「テクスト効果」の連載再開にあたって
今回、ほぼ一年ぶりに「セミネール断章」の連載を再開することになったが(詳しくは「テクスト効果 2025 第0回」参照)、「セミネール断章」に次いで、長く続いている連載として、このメールマガジンを編集している著者による「テクスト効果」があった。この連載は2011年にはじまり、「日本文化編」「芸術編」と断続的に続いたが、2014年の第26回以降、休載していた。そこで今回は「セミネール断章」の再開とともに、久しぶりにこの連載をぼちぼちと復活させてみようかと思った次第である。
この10年あまりのあいだに、本紙で「図解 基礎からの精神分析理論」を一時期連載した他は、主に芸術批評の仕事をしてきたが、そのなかでも近年で一番時間を取ったのは、四谷シモンと同時期に活躍してきた土井典という人形作家・美術家の評伝を出版するまでの道のりだった。生前は華々しい活躍をしていた時期があったにもかかわらず、歴史の狭間に埋もれつつあったこの作家の評伝を仕上げるために、資料の収集と各方面の方々へのインタビューに多くの時間を費やすこととなった。更にコロナの流行が追い打ちをかけた。本来ならばさまざまな場所に出向いて取材を重ねたかったのだが、それもままならない時期が長く続いた。しかし昨年の半ば頃から怒涛のスピードで仕上げにかかり、ようやく昨年の終わりに出版した次第である。
ここでは本の紹介として、出版元のDFJプレスのサイトを紹介しておこう。DFJという言葉からもわかるように、この出版社は最初に人形愛のセミネールを開催したDFJ事務局の代表、羽関チエコ(当時は小川千惠子)が代表を務めている。
榊山裕子著『愛玩拒否の人形 土井典とその時代」
「芸術が精神分析と出会うとき」
このように2023年から2024年にかけて多忙であったために、いくつか見ておきたい展覧会を見逃してしまった。そのなかでも特に残念だったのは、2023年の年の瀬、フランス東部メスにあるポンピドゥー・センター分館で始まった《LACAN, L’EXPOSITIONーQuand l’art rencontre la psychanalyse(ラカン展──芸術が精神分析と出会うとき)》という展覧会を見逃したことである。
LACAN, L’EXPOSITIONーQuand l’art rencontre la psychanalyse
ジャック・ラカンと美術の関係は思いのほか深いが、彼の名を冠した美術展は21世紀の現在に至るまで美術館では開催されてこなかった。
ラカンが20世紀後半の芸術や芸術批評に与えた影響は大変大きい。しかし精神分析と芸術の間にはある種の緊張関係があった。それはフロイト以来、20世紀前半から存在し続けていたものであり、その内容について一言で語るのは難しい。
今回のこの展覧会にしても、キュレーターである二人の美術史家とともに、企画者として二人の精神分析家が名を連ね、カタログ掲載の論文も美術史家と精神分析家の両者によって書かれるという体裁をとっているあたりに、美術の側のある種の遠慮と配慮が読みとれるように思われる。
またこの展覧会に出品された作品については、芸術作品について語るラカンの言葉からそこで名指しされた芸術作品に興味を持った人と、精神分析からインスピレーションを得て作品を製作したとされる20世紀後半の著名な芸術家たちへの興味から入った人とでは、思い浮かべる作品群はかなり異なるかもしれない。
この展覧会は両者の作品群を網羅的に提供しているという意味で、そうした認識の断絶を埋めるのに役立つかもしれない。たしかにそれはアーカイヴとしての美術館の一つの役割ではあるだろう。しかしそれは裏をかえせば、20世紀的な意味における、芸術に対するラカンの影響がすでにその役目を終えつつあるということでもあるかもしれない。とはいえ、だからこそ今こそそのことについて語ることができるともいえ、この連載でも折を見て紹介していけたらと考えている。
もっとも20世紀的な意味での、芸術創作と芸術批評に対する精神分析の影響ということでいうならば、その最大の影響は、フロイトの「不気味なもの」という論文にあったのではないだろうかと思われるし、実はそこから見直していかないと 20世紀後半の芸術に対するラカンの影響の背景にも迫ることはできないのではないかと思われる。
なぜなら「不気味なもの」は、従来の美学に対する一見ささやかな、しかし本質的な問題提起から始まっていたからである。「美」とは何か、という本質的な問いがそこにはあった。精神分析家は「美学的研究」をしようなどとは思わないが、美学のある一定の領域に興味をもたざるを得ないこと、それは美学における本筋のものではなく、脇に置かれ軽んじられてきたものであり、それこそが「不気味なもの」だとフロイトはその冒頭で語っていた。よく知られているように「不気味なもの」とは、かつて故郷のように親しかった懐かしいものが抑圧の刻印を経て、不気味なものとして回帰してきたものである。芸術でいえば、均整のとれた統一性や崇高さを目指していたそれまでの美術の価値観に対して、夢や身体の断片などの見慣れているはずなのになにか不穏さを人の心にかきたてるモチーフが用いられるようになっていった。
20世紀の芸術は、それまで芸術の本筋とされたものに対するさまざまなアンチテーゼを繰り出す歴史でもあった。そしてそこにはただの反抗ではない本質的な問題提起が含まれていた。
20世紀前半の問題提起としては、たとえばハンス・ベルメール(1902ー1975)が1930年代に、ナチズムに加担した父への反抗として、断片的な身体を用いた「不気味なもの」としての人形を制作したことが想起される。
その後、20世紀後半、特に1960年代にはじまる第二派フェミニズムを経て、この「不気味なもの」をめぐって、芸術表現や芸術批評において更なる展開と転回が見られる。そこではたとえば「不気味なもの」における男性視点への偏りが指摘されるような議論の場も開けていった。これは男性主体の視点が普遍的な人間の視点であるかのようにみなされていた時代には困難な議論であった。
映像や現代美術の評論で1970年代以降しきりに語られたラカン的「眼差し」を巡る議論などもまた、20世紀前半にはいまだ「男性主体」から「他者」とみなされていた「女性」からの、根本的な問題提起を含んだ論争の場でもあったのだが、そのおおもとを辿っていくと、フロイトのこの論文に突き当たるように思われる。たとえば美術家、シンディ・シャーマン(1954ー)の作品には、「不気味なもの」や「眼差し」に対する女性の側からの根本的な問題提起があるとする評価がみられたのもこの頃のことである。
ここで名を挙げたベルメールの作品もシンディ・シャーマンの作品もラカン展に出品されており、そうしてあらためてラカン展の図録を見直してみると、過ぎ去りつつあるある時代について、あらためて考えさせられる。その意味でもぜひこの展覧会を実際にその空間で体験してみたかったとあらためて思わずにはいられないのである。
次号からは、このラカン展の副題のように、「芸術が精神分析に出会う」そのあたりをぶらぶらと散策しながら、その道道の景色や標識や交差点の意味等々について考えていけたらと思う。