日本と父(1)
1)父と息子
「異端」は「異教」ではないこと、「異端」は「正統に対する異端」であり、「あくまでも根本を共通にする同一範疇・同一範囲に属する事物相互の対立」であること、その原型は宗教にあることを先回は述べた。またそこでは正統と異端は、父と子の関係に似ているのではないかということが示唆されていた。多くの文化において、文化の継承は他の財産の継承と同様に父から息子に伝えられてきた。しかしこの国ではその継承がどうもうまくいっていないのではないか、という指摘はこれまでさまざまに語られてきた。敗戦後にはとりわけアメリカとの関係でそのことが語られてきた。たとえば江藤淳は『成熟と喪失 ”母”の崩壊』(1967)というテクストで日本の近代から現代に至る「父」の崩壊の有り様を、壮大なレトリックを用いて次のように書いていた。
「漱石が儒教の「天」の基軸をその作品に内在させていたのは、彼が江戸時代以来「士大夫」の必須の教養とされた漢学の世界像のなかで育っていたからである。・・・<略>・・・そして日本の「近代」がこの父性原理をつき崩し、敗戦がついにそれを根こそぎにしたとき、新しい騎馬民族が別種の父性原理をたずさえて、太平洋の彼方から出現したのである。」(江藤淳『成熟と喪失』)
江藤によれば、日本には儒教的、漢学的な「天」の思想があり、それはこの国の「近代」まで命脈を保っていた。しかし「近代」化の過程でそれまでの「父性原理」に亀裂が入り、それは第二次大戦の敗戦によって「根こそぎ」にされた。根こそぎにされたその地にやってきたのは「進駐軍」に代表されるアメリカとその文化であった。
「私のいうのはもちろんあのカウボーイたちのことである。・・・<略>・・・彼らはトウモロコシの母神をいただいていた原住民たちを征服し・・・<略>・・・ついに日本までやって来た。そしてそこに、「近代化」にもかかわらず辛うじて温存されていたもうひとつの「父」の原理、もうひとつの「天」を、容赦なく打ち倒したのである。」(江藤淳『成熟と喪失』)
このカウボーイとは、江藤がこのテクストで論じた小島信夫の『抱擁家族』で日本人夫婦の間に入り込んでくるジョージというアメリカ人の若者のことを指すと共に、アメリカ進駐軍の比喩でもあることは言うまでもない。彼らは瀕死の日本の「父」にとどめを刺し、代わりにその場所に収まることになる。
「占領時代には彼らが「父」であり、彼らが「天」であった。『アメリカン・スクール』の女教員ミチ子は、アメリカン・スクールで出逢った米人たちを「天国の住人のよう」だと感じ、男教員伊佐は、生徒たちが英語で話しているのをぬすみぎきしながら、「小川の囁きのような清潔で美しい言葉の流れ」が、「何かこの世のものとも思われない」と感じる。しかし占領が法的に終結したとき、日本人にはもう「父」はどこにもいなかった。そこには超越的なもの、「天」にかわるべきものはまったく不在であった。」(江藤淳『成熟と喪失』)
それでも占領期はアメリカが父の位置に嵌っていたのだが、彼らが去っていくと、そこにはもはや何もなかった。かくして「父の不在」が露呈することになったと江藤は考えた。しかしその主要なテーマが「父」の問題であるにもかかわらず、江藤の『成熟と喪失』のタイトルの副題は「母の崩壊」と名づけられている。実際、この論文においては、父の喪失の問題と母の崩壊の問題が錯綜して語られている。そして作者自身の意図としては、ここでのテーマは「父」ではなく、「母」であると意識されていたようである。このテクストのあとがきでは江藤は次のように書いている。
「文学にあらわれた日本の「近代」の問題を、「父」と「子」の問題としてとらえようとする発想は、大分前から私のなかにあった。それはたとえば『永井荷風論』(1959)であり、『小林秀雄』(1961)にある。しかしそれを「母」と「子」との、あるいは母性の崩壊の問題としてとらえようとする視点が定まったのは、1964年の夏に二年ぶりに米国から帰って来てからである。」(江藤淳「あとがき」『成熟と喪失』)
