テクスト効果 (8)







榊山裕子


「日本的異端」の在処について(2)


 日本における「異端」は果たして「異端」と呼ぶに値するのか?これが先回考えようとしたテーマであった。そして「日本的異端」を考察するためには、まず「正統」とは何であるかをもう少し厳密に検討してみる必要があるというのが先回の暫定的結論であった。

 先回も指摘したように、中世史家の堀米庸三によれば「正統と異端という言葉は、太陽と月、天と地などと同じく、相関的概念を示すもの」であり「光と暗黒、善と悪、白と黒といった相関的ではあるが、相互否定的な対立概念ではない」。「異端」は「異教」ではない。「異端」は「正統に対する異端」であり、「あくまでも根本を共通にする同一範疇・同一範囲に属する事物相互の対立」なのである。

 正統と異端が、まず宗教の領域で顕在化してきたということについては丸山眞男と堀米の考えは一致していた。この場合、正統はオーソドクシー orthodoxy であり、異端はヘレシー herethy である。しかし丸山によれば、 orthodoxy という意味での「正統」とは別に、政治学では、レジティマシー legitimacy という言葉が政治的な正統性を示す言葉としてある。「いかなる政治社会にも、その政治社会の正統的根拠というものがある」。このことについて丸山は次のように語っている。

   「永続する支配のためには、被治者に、服従、そのもっともらしさというのはおかしいけれど、自発性を調達しなければならない。それがないと政治社会は存続しないわけです。したがって、いかなる政治社会にも、その政治社会の正統性根拠というものがある。」(丸山眞男『自由について』)

 すなわち被治者を服従させるためには「もっともらしさ」としての「正統性根拠」が必要であり、政治における「正統性」はそのようにして担保される。しかしあえて「もっともらしさ」という言葉を使っているように、そこでは根拠はそれらしくあればよい、という含意がある。たとえば革命は「君主主権から人民主権へ」というように「その正統性根拠の変革」である。あえて言うならば、君主主権と人民主権は「異教」の関係にあるといえる。そこでは「正統性」の「根拠」そのものが異なる。

 一方オーソドキシーとしての正統性は「ドグマを前提」としている。たとえばキリスト教、回教。そして丸山はそこにあえてマルクス主義を含めてみせる。それらには「『資本論』とかバイブルとかコーラン」といった経典がある。言語による「根拠」としての「経典」がそこでは共有されているというわけである。そして正統と異端の争いは、「少なくとも思想上の闘争としてはその経典解釈をめぐって争われる」。経典が言語で書かれていること、それが翻訳可能であること、それが特定の時代や地域や言語や文化に束縛されないということがここでは重要であろう。経典は文化や地域や人種や時間を超えて共有され、「異端」と「正統」の争いは、経典解釈の違いとして表面化することになる。

 この国ではこうした「経典」を窮屈なものとして捉える傾向があり、その際、こうした経典に頼ることが少ないこの国の許容度の広い文化が称揚される傾向があるが、そういうことを述べる人はこの国の明文化されないぬかるみのような「拘束」に無自覚なのだろう。言語による拘束は言語を理解するものなら誰の目にも明らかにそこにあるので、その拘束が見えやすい。しかしそれは逆に言えば、この拘束に対していつでも誰でも言葉による批判が可能だということである。またこの「拘束」が誰を縛るかということに関して言えば、この「拘束」はその「経典」に関わる全ての人を言語によって縛るので、その意味で「経典」は全ての構成員に対して平等である。各々の立場によって拘束の在り方が違う場合でも、そこに明文化された教義を守らない者はその経典の名において批判断罪される。

 丸山によれば、日本語においては「非常に意味の違う」二つの言葉が「正統」という同じ言葉で訳されていることによってその意味は紛らわしくなってしまっている。福沢諭吉は先述のレジティマシーという意味での「正統」を「政統」と訳していたという。しかしこの言葉は結局残ることはなく「廃語」になってしまった。そこで丸山はこの二つの正統を区別するために、「O正統」(オーソドクシー正統)と「L正統」(レジティマシー正統)という言葉を造語した。

 たとえば江戸時代の「儒学」においては、「O正統が必然的にL正統になる」(丸山眞男)。なぜなら「儒学は一つの教義」ではあるが「治国平天下」すなわちいかに国を治めるかという「政治思想」でもあるからである。「儒学はそもそもL正統のイデオロギー」なのである。もちろん儒学には「究極の真理」を問う「O正統」としての問題意識もないわけではない。しかしもともとそれが天下を治めるのための政治思想としての「L正統のイデオロギー」である以上、そこでは「L正統とO正統が必然的に絡み合う」ことになる。

 これは、たとえばキリスト教の教えである「我が王国はこの世のものに非ず」(「ヨハネによる福音書」『新約聖書』)とは大きく異なる。キリスト教の教義は現世の「政治」とは異なる次元に自らを置く。それ故その時々の現世における政治と直接対立はしない。もっとも現世の「政治」なるもの、現世的権力なるもの全てに対立するとも言える。だからこそキリスト教はとりわけこの国で弾圧の対象になったのであろう。

 一方、日本の神道はその最初からL正統であった。それは教義らしい教義を持ってはいなかった。『古事記』は「ふることぶみ」であり、「古い事を書いてある」というだけで、経典ではない。『日本書紀』は、「宇宙発生論」からはじまっているがその後は歴代天皇記として綴られた「歴史」書であって経典ではない。中国には各王朝がその正史を作るという伝統があり、それを見倣ったのが『日本書紀』であった。

