさないという証明として機能するからである。演技であることが見えていても、それを演じること自体が秩序への服従を示すことになる。
冒頭の女性の書き手たちもまた、男性社会のなかで地位を築いてきた人々である。彼女たちが称賛する高市早苗の振る舞いは、女性政治家にしばしば要求されるこの二重の構造をうまく利用しているように見える。その演技が「見え見え」であることを批判することは容易だろう。しかしその批判がもう一つうまく機能しないのは、そもそもその演技自体が、長く男性社会が女性に求めてきた振る舞いでもあるからである。ある振る舞いをわざとらしいと指摘し、別の振る舞いを自然だと評価してみても、それは多くの場合、主観的な印象の表明にとどまる。むしろそこには、批判する側がどのような女性像を想定しているかが表れてしまう。
日本でも女性がリーダーとして可視化されはじめた現在、リヴィエールの論文がほとんど一世紀前に書かれたものであることを思えば、そこに示された洞察がいまだに有効であることには驚かされる。女性性とは、社会の欲望のなかで演じられる仮装でもあるという指摘である。この意味で、ファッションが政治と無関係であるはずがない。女性が権力の場に登場するとき、その装いは、権力と相性がよいとはいえない女性性を、どのように仮装するかというパフォーマンスとして、衆目に晒され、あれこれ論評されるからである。高市の人気は、それを逆手にとって、女性性の特性とされてきた「装い」を一種の目眩しとして利用している可能性がある。
しかし本来、政治の評価はそこにはないことはいうまでもない。上野がブログで述べているように、問題はその人物がどのようにその地位に到達したかではなく、何をするか、何を成し遂げるかにある。政治家はどのように振舞うかではなく、何をするかによって評価されるべきであろう。またこの目眩しを利用しているその背景について考察してみるのも一興であろう。
その意味では、もう少し幅広く女性の社会進出を捉えてみると、こうしたアリバイとしての女性性の演出は、現在では必ずしも一般的とは言えなくなっている。たとえば思想家や批評家の世界では、ジュディス・バトラーのようにむしろ中性的な装いを選ぶ例も少なくない。その思想や言葉遣いの「女性らしさ」を問われることもない。女性が知的主体として現れること自体が珍しくなくなれば、女性性を誇示する必要もまた薄れていく。女性性の仮装や目眩しもまた、女性をそのような位置に置いてきた構造の問題に過ぎない。
結局のところ、日本でも女性のリーダーが特別な存在ではなくなれば、この問題そのものが意味を失っていくはずなのである。
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