江藤自身がそうであったように、ある時期までは日本の問題は父と子の問題として語られることはあっても、母の問題として語られることはなかった。しかし戦後のある時期から、「母」の問題が急速にクローズアップされてくる。父の不在や父の稀薄さ以上に、母が息子を囲い込む日本的な「母」の在り方が大きな問題として語られるようになる。場合によっては、父の不在や父の存在の稀薄さの原因を「母」とするような語りも登場してくる。興味深いのは、こうした言説が堰を切ったように溢れ出てきたのは、時代的には1960年代半ばから1970年代にかけてのことであったこと、またこうした言説を繰り出すことに極度に熱心だったのは、主に1920年代から30年代生まれの書き手に限られていたことである。『成熟と喪失 ”母”の崩壊』(1967)を書いた江藤淳は1932年生まれ、『甘えの構造』(1971)の土居健郎は1920年生まれ、『日本人と母』(1971)を著した山村賢明は1933年生まれ、『母性社会日本の病理』(1976)を書いた河合隼雄は1928年生まれ、「日本人の阿闍世コンプレックス」(1978)を著した小此木啓吾は1930年生まれ、更に『母原病』(1979)の久徳重盛は1924年生まれである。彼らは皆「戦中派」もしくは「少国民世代」と呼ばれる世代であり、戦時下の皇国教育を受けた世代でもあった。すなわちこの世代は前世代からの文化継承、そして後の世代に文化を繋ぐ役割を果たすに際して、他のどの世代にもない複雑な問題を抱えていた。まず「戦中派」世代の特徴についてであるが、小熊英二は次のように書いている。
「この「戦中派」は、戦中に最大の動員対象にされ、もっとも死傷者が多かっただけでなく、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかった。また彼らの幼少期は皇国教育が激化した時代であり、しかも極度の言論弾圧のため、マルクス主義や自由主義に接することも不可能だった。そのためこの世代は、幼少期から注ぎこまれた皇国思想を相対化する経験も知識もなく、敗戦まで戦争に批判的な視点をもたない者が多かった。学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』を読むと、多少ともマルクス主義や自由主義に接したことのあるやや年長の学徒兵が、後輩たちがあまりに戦争に無批判なことを驚いている事例が散見される。」(小熊英二『民主と愛国』)
小熊は『民主と愛国』のなかで、戦中派の代表として吉本隆明を、少国民世代の代表として江藤淳をとりあげて、これらの世代の特徴について語っており、上記の戦中派についての記述は、吉本隆明について語った箇所に書かれていたものである。のちに丸山眞男を強烈に批判する吉本隆明だが、吉本の世代には「敗戦を突然のものと受けとめた」若者が多かったという。しかし敗戦時に30代を迎えていた戦前派の丸山眞男らはそうではなかった。
「敗戦直後に丸山たち三〇歳前後の戦後知識人が活躍しはじめたとき、二〇歳戦後の吉本の世代は大きな違和感をもった。丸山たち「戦前派」の知識人が、当然の常識としていたマルクス主義やヘーゲル哲学は、「戦中派」にとってまったく未知のものであった。生まれたときから戦争状態だった彼らには、戦争に批判的な思想をもっている人間がいたことも、戦争以外の状態が存在することも、想像できにくいものだった。」(小熊英二『民主と愛国』)
