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テクスト効果 (7)



榊山裕子


「日本的異端」の在処について(1)


 かつてハンス・ベルメールという「異端」のアーティストがいた。彼は1930年代のドイツで球体関節を用いた人形を制作し、エロティックな写真作品を制作した。それは1934年、シュルレアリスムの機関誌『ミノトール』に掲載され、日本でも山中散生によって1939年にその写真が一部紹介された。しかし、ベルメールの人気が一般的になったのは、1960年代になって澁澤龍彦や種村季弘によってあらためて紹介されたことによる。特に1965年に、人形作家・四谷シモンが『新婦人』という雑誌で見たベルメールの人形写真に衝撃を受け、それが彼のそれ以後の人形製作に決定的な影響を与えたというエピソードは有名である。この雑誌にベルメールの特集記事を書いていたのが澁澤龍彦であった。
 こうしてベルメールは日本で幅広く知られるようになり、この時代の多くのアーティストや作家に強烈なインパクトを与えることになった。そして彼は後に「異端」のアーティストとして振り返られることになる。

 たとえば2007年渋谷・東急文化村のBunkamura Gallery で開催された「幻想と異端の図書室ー文学とアートのコラボレーション」には1960年代~70年代に活躍した日本の作家やアーティストの作品とともに、ハンス・ベルメールの作品も並べられていた。この企画は好評を博し、2010年に第2弾が開催されるのだが、その企画展示の紹介文には次のように記されていた。

日本の表現文化に革命が起こった、60~70年代のカウンター・カルチャー

2007年に開催し、多くの方にご好評頂いた「幻想と異端の図書室」。1960~1970年代、高度成長期の日本では社会に対する若者たちの不満が膨れ上がり、ヒッピー、ドラッグなどに象徴されるように、「カウンター・カルチャー」という言葉が生まれ、これまでの文化の概念が劇的に変貌を遂げました。それを牽引したのがマルキ・ド・サド著作の翻訳などを通じて数多くの「異端」文化を日本に紹介した澁澤龍彦や、その美学を終生支持し続けた三島由紀夫、実験的な演劇で一大ムーブメントを巻き起こした寺山修司、唐十郎でした。


 この展覧会では、赤瀬川原平、荒木経惟、宇野亜喜良、合田佐和子、金子國義、横尾忠則、四谷シモンら日本の同時代のアーティストと共に、ビアズリーやベルメールらの作品が紹介された。また同時に、唐十郎、澁澤龍彦、種村季弘、寺山修司、土方巽、三島由紀夫らの本なども展示紹介された。
 1960年代から1970年代にかけて、あるいはその後にいたるまで強い影響力を与えた、現代美術家、写真家、人形作家、作家、劇作家、舞踏家、イラストレーターなどジャンルを超えた多彩な顔ぶれが、ここでは「幻想と異端」というキーワードの元に並列的に置かれていた。そしてそのなかには、19世紀イギリスで活躍したオーブリー・ビアズリー(1872-1898)、1930年代に球体関節による人形を写真として作品化したドイツ出身でフランスで活躍したハンス・ベルメールの作品も並べられていた。時空を超えたこれらの作品をそこに並列的に置くことは違和感を感じさせないだけでなく、この「幻想と異端の図書室」を完成させるためには必要な配置であったように見える。なぜならベルメールはなんといってもこの「異端」文化を代表するアーティストの重要な一人だったからである。

 「1968」に代表される反体制とカウンター・カルチャーの時代に、日本では後に「幻想と異端」として括られることになる傾向が、時代を代表する「文化」の一つの在り方として確かに存在していた。少なくとも後にそのようなものとして振り返られることとなった。そしてこれは「文化とアートのコラボレーション」と書かれているようにジャンルを超えて存在していた。しかしそれ故にこそか、あるいは別の理由によるものか、この「幻想と異端」という分類は、正規の美術史や文学史からは抜け落ちていくこととなる。たとえばここに名を連ねる赤瀬川原平は「日本近現代美術史」を語る際には「ハイレッド・センター」のメンバーの一人として、そして「千円札裁判」の当事者として、必ず言及されるアーティストの一人であろうが、美術史のなかで「幻想と異端」という分類に組み入れられることはないだろう。わかる人にはわかる、わからない人にはわからないそこでの「異端」というニュアンスは、それが「わかる」ことが何か秘密結社に参加するような気分を味あわせてくれたという意味で、どこか日本的な骨董趣味に通じていたように見える。

