テクスト効果 2025

第2回 芸術・日本・精神分析、そして女性

榊山裕子

 

 先回は フランスで一昨年から昨年にかけて開催されたラカン展のタイトルにならって「芸術が精神分析に出会う」あたりの散歩をぼちぼち始めて見たいと予告した。しかし一種の標本のように展示されていた過去の芸術作品は、先回書いたように「過ぎ去りつつある時代について、あらためて考えさせられる」ものであった。

 この展覧会を開催するにあたって主催者は「ジャック・ラカンの思想は、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズと同様に、われわれの同時代を理解する上で不可欠である」としたうえで、ラカンは芸術やその作品と非常に深い関係を築いてきたにもかかわらず、これまで美術館でまとまった探究がされてこなかったことを指摘している。そしてこの展覧会では、ラカン自身が注目した過去の作品、彼に敬意を表して作品を制作したアーティスト、そして彼の思想の重要な概念に呼応している現代美術作品を取り上げたとした。ここで見られるようにラカンはここではフーコーやデリダらとともに重要な思想家の一人として位置づけられている。
 

 半世紀以上前に、ミシェル・フーコーは『言葉ともの』(1966/ 1974)において、現代の知のなかで、精神分析と文化人類学を「特権的位置」にあると書いていた。それは当時の人文諸科学のなかでそれを代表する位置にあるからではなく、両者が、近代における人間中心主義に根底から疑問を投げかけているからであった。両者は共に「他者」に関わっていた。前者は人間の内にある「他者」に。そして後者は空間的な外にある「他者」に。
 
 筆者はこれまで何度か20世紀は「他者の時代」であると語ってきた。それは筆者が「人形」という表現を扱っていたが故に、身近な他者としての人形という意味合いでそれを語っているということはあった。ただそこには別の意味合いがあった。「他者の時代」という表現が間違っているわけではない。しかしこの言葉は実は誤解を与えかねないところがある。「他者の時代」というと「他者」が主人公であるかのように思われかねないが、実はそうではなかった。本当の主役は「他者」を「他者」とみなす人々であった。「他者」は主体ではない。他者が主語として主体的に語ることは論理的には矛盾である。

 「他者」に同一化し、そこから語ることの矛盾を指摘することはできるが、ではある文化の中で他者とされた人はどのような立場から語ればよいのだろうか。この問題について20世紀に多くのことが語られてきた。しかしこの時こういう矛盾を背負わされるのは、「他者」と呼ばれる側であって、それを「他者」と呼ぶ人々ではなかった。



女性という「他者」

 ボーヴォワールは1949年に『第二の性』の冒頭で「女は他者である」という有名な言葉を書いているが、ここで女に対する男としてそれと対置されていたのは「主体 le Sujet」「絶対者l’Absolu」としての男性であった。そして「男は主体であり、絶対者である。つまり、女は他者なのだ」と語った後で、どんな社会でも同一者(le Même)と他者の二元性は常に見出されるとしている。

 ボーヴォワールは、「女性は他者である」と書いたが、それを普遍的な真理として書いたわけではなかった。そもそも男であれ女であれ、言語を発する時に人は自らを主語として語る。他者そのものとして語ることは不可能なはずである。それにもかかわらず女性は「他者である」とボーヴォワールは書くことになった。女性の他者性には具体的には経済的従属、法の不平等、神話、宗教等さまざまな具体的な要因やイデオロギーが絡まっていた。これらが皆、女性を従属的な位置に置くことに加担してきた長い歴史があった。

 こうした問題意識に関しては、日本でも女性を「他者」とする問題意識は同時代的にある程度は共有されていたようである。たとえば美術評論家・日向あき子は1967年に「女性の思考なるものはない。わたしはまた、それを知らない。もしあるとすれば、行間にあるだろう」と書き、映画評論家・矢島翠は1969年に、女性の地位を月の裏側にたとえて「この世界では、月の裏側は、いぜんとして未知なのだ」と書いている。