戦中派にとって、自分たちがまったく知らされていなかった広大な「知」や豊富な「教養」の集積が実はこの国に既にあったこと、自分より上の世代の人たちはそれを既に享受していたこと、しかしそれは彼らにはまったく伝えられていなかったこと、敗戦後突然ヴェールが剥がれるようにそのことが見えてきた時に彼らが感じた衝撃や違和感は計り知れないほど大きなものであったことは想像に難くない。また敗戦時に10歳前後か10代前半であった「少国民世代」は別の意味で大きな心の傷を負っていた。江藤淳は1932年生まれ、この同じ年生まれに石原慎太郎と小田実がいる。彼らは最初に言葉を学び初等教育を受ける大事な時期を皇国教育によって塗りつぶされていた世代である。
「しかし、敗戦は間もなくやってきた。戦争に献身する以外の価値観を知らなかった少年少女にとって、それは世界の崩壊を意味した。自分を𠮟咤した教師が豹変し、アメリカと民主主義を賛美し始めた衝撃も大きかった。」(小熊英二『民主と愛国』)
実際、彼らの衝撃の大きさは、この世代の様々な表現者によって語られている。彼らが一様に語るのは、戦争や死が当り前にある時代に育ったために、平和や生がむしろ虚構として見えるという感覚である。「突然、すべてが虚構に見えることがある」という小田実の1965年の記述や「どういうことで社会的なものに結びついていくかということは、いつも考えるのですけどね,どう考えてもでてこないんです」という1956年の石原慎太郎の発言などが小熊の『民主と愛国』のなかでは取り上げられている。こうした感覚は、後に政治的立場を違える小田実、石原慎太郎、大江健三郎、江藤淳に共通していた。
「皇国少年だった戦中の大江は、白い羽を生やした天使のような天皇が空中を舞う夢を見ながら、兵士として二〇歳までに死ぬことを考えていた。しかし彼は戦後に、「かつて薔薇色の幻影としてのぞんでいた、この黄金の二〇歳を、きわめてむなしい感じとともに現実からうけとらねばならなかった」。1960年に25歳だった大江は、こう述べる。「平和な時代に青年として生きることの苦しみとは、この個人の眼の自由という刑を負った孤独な青年の苦悩である。かれは勇気をもってこの刑に耐えねばならないが、戦争の時代の青年の勇気を、国家とか天皇とかがささえてくれたような事情は、1960年の日本人青年にはないのだ。」(小熊英二『民主と愛国』)
江藤淳が、敗戦後の父の不在について語ったように、石原が、自分が社会的なものに結びついていけない虚脱感と不安を語ったように、大江は、国家や天皇がかつてあった場所にもはや何もないこと、その空虚さに耐えることの苦しみについて語った。彼らは幼少期に皇国教育を受け、自らの思考の中心に天皇や大日本帝国を置いていた。彼らにはそれこそが実在するものであり真理であった。しかし戦後、彼らは自分たちが受けたこの教育を大人たちによって根こそぎ否定されることになる。いつの時代でも教育は何らかの意味でイデオロギー的であるとしても、この時代が特殊だったのは、皇国教育以外は言語統制や思想統制によって彼らの眼や耳には入ってこなかったことである。すなわち彼らは皇国教育を一つのイデオロギーとして相対化する機会を持たなかった。こうした時代に幼少期や思春期を過ごした戦中派や少国民世代が他の世代と大きく異なるのはこの点である。
一方、のちに吉本隆明の激烈な批判を受けることになる丸山眞男は1914年生まれであり、この言論統制、思想統制の時代をもちろんくぐり抜けてきていた。しかし彼は大正デモクラシーの時代の空気を知っていた。もちろん自由を不安なく謳歌していたわけではなく、1934年に東大法学部に入る一年前、一高在学中に、父の友人のジャーナリスト長谷川如是閑の講演を聴きにいったため、特高の取調べを受け、その後も特高にマークされ続けていた。しかしそれでも彼は東京帝国大学への入学を許されていたのだし、大学のなかは戦時下においても学問的な自由を窒息しない程度には受け取ることができる貴重な場所であった。