 この展覧会のタイトルとなっている「幻想と異端」の「異端」は、「1968」の学生運動に象徴されるカウンター・カルチャーの時代に照応する形で流行した。そこでは澁澤龍彦がこの「異端」文化の紹介者としての牽引的な役割を果たしたことが示唆されている。1967年澁澤は『異端の肖像』という本を著すなど「異端」という言葉を自覚的に使っていた。しかしそこでいう「異端」文化は、既存文化に対する「カウンター・カルチャー」と全く同じものであったわけではない。そもそも澁澤龍彦は、当時のアメリカ的な「カウンター・カルチャー」文化にむしろ背を向ける形で「幻想と異端」の架空の王国を作り上げようとしていた節がある。たとえば『異端の肖像』には同時代のアーティストについての言及はない。そこでは、世紀をまたがって澁澤のフィルターを通してみられたヨーロッパのさまざまな「異端」の徒が紹介されている。「パヴァリアの狂王−19世紀ドイツ」ルドヴィヒ2世、「二十世紀の魔術師−20世紀ロシア」グルジエフ、「幼児殺戮者−15世紀フランス」ジル・ド・レエというように。この本から、澁澤の異端解釈を紐解いてみると、そこには、澁澤自身が、自分の「異端」の定義は、彼独自のものであること、またそれ故かなり「恣意的」なものであるということを、この本のあとがきで既に明記していたことが確認できる。

   「栄光と悲惨、権力と破滅ーーーそれが痙攣的に二重に透けて見えるような存在が、わたしの頭のなかにある「異端」の概念なのである。痙攣的であればあるほど、それは「異端」に近くなる。したがって、この概念は元来、かなり恣意的なものであると御承知おき願いたい。」(「あとがき」『異端の肖像』1967年)

 つまり澁澤にとっての「異端」とは、彼自身の美的な感受性が作り出した極めて個人的な概念なのであった。澁澤はこれが「恣意的」な概念に他ならないことを1967年の時点で記していた。しかし澁澤の思惑とは別に「異端」という言葉は一人歩きし、芸術のある種の傾向を表わす言葉として密やかに生長していった。

 さて、今回のテーマである。
 「異端」とはそもそも「正統」に対する概念である。たとえば中世史家の堀米庸三はその著書『正統と異端』のなかで次のように書いている。

   「まず正統と異端という言葉は、太陽と月、天と地などと同じく、相関的概念を示すものだといえよう。だがそれは、光と暗黒、善と悪、白と黒といった相関的ではあるが、相互否定的な対立概念ではない。断るまでもなく異端はどこまで正統に対する異端であって、異教ではない。正統と異端とはあくまでも根本を共通にする同一範疇・同一範囲に属する事物相互の対立なのである。」

 このように「異端」は「正統」と共にある。「正統」がないところに「異端」はない。では1960-70年代における「幻想と異端」の「異端」にとっての「正統」とは何だったのだろうか。確かに、1930年代に、ナチズムの嵐吹き荒れるドイツで、ナチスへの抗議として一切の有用な社会的活動を放棄してエロティックな人形と写真製作に埋没したベルメールには「異端」とみなされる側面はあったかもしれない。しかし日本でベルメールを「異端」と呼ぶとしたら、それは何に対する「異端」なのか、何に対する「異端」性が評価されていたというのだろうか。たとえばそれを、既存の美術を正統と見た場合の異端であるとか、因習的な性規範(ただし1930年代のドイツのそれか1960-70年代の日本のそれかどうかは曖昧だが)に対して侵犯的であったが故に「異端」であるとか、それなりの説明は可能ではある。しかし1930年代に製作されたベルメールの人形写真を直輸入しても、それがそのまま1960-70年代の日本における「異端」であるということにはならない。もしもこの「異端」という概念を、先述の澁澤個人の「恣意的」な概念であることを明記したうえでそのようなものとして語るならばそれはそれでよいだろう。しかし「異端」という言葉は澁澤個人を離れて一人歩きしている。