 今思い返せば、そして21世紀の今だからこそ言えることかもしれないが、なぜ女性は他者だったのか、と問うことも大事だが、もう一つの問いの方が本当はより重要だったのかもしれない。すなわち「男性はなぜ女性を他者の位置に留め続けようとしたか」という問いである。それゆえここにおいて重要なのは、むしろ「同一者」の方である。女性を他者と決めたのは他者とされた女性ではなく、それを他者と定めた側の見方だからだ。むしろ20世紀にしきりに他者のことが語られたのは、当時「同一者」の側にいた人々が、自分たちの集団的な自己同一性を確認するためにそれを必要としていたからではなかったか。


オリエントという「他者」


 こうした必要性は、20世紀の他の差別構造にも容易に見てとることができる。たとえばエドワード・サイードは『オリエンタリズム』(1978/1986)の序文で次のように語っている。

   本書では、ヨーロッパ文化が、一種の代理物であり隠された自己でさえある「オリエント」からみずからを疎外することによって、みずからの力とアイデンティティとを獲得したということも明らかにされるであろう。(エドワード・サイード『オリエンタリズム』)


 オリエンタリズムは、東洋が東洋に自らを同一化するために役立ったわけではなく、もっぱら西洋が自らの自己同一性(アイデンティティ)を獲得し、確認するために利用されていた。それは西洋の植民地主義と分かち難い言説であった。それゆえオリエントがオリエントに自らを同一化し、そこに自分の根源を探ろうとしてもそこに見つかるものは西洋にとっての東洋でしかなかった(1)。
 オリエンタリズムの絵画には東洋の光景や官能的な東洋女性がしばしば描かれる。それは夢のような光景である。ここでは東洋の女性は、女であることによって、そして東洋であることによって、二重の意味で西洋の夢想に付き合わされていたことになる。こうしたことについてもまたこの連載のなかで語っていくことになるだろう。

 オリエンタリズムという例は、女性と男性の関係においても同様な差別構造があったいうことを示している。ボーヴォワールが「女は他者である」と有名な言葉を書きつけた時、それは同時に「男は同一者である」という前提をあえて浮き彫りにしていたということになる。これは女性が1949年には「われわれ」という一人称の言説の主人公ではなかったという宣言であったといえる。

 オリエンタリズムの問題は、実は日本の問題でもある。ただし日本の場合は、両義的であった。『オリエンタリズム』を翻訳した今沢紀子はこの本の日本語訳のあとがきで次のように書いている。

  主体=観る側としての西洋と客体=観られる側としての非西欧世界とが対立するオリエンタリズムの構図に対して、近代日本はきわめて特異な関わりかたをしている。西洋から観て地理的・文化的に非西洋世界である限りにおいて、言うまでもなく日本は客体=観られる側である。しかし、近代日本は帝国主義列強の一員となる道を選び、植民地経営を視野において、西洋思想を積極的に学び取ろうとしてきた。・・・略・・・ここに見られるような努力の結果、日本は西洋の東洋(オリエント)観をも摂取して、オリエンタリズムの主体=観る側に立ったのである。(今沢紀子「訳者あとがき」)


 この本は1986年に訳され、あとがきもその時期に書かれた。この頃日本はまだJapan As No1のイメージが残っており、そこには東洋のなかでも突出した特別な存在という自意識が見える。たしかに植民地問題など、日本が主体の側として考えなければならない問題はあった。しかし一方で日本は所詮「名誉白人」のような存在に過ぎなかったはずである。この両義性については、小熊英二が『〈日本人〉の境界』(1998)の序文で次のように語っている。
 
  サイードの一連の著作で検討対象とされているのは、おもに一八〜一九世紀のイギリスとフランス、そして二〇世紀のアメリカの言説である。しかもそのなかでも、もっぱら中産階級以上の白人男性のものしかとりあげられていない。これはすなわち、「われわれ」以上の脅威が存在しない支配者の言説という対象設定なのである。