 神道の経典として知られる『神道五部書』は奈良時代に出来たとされているが実は鎌倉時代に作られたものである。それは「儒教や仏教に対抗するために」後から作られた「偽書」であったことを、江戸時代に国学者の良見幸和が『神道五部書説弁』を著して暴露した。神道の経典は、儒教、仏教に対抗して、神道の正統性を示すべく、後から作られた「経典」もどき、いわばサンブランとしての経典だったのである。このように「日本の神道はLなんだけど、Oのような形をしている」。すなわち「ほんとうは、皇室の統治の正統性ということだけなのだけれども、それをある一つの根本的な真理というものに関連づけて、それについての経典というのを主張しているわけです」と丸山は指摘する。

 この指摘から丸山がこの正統と異端という概念から何を探り当てようとしていたか、何を照らし出そうとしていたかがわかってくる。丸山はやはり天皇制を相手にしていたのである。

 正統と異端が同根であるというのは「O正統」の場合である。そこには経典があり「普遍的な教義」として時代や地域を超えて伝播可能である。たとえばキリスト教には「聖書」があり、それは各国語に翻訳可能であり様々な解釈を可能とする。それ故たとえばルターのように「聖書に帰れ」と主張して自らの正統性を主張することが可能となる。これはコミュニズムにおいても同様である。何故ならコミュニズムはデモクラシーの享受者が実際にはブルジョワジーに限られるということ、その矛盾を突いているからである。そこに共通しているのは「自由、博愛、平等」という理念である。

 丸山によれば、ここにファシズムとコミュニズムの決定的な違いがある。実際にはコミュニズムが限りなくファシズムに近づくことがしばしばあるとしても、イデオロギーとして見た場合、両者は決定的に異なる。ファシズムには「異端」はない。ドイツのファシズムとイタリアのファシズムと日本のファシズム、どれが一番「正統」なファシズムか?という問題提起は成り立たないし、ファシズムとしての正統性を巡ってドイツとイタリアと日本の間で論争が起こることもない。何故なら「特殊の民族なり国家なりを絶対化するのがファシズム」だからである。ファシズムと神道、両者はともに「特殊の絶対化」であると言える。この絶対化された特殊は普遍たり得ないが、普遍を装う。たとえば自民族の他民族に対する優越性などはしばしば普遍を装った言葉で語られる。しかしその理屈は特殊なその地域のなかだけで通用するに過ぎない。

 この国では少なくともこれまで「普遍的な教義」はすべて外来であった。また日本の神道は普遍にはなり得ず、地域性に密着した特殊なものに留まり続けてきた。それゆえ「普遍的教義が日本に入ってくると、みんな変に日本化されてしまって、つまりは神道的パターン」になってしまうのであった。そこでは「思想が本格的な『正統』の条件を充たさない」ので、必然的に「O正統がO正統の条件を充たさずに、L正統になってしまう」のであった。

 ここで興味深い点、そして最大の問題点は、L正統がO正統としての条件を充たさないまま、O正統としての権威をまといたがるその指向性ではないだろうか。つまり特殊が特殊であることに自足して、そこに「ある」のであれば、それほど問題はなかったかもしれないのだ。問題は「特殊の絶対化」に際して「普遍的な経典」もどきが作られてきたこと、またもどきが普遍的な真理を中心に持たないまま、普遍的真理のように振舞おうとし、そう振舞っている間に自らの中心が空虚であることを半ば忘却してしまうこと、つまり自分がついた嘘に自分が騙されてしまうこと、あるいはそれが嘘であるという自覚すら欠いたまま誇大妄想的に動きはじめ収集がつかなくなってしまうような事態が起こりかねないことが問題なのではないだろうか。

 丸山はこの正統と異端の問題について長い間思索を続けていた。それは『正統と異端』というタイトルで筑摩書房から出版されるはずであったが遂に未完のままに終わった。それ故この問題についての丸山のテクストは実は断片的にしか残っていない。しかしこの問題は考慮するに値する問題であると思われる。少なくとも過去の問題としてその問題を考え直してみることは現在の政治や社会や芸術の問題を考える上で興味深い照明を背後から与えてくれるように思われるのである。

 日本において、「異端」が「正統」と対立しないということは、裏を返せば「正統」が「正統」として機能していないということである。「経典」もどきはあっても経典はない、ということは、経典にあるはずの「教義」を論理的に批判することができないということである。そこで問題となるのは、繰り返しになるが、それでいてこの「経典」もどきは「経典」として振舞うことである。そしてこの経典もどきがその身にまとう「権威」はどこからもたらされるかというと、外来の「経典」が持っている権威への信頼からそれはもたらされるのではないだろうか。かくして「経典」が持っている根本原理は空白のまま、その外形だけが真似されつづけることになる。そしてそれを批判しようにも根本原理が欠けているために批判することはできないし、批判してもその言葉はどこにも届かず虚空に吸い込まれていくばかりである。

 「異端は早咲きの真理である」というギトンの言葉を丸山は引用しているが、異端はその意味で優秀で早熟な少年と似ている。正統と異端の関係は父と子の関係に似ている。子は父に逆らいながらも父の文化を受け継いでいく。あるいは逆らうことも含めて、そこに新しい知を吹き込み、文化を継続させ、生き長らえさせ、死にかけたものを蘇生させていく。では、L正統がO正統として振舞うとき、それがL正統に過ぎないことを知らず、そこにO正統を見出し、それを批判しながらもその根本原理を継承しようとする志を持つ早熟な年少者は何を継承し何に異議を唱えることが可能なのだろうか。父が父として機能していないことを知ったとき、早熟な子は何に逆らい何を継承すればよいのだろうか。(次回につづく)

(芸術批評・さかきやまゆうこ)