 実はこのほぼ同時代、フランスでは著名なフェミニストの一人でもあるグザヴィエル・ゴーチエによる『シュルレアリスムとセクシュアリテ』(邦題『シュルレアリスムと性』)というシュルレアリスムの研究書が1971年に出版されていた。ガリマール社から出版されたこの本にはラカン派の精神分析家 J・B・ポンタリスの序文が掲載され、ここでゴーチエはシュルレアリスムにおける性の在り方の男性中心主義を強烈に批判していた。しかし、ポンタリスも指摘しているように、そこにはシュルレアリスムに対するアンビヴァレントな感情があった。思い切って単純化して言ってしまうならば、これは「1968」に代表される反体制運動に対してその世代の女性が抱いた期待と失望のヴァリエーションと考えることができる。つまり当時の学生運動は既成の制度に対して反旗を翻したがその運動の内部で男女の性別役割分担に関しては保守的であり、そのことへの失望と怒りがウーマンリブ運動の契機となったように、ゴーチエにとってシュルレアリスム運動とは期待と失望が複雑に交錯する愛憎の対象であったわけである。ポンタリスの言葉をそのまま借りるならば「裏切られた愛への思いもまた明白であって、その愛は熱讃から皮肉へと色合いを変えながら、終始激しく燃え続けて」いたのである。すなわち彼女はそこで、一方でシュルレアリスムを強烈に批判しながら、なんとかシュルレアリスムをその批判から救い出そうとしていた。そこで彼女が愛していたシュルレアリスムを救うために持ち出してきたのがハンス・ベルメールなのであった。再びポンタリスの言葉をそのまま借りるならば「著者の手で見事に解読されたベルメールの幻想的解剖学が、こうしたシュルレアリスム弁護論の支えとなって」いたのである。すなわちそこではベルメールというアーティストは特別な役割を果たしていた。

 実はこの傾向は1980年代からはじまる欧米の美術批評におけるハンス・ベルメール再評価にも引き継がれていった視点であった。そこではベルメールはフェミニズム的視点から批判される一方で主に女性の美術史家の手によって再評価もされていたのである。しかしこうしたダイナミックな批判と再評価の応酬はほとんどこの国には伝わっていない。なぜならそもそもまずベルメールを性差別的なアーティストとして批判するという視点がほとんど導入されていないというか、無視されてきたのであるから、そこからの再評価という視点も当然理解されるはずがなかったわけである。この本ははやくも1974年に仏文学者の三好郁朗によって翻訳され朝日出版社から刊行されたが、この時期のベルメール評価の最新の成果がここにあったにもかかわらず、そこでのベルメール評価がこの国のベルメール評価に影響を与えることはまったくなかった。このテクストは翻訳者の三好氏が後に文庫本のあとがきで「原書はフランスで相当に話題になった書物であるが、わが国での出版当初は格別の反響もないまま過ぎた記憶がある」と書いているように、当時、実質的には限りなく無視に近い扱いを受けたのであった。

 「1968」運動はフランスでは女性運動の興隆ももたらしていた。フランスの女性運動がアメリカの運動と大きく異なっていた点は、フェミニズムという言葉そのものに疑問を唱える傾向が強かったことと、またラカンの精神分析の強い影響のもとにプシケポ(政治と精神分析)のような独自の女性解放運動が起っていたことである。これら全体の流れにおいてジャック・ラカンの影響は大変重要なものであり、ゴーチエのこのテクストもこうした新しいのうねりのなかで出てきたものであるが、当時の日本では1970年にウーマンリブ運動が産声を上げたものの、「幻想と異端」として後に括られるような当時の「カウンター・カルチャー」と連動するような機運はほとんど皆無であったと言ってよい。つまりそこでは「異端」という名で後に語られることになる反体制的な傾向とフェミニズムが結びつくことはなかったのである。フェミニズムは実は当時の反体制的な運動の代表的なものであったにもかかわらず、である。つまり「幻想と異端」的なカルチャーのなかでは、日本的な「粋」にも似たある種の「洗練」が好まれており、フェミニズムなどはその対極、「野暮」の側に置かれていたわけである。