丸山的な知は、のちに吉本隆明の激烈な批判を経て、「戦後民主主義」という一言で片付けられる不幸な冬の時代をしばらく迎えることになるのだが、しかしそうした時代的偏見を取り去って挙止坦懐に読んでみるならば、丸山や彼の世代の民主化論者と呼ばれた人たちの知識の幅広さと教養と文化の厚みにあらためて驚かされる。彼らには後の世代に見られるようなアメリカへのコンプレックスも殆ど見当らない。それは彼らが通った戦前の旧制中学高校では、外国語は、英語だけでなくフランス語やドイツ語が必須の教養であり、ヘーゲルなどの哲学書を読むのは「教養」の一環であり、こうしたヨーロッパ的な「教養主義」を10代のうちに身に付ける機会を持っていたからかもしれない。また彼らは漢文の素養など東洋的かつ日本的な知の伝統をある程度身につけていたほとんど最後の世代でもあった。もちろん戦前においてこうした教養を享受できたのは一部の特権的な人々に限られていたとしても、こうして培われてきた知が、かくも破壊的に失われたのは、第二次大戦の戦時下の皇国教育をおいては、その前後にも見当らないほどのものであったと思われる。その偏った教育それ自体も問題であったが、それ以上に問題だったのは、言語や思想や文化や芸術それら一切が強い統制下に置かれ、多感な青少年時代に学んだり触れたりする貴重な機会を奪われてしまった人々を大量に輩出してしまったことである。
こうしてみると受け継ぐべき文化や教養が戦争を挟んで途切れてしまった最大の原因は、進駐軍に象徴されるアメリカ文化の大量の流入がそれまでの日本文化を打ち壊してしまったことによるのではなく、戦時下の言論統制と皇国教育がそれまで脈々と積み重ねられてきた文化を窒息させてしまっていたことによるのではないかと考えてみた方がよいかもしれない。思えば、戦前の教育を受けた知識人においては、「父」と比較して「母」が強いという類の言説は見当らないのに、戦中派と少国民世代にそれが急に出現してくるのも、奇妙と言えば奇妙である。だとすれば、彼らが語る「母」とは実在の母のことではなく、別のなにものかの比喩ではないかと考えてみる必要がありそうだ。
今回はまだこの問題に立ち入る余裕はないが、アメリカに対する態度にしても、戦中派や少国民世代とそれ以前の世代の知識人とではかなり異なっているように見える。戦中派や少国民世代はアメリカに対する強いコンプレックスを抱えざるを得なかった世代である。しかしそれ以前の世代においては必ずしもそうではなかった。たとえば1902年生まれの白洲次郎、敗戦直後に吉田茂首相の下で占領軍相手に八面六臂の活躍をしたことで知られる彼は、1919年から28年までの青春期にイギリスのケンブリッジ大学に留学してイギリスの貴族文化を身につけていた。そんな彼はアメリカの軍人の粗野な言動や振舞いをかなり批判的に見ていた節がある。1954年に書かれた「占領政治とは何か」というテクストで白洲は占領下のアメリカ人の振舞いについてシニカルかつユーモラスな口調で次のように書いていた。少し長くなるが生き生きとした面白い記述なのでここに紹介することにしたい。
「占領中のGHQの人々の生活はちょいと滑稽なものであった。米本国に於ても「こんなにいいことはなかった」という意味の「標語(?)」まで生れ出て彼等の生活振りをヤジり始めた程、調子はずれのものだった。殆ど大部分の人々は本国に於てはお内儀さんが手鍋をさげてのつつましい生活をしていたのだから、急に市内各所の高級邸宅を接収して、そこに召使大勢を日本政府の負担で抱え込んでおさまり返ったのだから調子がとれる筈もなく、一寸喜劇などと義理にも言えた様なしろものではなかった。