 しかし近代日本においては、「欧米」という「日本」より上位の脅威が存在する状況のもとで、「日本」より下位の者たちを支配する言説が形成されていた。そして、極東地域で黄色人種に分類されながら、しかし近代文明をとりいれた植民帝国であるという「日本」は、「欧米」=文明=白人=支配者、「アジア」=野蛮=有色人=被支配者という世界観が支配的だった当時において、きわめて微妙かつ両義的な位置を占めることになった。(小熊英二『〈日本人〉の境界』)

 このように両義的な位置に立つことは実は特別なことではない(2)。もっとも身近な例でいえば「日本人女性」の立ち位置はさらに複雑な位置にあったといえる。なぜなら小熊英二の本のなかで語られるこの「日本人」は基本的に男性のことであり、「日本人女性」を語るにはさらに別の差別や両義性の問題が出てくるからである。簡単に図式化すれば、日本人女性は、日本人男性との関係で、女性であることによって劣位にあり、同じ女性でも白人女性との関係で劣位にある。このことが日本人女性に与えたさまざまな影響についてはまた別に語る必要があるだろう。

 実はこうした問題は、性差別や人種差別が二項対立的に語られるや否や問題になっていたことではあった。ただそうした問題は後回しにされる傾向があったことは否めない。たとえば人種差別と性差別の問題ならば、人種差別の問題が優先され、同じ人種間の性差別の問題は後回しにされるという傾向はあったようだ。こうした二項対立図式では解決できない問題については、近年のインターセクショナリティ理論などで顕在化して論じられるようになってきた問題である。


 小熊英二は、サイードの取り上げた言説が「中産階級以上の白人男性のもの」であると指摘しているが、こうした指摘は、女性が性差別を訴える際に用いた言説と似通ってくる。フェミニズムもまたただ「男性」による性差別を訴えるだけではなく、その男性のなかにも優劣関係があることを指摘してきた。また初期のフェミニズムが「中産階級以上の白人女性」による言説に偏っていたことから、別の立場の女性たちからさまざまな問題提起がなされてきた歴史の蓄積がある。

 少し先取りして語るならば、同一者と他者という二項対立が優先的であった時代は、中心=同一者(普遍的主体)なるものが、言説の上ではまだ有効に機能していた時代であり、また現実の権力構造においてもそれを裏づけるような(あるいはそれに対する批判を顕在化させないような)仕組みがまだ機能していた時代であったといえる。

 21世紀は他者の時代から多様性の時代に変わったとしばしばいわれるし、筆者も他の場所で何度かそのように語ってきた。それはその通りだが、それは中心がそのままで、そこから見える光景が、他者から多様な人々や多様なものに変わったということではない。多様性を、何かが相変わらず中心にあって、そこから見える多様な光景と考えたり、そのような言説を繰り出す限り、それは他者の時代の考え方を引きずっているといえよう。そうした自分自身は一歩も動くまいとする言説には注意が必要である。変化はもっと根本的なものであったからである。(つづく)




(1)ヨーロッパは中世においてはキリスト教世界として自らを認識していたが、大航海時代を経て、非ヨーロッパ世界と接触することで「われわれ」を「彼ら」と区別する認識が発達していった。「西洋」という自己認識が広く意識化されるのは18世紀から19世紀にかけてのことだという。

(2)小熊英二はこのことについて「ちなみにこうした両義的な位置は、日本に特異なものではない。たとえばオリエンタリズム論のなかで、後発帝国主義国だったドイツやイタリア、ロシアなどは、どう位置づけられるのか? 一九世紀のイギリスのなかでも、イングランドよりも下位に置かれていたスコットランドやウェールズ、労働者階級の女性などは植民地支配と無縁だったのだろうか?」と問いかけている。