 この「幻想と異端」的なカウンター・カルチャーには実は多くの女性アーティストが参加していたのだが、彼女たちの活躍が表立ってフェミニズムと連動することはなかった。その原因の一つとしてこの「幻想と異端」的なカルチャーの最大のイデオローグである澁澤龍彦が当時女性蔑視的な思想を語ってはばからなかったことが挙げられよう。むしろこの時期にはこうした女性蔑視的な語り口が異端の一つのポーズであるとさえ考えられていた節がある。このことについては澁澤自身の証言もある。澁澤は1967年に出版され、当時異端のエロスの表明として読み継がれた『エロティシズム』が1984年に文庫本化された際に「いま読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在のわたしの意見とは認めがたい。無責任のようだが、君子は豹変する。なにぶん十七年前の著作なので、これらの点は大目に見ていただきたいと思う」と書いている。この粋な豹変「君子」ぶりには澁澤の面目躍如たるものがあると言える。こうした「粋な」言い方でサラリとかわされてしまえば、これに対して「女性差別」を訴えることはまさに「野暮」のレッテルを貼られる行為となるしかないからである。
 しかしいずれにしても、少なくとも1960-70年代当時は、澁澤の「自分でも驚くほど」辛辣な女性差別的なエロティシズム観が、体制反逆的なイメージで「異端好き」な人々に受け入れられていたことは確かだったのである。むしろ澁澤のこうした女性蔑視的な思想は、一方でカウンター・カルチャーを好みながら、女性解放運動の表出には違和感を禁じ得なかった当時の人々の心性を反映し、喝采をもって迎えられたということかもしれない。

 さてこのように現在から見れば、後だしジャンケンのような批判も可能であるとはいえ、筆者自身もハンス・ベルメールに惹かれていたし、澁澤龍彦的な文化及びその文化圏にも親しみそこに見られる作品を評価することにやぶさかではなかった。高校時代に四谷シモンの展覧会を青木画廊で見て衝撃を覚え、大学時代には、高橋睦郎の自宅に伺ったり、澁澤龍彦の畏友であった加藤郁乎と共に池田満寿夫や唐十郎や吉岡実らと直接会う機会も得た。その時には既にこうしたカウンター・カルチャーの絶頂期は過ぎていたが、この文化の空気の残り香のようなものを肌で知り、味わうことができた。一人一人の彼らはそれぞれ大変心意気のある繊細で魅力ある人々で、筆者はこうした文化を揺籃として青春時代を過ごしたといえる。その後、創作人形誌『ドール・フォーラム・ジャパン』にハンス・ベルメール論を長期連載するなど、むしろ筆者はこうした文化をこよなく愛してもいたのである。ただ個々の作家や作品の評価とは別に、長年明確に言語化できぬまま筆者自身の中にわだかまっていた奇妙な違和感があった。それは「幻想と異端」というくくりでベルメールや日本のある種のアーティストたちを評価する際にしばしば使われてきた「異端」という言葉が、本当に「異端」という概念に相当するものなのか、という疑問であった。しかしこの言葉に対する曰く言い難い違和感をかかえながらも、それを特に言語化することもなく、また言語化することもできずに、時は過ぎていった。そこにはまず美術史にも文学史にも表立って載ることのないこの「幻想と異端」という言葉で語られるような一傾向は、芸術の大きな流れのなかでは、あまりにも小さなエピソードに過ぎないかもしれないという気持もあったからである。しかしつい1〜2年ほどまえ、たまたまその疑問に言葉を与えるためのひとつのヒントに出会った。それが丸山眞男の「異端好み」と「片隅異端」という言葉なのであった。丸山は「正統」と対置される「異端」とは別に、「日本的異端」というものがあること、その異端には二つの特徴があること、それらの特徴は「異端好み」と「片隅異端」という言葉をキーワードとして分類可能であることを示唆していたのだった。そして戦後最大の思想家といわれる丸山がこの「日本的異端」と終生格闘していたことを知ったとき、実は筆者が考えていたささやかな疑問と予感、この小さな根から地下茎を辿ればこの国の地下に深く根を張った問題に繋がっていくのではないかという予感にようやく一つの言葉が与えられたように思われたのである。