戦前の人がよく使った言葉だが、親方は日の丸なので家の中や庭の改造にもどしどし取りかかった。接収が解除されて持主にかえされた家では、方々で悲喜劇の連続だった。床の間が風呂場に早替りしたもの、室内の檜かなんかの立派な材木が青ペン赤ペンと色々のペンキで塗りつぶされていたもの、庭の泉水が掘り下げられ綺麗さっぱりとプールに早替りしていたもの、庭の飛石におもしろおかしく彩色してあったものと枚挙にいとまはない。私の友人など、盛岡の大名屋敷で一階の大広間の真只中に二階建ての屋根のテッペン迄ぶち抜いて大ストーブを築造(築造とでもいわなければ感じの出ないような大建造)されて、接収解除の今日でも大弱りに弱っていることと思う。」(白洲次郎「占領政治とは何か」)
戦後アメリカと日本の関係は、しばしば豊かな先進国と貧しい後進国の対比のように語られるし、実際当時の市井の光景を撮った写真などにはそうした光景が数多く残されている。しかし、白洲のように当時政治の中枢部に近いところにいた人間には別の光景が見えていたことがこの記述から読み取れる。ここには進駐軍として日本にやってきたアメリカの軍人とその家族の無教養ぶりと、彼らの行状がもたらした悲喜劇が、実に鮮やかに描き出されている。アメリカよりは遥かに古い文化を持つ日本人と文化との関わり方は、アメリカよりはヨーロッパに近い。そうした洗練された文化を身につけていた人々にとっては、木材の善し悪しもわからずなんでもペンキを塗りたくるアメリカ人の行状は単なる無教養と映ったことだろうし、実際そうした側面があったことは否めなかったと思われる。これは実際にこの時期に住宅を接収されていた人とも進駐軍の軍人たちとも身近な位置にいた白洲ならではの観察である。そしてこうした感覚は白洲のように特別な教育を受けた者だけにあったわけではなかった。当時の一流ホテルのレストランのコックたちが占領軍の家庭の専属のコックになったもののその田舎者ぶりにうんざりして職を辞した、というようなエピソードも白洲によって語られている。
「高官の住宅など一流のコックを雇いこんだまではよかったが、初歩の家庭料理しか知らない奥様連中にこんな高級コックが使いこなせるわけはなく、あまりの馬鹿らしさに嫌気がさして辞めたコックも数多かった。帝国ホテルなどでもパリやそこらで年季を入れたコックが、場末料理屋でジャガイモの皮むきでもしていたのではないかと思われる様な軍曹か何かの指導(?)下に入ったのだからたまらない。戦前に比して接収されていたホテルの飯がまずくなったというのは定評だが、ここら辺に遠因があるのかも知れぬ。」(白州次郎『プリンシプルのない日本』)
占領軍として、日本では高い地位に就いているとはいえ、アメリカの一軍人やその妻の味覚や食に対する教養よりも、日本の一流ホテルの料理人の方が食の教養において高かったことは当然と言えば当然である。そして戦前の日本の一流ホテルよりも戦後の一流ホテルの料理の味が落ちたというのは、戦前の味を知っていた人にしかわからないことである。そしてこうした記述は、江藤淳がとりあげた小島信夫の小説「アメリカン・スクール」(1954)における「『アメリカン・スクール』の女教員ミチ子は、アメリカン・スクールで出逢った米人たちを「天国の住人のよう」だと感じ、男教員伊佐は、生徒たちが英語で話しているのをぬすみぎきしながら、「小川の囁きのような清潔で美しい言葉の流れ」が、「何かこの世のものとも思われない」と感じる」というようなエピソードとは著しい対照を成す。これはどちらが正しいかということではなく、その人の立ち位置によってどちらの見え方もあり得たということであろう。
父から子への文化の伝達を、日本的伝統か外来思想か、の二者択一で考えると、外来の父を選ぶか、土着の父もしくは母を選ぶか、というあまりにも単純な問題設定になってしまうが、丸山眞男や白州次郎らのテクストから見えてくるのは、文化とはもう少し複雑で豊かなものであるという当たり前の事実である。(つづく)