今年も新しい公開セミネールが始まった。今年のテーマは「ラカン理論の陥穽」である。2月号の「セミネール通信」にも、1月のセミネール「なぜラカン(理論)に惹かれるのか?」からその一部を「セミネール断章」を掲載した。
昨年掲載の「テクスト効果2025」も、年があらたまり「テクスト効果2026」とあらためなければならない。「2025」では、「『芸術が精神分析に出会う』あたりの散歩をぼちぼち始めてみたい」と書き始めたものの、連載は3回でしばらく足踏みすることになった。
その背景のひとつには、数年来関わっている「現代人形文化研究会」の年会誌原稿の執筆があった。テーマは「『人形愛』と『ピグマリオニズム』をめぐる一考察」である。一見すると、この精神分析の公開セミネールとは無関係に見えるかもしれない。
だが、そもそもこの公開セミネールの起点は、2001〜2002年に行われた「人形愛」のセミネールにあった。藤田博史氏を講師に迎えた「人形の身体論―その精神分析的考察」は当時大きな反響を呼び、その内容はのちに『人形愛の精神分析』(青土社)としてまとめられている。
「人形愛」という語は澁澤龍彦によって広く知られるようになったが、澁澤自身はそれを「ピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった」と述べている。今回、その来歴を戦前の言説にまで遡ってみると、この概念をめぐる語られ方が、一様ではなかったことが見えてきた。心理学者や精神分析家のなかには、芸術的関心をもつ者も多く、この概念は理論として論じられる一方で、文芸の領域ではそれらの議論を踏まえつつ、作品のなかで人物や主題として展開されていた痕跡が浮かび上がった。
興味深いのは、こうした議論や表現が個別には論じられてきたにもかかわらず、澁澤の「人形愛」との関係や、その思想的・倫理的含意の水準で受け継がれてこなかったということである。
この忘却には、戦時体制と戦後占領期による断絶という歴史的要因があるだろう。しかしそれだけではなく、かつて丸山眞男が述べたように、日本の思想が対決や蓄積を経て構造化されにくいという問題も大きい。日本では議論が共有財産にならないまま立ち消えになり、「すべてはそのたびごとにイロハから始まる」のである。
「人形愛」と精神分析の結びつきに違和感を覚える声も少なからずあった。特にこの概念を審美的に捉えようとする向きにその傾向はみられた。しかし、ピグマリオニズムの起源が性科学や精神分析の言説と深く結びついていたことを考えれば、その違和感自体が、こうした断絶や忘却のあり方と関わっていたのかもしれない。
こうしてみると「人形愛」というテーマは、「『芸術が精神分析に出会う』あたり」というこの「テクスト効果」の語りとも重なり合うものだったのである。
2026年2月8日
榊山裕子 テクスト効果バックナンバーは下記のリンクから
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