 ちなみに政治学者・丸山眞男が述べた「異端」という概念は、この1960年代〜70年代の澁澤文化圏における「異端」と直接の関係はない。そのことを一応確認したうえでまずは丸山が示唆した「日本的異端」とはどのようなものであったかを、まずここで大雑把に辿ってみることにしよう。先述したように、元来「異端」という概念は、正統に対立するが根本を共有する対立である。つまり異端は異教とは異なるのである。それゆえ異端は異端であることに甘んじることはなく、また正統に対して自らを無関係とすることもなく、むしろ我こそが正統であると主張するものである。よく知られた例としてはルターの宗教改革を挙げることができるだろう。ルターがローマ・カトリック教会に反旗を翻したとき、その主張はカトリック教会から見れば許し難い「異端」であったが、ルターは自らこそが聖書に忠実である点において「正統」であると主張していたのである。日本にもそういう意味での「異端」がないわけではない、と丸山は語る。たとえば「江戸時代の儒学をみると、やっぱり自らの正統性を主張している。仁斎や徂徠をみると、これこそ本当の孔子の教え、先生の教えであって、朱子学の方が歪曲されたものだと言うのです。俺こそ正統だという、あれが異端です」。しかしこの国にはこの本来の「異端」とは別にもう一つの異端があると丸山は続けて語る。「だけど、それとは別に、異端でございといって居座っているのは日本的異端です」。またこうした「異端でござい」と居座る日本的異端と共に、もう一つ「片隅異端というのがある」と丸山は指摘する。これは丸山の軍隊体験から見出した異端である。軍隊という集団において初年兵を躾ける際に「いくらぶん殴られても言うことをきかない奴がいる」。そうすると「あいつはしょうがない」ということになる。「やくざ」に多いのだが、集団の維持に差し支えない範囲で必ず少数は出てくるこういう存在を「片隅異端」という。この片隅異端は「異端」のままで権力と癒着を起こすこともある。しかしこの「片隅異端は正統になるダイナミズムをもたない」のである。

 すなわち「日本のいわゆる異端の特色は、自称異端で、異端であることを誇りにすること。それから、片隅でブツブツ言っているだけであって、全体を変革していくダイナミズムを持っていないという、そういう二つの条件がある」のである。ここで重要なのは、ここでは異端は正統にとって代わるという傾向性を持たないということである。つまり日本には「正統」に対する「異端」とは別に、異端であることに居直った「異端」や、異端でありながら異端であることによって背後で権力と繋がった異端があるというのである。丸山は政治思想史を専門とする政治学者であり、この問題も政治の問題を中心に考えられてきたので、筆者のように芸術の問題においてこの概念を考察するのはお門違いと見えるかもしれない。しかし実はそうとばかりは言えない。何故なら丸山が射程に入れていた「異端」には、日本の著名な文学者や芸術家も含まれていたし、そうした自由を愛する近代の芸術家においてこそ、こうした異端の在り方が如実に現われてもいた節があるからである。

 そもそもこの丸山の「正統と異端」は『近代日本思想史講座』第二巻 丸山眞男編「正統と異端」として刊行を予定され、執筆者には丸山の他、藤田省三、石田雄等が予定されていたが、結局未完のままに終わっている。『近代日本思想史講座』は、全8巻・別巻1巻で計画され、1959年から61年にかけてこの第2巻と別巻を除く巻が刊行されたが、この巻だけは遂に完成されることはなかった。しかしこの時期を過ぎても、丸山とその共同執筆者は研究会を持続的に重ね、この第二巻の刊行を目指していた。その過程で、当初は「近代日本」における「異端」と「正統」についての考察であったはずが、日本の思想史を古代まで遡る一方、マルクス主義、キリスト教、西洋思想史全体にまでその考察は及んでいったという。これは単にまとまりを欠いていたということではなく、おそらく地下茎を辿ってみるとこの問題はおそらくあちこちに深く張り巡らされていたということなのかもしれない。幻の書物となってしまった『正統と異端』、それ故そこで何が語られる筈であったかは永遠に謎になってしまったが、幾つかの論文、草稿、講演、対談などに丸山が考えていた構想を断片的に見出すことができる。たとえば藤田省三著作集第10巻『異端論断章』(1997)には、この問題を巡る丸山、藤田省三、石田雄の貴重な鼎談が収められている。

 このなかで、日本における自由主義と、自由主義を巡る正統と異端の問題について考察している箇所があるが、日本におけるリベルタン、日本的リベルタン、として丸山と藤田がとりあげているのが、詩人、翻訳家、評論家として知られるダダイスト辻潤であった。妻は過激なフェミニストで後に大杉栄と出奔し後に惨殺されることになる伊藤野枝、息子は画家で詩人の辻まことである。辻潤自身は餓死したと言われている。
 この辻潤のようなアナーキーな生き方が「日本における自由主義」を考えるに際して重要であると丸山は考えていた。それは「気分的自由主義」(註1)と呼ばれた。たとえば丸山は次のようにこの問題について発言している。

  「うん、辻潤とか、そういうリベルタンの傾向ですね。これもまたある意味では気分的自由主義でしょう、イデオロギーとしての自由主義じゃなくて、そういうのは近代日本に一つの流れとしてかなりある。その政治的役割はいろいろあると思うんだけれども、そういうのをわれわれの共同研究の中でどういうふうに位置づけるか」

 丸山と藤田はここで辻潤的な気分的自由主義の傾向を「隠遁」と結びつける。隠遁と浮浪化、この結合体が辻潤に見出され、こうした生き方に対する「憧れ」が、いわゆる「異端好み」になるのだと藤田は指摘し、それに対して丸山は次のように答えている。

  「そうそう。だからかなり大事だと思うのですよ。ある意味では日本の自由というもののオーソドキシーですから」

 日本の自由のオーソドキシー、それは丸山によれば「コンスティチューショナリズムというものに媒介されない」。それは「制度化しようとする合理化の契機を失っている。だから仏教とくっつき、老荘とくっつく」(藤田省三)、それは「アナーキズムとも」(丸山眞男)くっつく。そしてそれは「日本型アウトサイダー」と呼ばれるというわけである。すなわち日本の自由のオーソドキシーは、言語を介在しない「気分的自由主義」だというのである。辻潤は文学者、芸術家として知られるが、こうした問題意識は、芸術や文学サイドからはあらわれにくい問題意識であったと思われる。何故なら、こうした「自由」の在り方を問題視することそれ自体が、自由な生き方や表現を疎外するようにそこではまず考えられるからである。一方丸山はといえば、そもそも1946年に書かれた著名な「超国家主義の論理と心理」で「それ自体『真善美』の極致」となってしまっていた大日本帝国の危うさについて指摘していたのであり、1958年に書かれた「福沢・岡倉・内村ー西欧化と知識人」では、真を福沢諭吉、美を岡倉天心、善を内村鑑三に割り当て、各々の思想の構造を読み取ることを試みるなど「美学」の問題にはひとかたならぬ関心を持っていた。一方藤田もまたダイアン・アーバスとアッジェというコアな写真家と社会の関係について論じた『「写真と社会」少史』を著す(註2)など、「美」の問題が、社会について、倫理について考察する上でも重要なことを理解しており、その意味で社会と芸術の問題が地下茎のように繋がっていることを政治の側から考察することができる彼らならではのその視点は、傾聴に値するものがあるように思われるのだ。

 筆者が長らく気にかかっていた問題、それは気分的な自由主義、自分が自由に選んだと思っている「自由」な生き方が、実は極めて日本的な何らかの制約によって選ばされたものなのではないかという疑問であり、また、そういう先達の「気分的自由主義」的な生き方に同一化し、それに憧れることで一定の満足を得てしまう傾向は、制度を変革して、象徴的(サンボリック)な意味での「自由」を獲得するという意志を疎外する方向に働いてしまうのではないかという懸念なのであった。それはまた日本におけるある種の「異端好み」が、見かけ上は反体制的であるようでいて、それは「見かけ」だけのことであり、実際には体制を補強する方向に機能していることがしばしばあるのではないかという可能性について考えることでもあった。すなわちそれは、今は異端に甘んじているがいずれは自らが正統の地位を奪還することを視野に据えながら戦い続ける「異端」ではなく、イメージとしての気分としてのサンブランとしての「異端ぶり」であり、異端であることに何となく自足してしまう「異端好み」であり、それは正統を撃つ契機を持たないが故に現実を変革することはなく、ただ気分だけの反体制として、人々の不満のガス抜き効果という、場合によっては体制補強の格好の道具として使われてしまうのではないか、それこそが「日本的異端」の最大の問題点なのではないか、という問題意識なのであった。

 今回は殆ど触れなかったが、この問題は藤田博史がその著書『人間と症候』のなかで触れているラカンの「日本的なもの la Chose japonaise」の問題とも接続する問題であると筆者は考えている。なぜなら「この『日本的なもの』は、サンブラン(見せかけ)で構成され」ていると考えられており、「正統ー異端」から抜け落ちる「日本的異端」はまさにここでいうサンブランとして機能しているように思われるからである。つまり丸山が格闘し続けた問題を精神分析の観点から読み直すならば、藤田博史が指摘したシニフィアンとサンブランの問題として整理することが可能なのではないかと思われるのである。

 しかし、このことについてもう少し精密に考察するにはまず吟味しておかなければならないことがある。それはそもそも「正統」とは何かという問題である。丸山はこの「正統」はまず大きく分けて二つあると考えていた。次回はまずそこから考えてみることにしたい。      (さかきやま・ゆうこ 芸術批評)




















































































































































































































註1 この言葉を最初に使ったのは丸山の師である南原繁である。

註2 藤田省三にこの写真論を書くきっかけを与えたのは、写真評論家の西井一夫である。この写真論は1983年から84年にかけて『カメラ毎日』に掲載されたが、当時この雑誌の編集長をしていたのが西井であった。余談になるが、筆者はちょうどこの時期『カメラ毎日』でいくつか翻訳の仕事をはじめており、その後も西井の元で毎日新聞社出版局から出された『昭和史全記録』や『毎日ビジュアル年鑑』などの取材編集の仕事に携わっている。自らも『写真的記憶』など珠玉の写真論を出版している西井であるが、小熊英二が2009年に著した『1968』の「慶大闘争」には西井一夫の名が何度も登場する。慶應大学経済学部出身の西井は慶大闘争に直接関っていたのである。その西井が編集した「シリーズ 20世紀の記憶」の『1968』(1998年刊行)には当時の政治と文化についての興味深い記録が多数収録されているが、その「あとがき」で西井は日本の「1968」の幼児性について様々な言葉で言及している。たとえば「『自己否定』という『自慰』的スローガンの裏に透けて見えるのは、『我が儘』や『甘え』を含んだ自身の受容を逆に求めている子供の姿である」「そこには、言葉に対するコンプレックスからくる言葉のないコミュニケーションが希求されていたかのようだった」というように。この指摘は筆者が1960-70年代の「幻想と異端」のカウンター・カルチャーに感じてきた違和感とも通底する。西井のこの一種の自己批判でもある「1968」批判は、批判することによってこの運動を忘却するためではなく、批判することによってそれを継ぎ、それを乗り越え、前に進んでいくための批判であったと思われる。しかし日本ではこのように愛をもって批判し、批判することによって次の世代へと引き継いでいこうとする姿勢がなかなか理解され難い。そのため結果としてこの種の試みが常に「流産」してしまうのである。西井と1968の関係についてはまた別の機会に論じることにしたい。