テクスト効果 (5)







榊山裕子

日本と女性と紅一点について(1)


 前回までのお話は、日本におけるタテ関係と「甘え」との関係についてであった。この話の続きはまたここでするつもりだが、これから数回は少し別の話をしてみたい。
 これまで話してきた「日本」および「日本人」には「性」がなかった。ここでいう「性」とは、生物学的性差のことでもあり、文化的性差のことでもあるが、「性差」のことを捨象して語る場合、暗黙の前提となる主体は「男性」である。たとえば「甘え」を母子関係として語る時にまず前提されているのは、息子の視点である。この前提をくずして語ることは不可能とは言わないがなかなかに困難である。何故なら、ほとんどの言説は男性が言説の主役であることを前提として組み立てられているからである。
 では、ということで、ここで陥ってはいけないのは、ならば母にスポットライトをあててみようと考え、「母」の視点から語ろうとする傾向である。母とは「子」から見た呼称に過ぎない。このことに関しては、いつも思い出されるのがバーバラ・ジョンソンの次の言葉である。「論争に参加する人は、母親になったことがあるにせよ、ないにせよ、みなかつては子どもだったのだ」。母と呼ばれる人間もまた子として母と最初に出会ったのであり、母となってからの彼女の振舞いは、その時の経験と言葉の世界で培われた知識との混合物に過ぎない。それ故「性差」を考えるに際して、「母」を実体化して考えることは避ける必要がある。「母性社会」とか「阿闍世コンプレックス」とか「甘え」とか、何かと「母」を持ち出したがるのが日本特殊論や日本人論の傾向ではあるが、ここでは「日本」及び「日本人」についての考察に、性差を持ち込むに際して、まずいったん「母」という語から遠ざかろうと思う。

 ちなみに「日本母性社会論」が全盛だった1970年代前後の実際の女の子たちの心性を考える上で一つのヒントになるのが、リカちゃん人形の家族構成ではないか、と思われる。リカちゃんが作られたのは1967年のこと、11歳という想定のこの人形は、当時の女の子たちに「家族」の代用物を提供していた。香山リカ11歳、母親はファッションデザイナー香山織江、父はピエール、フランス人の音楽家。リカちゃんはフランス人のパパと日本人のママのハーフである。ここで重要なのは、パパが日本人ではない、アジア人ではない、ということである。フランス人のパパをもつ人形がこの時代の女の子たちの夢のファミリー幻想を支えていたということは当時の時代背景を考えると大変興味深い。
 この人形の前身は、アメリカのマテル社のバービー人形だった。これは8頭身の白人のモデル体型、顔も完全に西洋白人の顔であった。リカちゃんはそんな人形が流行っていた時代に、もっと日本の女の子にとって馴染める国産の人形として開発され、瞬く間に女の子たちの心を捉えていった。
 パパのピエールは女の子たちの人形遊びにはほとんど登場しない。パパはいつも「いるけどいない」存在である。ただパパがいることによって彼女たちの人形の国の平穏は保たれている。その平穏を保ってくれるための担保が外国人のパパなのである。アメリカ人ではなくてフランス人という絶妙なずらしも含めて彼女たちの心理には当時の日本を考える上で、母性社会論に勝るとも劣らない重要なテーマが潜んでいるように思われる。

 なぜなら、筆者の仮定によれば、実は当時日本でしばしば非難を籠めて語られた「母が強い」という言説、そこから当時の社会現象をそういう母のせいにする風潮(その極端なものとして、公害による喘息までも母のせいにした『母原病』というテクストが挙げられよう)は、別のより重要な問題を覆い隠すためのフェイクな問題設定に他ならなかったと思われるからである。端的に言えば当時「母」の問題と言われていたものは、「父」の問題を覆い隠すための小道具に過ぎなかったのではないだろうか、と思われるのである。つまりそこで本当に重要な問題だったのは「日本の父」の問題だったのである。主に1920年代から1930年代生まれの「少国民世代」(註1)によって作られ声高に唱えられた広い意味での「日本母性社会論」は「母が強い」と唱えることによって、この大事な問題を覆い隠していた。一方、当時の女の子たちの人形遊びに見られる外国人の父親という設定もまた「日本の父」の存在を隠蔽していたのではないかと思われるのである。
 そもそも「母」が強いが故に、日本では父がうまく機能しないという類の、それ自体母親に甘えた子どものような言説は、裏返しに考えるべきだったなのではないだろうか。つまり「父がうまく機能しない」という問題が先にあり、その理由として「母」を持ってきたと考えてみるべきだったのではないか、と思われる(註2)のである。
 つまり息子たち(と言っても当時の中高年であって、当時の実際の男の子たちではない)は、父がうまく機能しないことを「母」をスケープゴートにすることで覆い隠し、かろうじて彼らにとっての「日本」を救おうとしたのだし、娘たち(とその人形を買い与えた母親たち)は、うまく機能しない日本の父の代わりに外国人の父をもってくることで彼女たちなりに、自分たちの「父」を救おうとしていたのではないだろうかと考えることができるのである。

 さて、それで唐突ではあるが、今回のテーマは、「紅一点」である。
 何故紅一点か?それは1970年代前後の日本人は男女共に「女性」だったのではないか、両者の「女性」としての在り方は異なっていたものの同じように女性というポジションにいたのではないか、という仮定で今回はストーリーをすすめてみようと思うからである。ただしここに登場する女性は、ただの女性ではなく、男性のなかに混じった「紅一点」の女性というイメージである。これはかつての南アフリカの「名誉白人」に相当すると考えていただければよい。ちなみに実際に南アフリカのアパルトヘイトにおいて日本人は経済上の理由から1961年以来名誉白人として認定されていた。いまだ白人と有色人種(カラード)が分けられていた、分けられていることがさほどおかしいと思われていなかった時代のことである。

 かつて日本人は「紅一点」の栄光と悲哀を味わってきた。しかしその時代はつい最近その幕を閉じた。日本人女性にとって長い間社会進出とは「紅一点」となることと同義だったが、その時代は既に過ぎつつある。われわれは既に次の時代に頭と首をつっこんでいる、と考えてみることにしよう。
 さて、それならば、過ぎ去った時代と訣別するために、先にすすむために、その時代のことを振り返ってみようというわけである。

 そもそも紅一点とは何か? 紅一点とは「万緑叢中紅一点」の略であり、もともとは緑の草むらのなかに一つだけ咲く咲く赤いザクロのことであり、際立つ存在や、男性のなかに女性一人のことをいう。近代日本において、それまで男性のものとされていた分野に進出していった女性たちは、皆、最初はこの「紅一点」であったはずだ。
 同じように日本人は、敗戦後、焦土のなかから立ち上がり、やがて経済大国として欧米列強に並び、あたかも「男性のなかの女一人」のように、白人のなかに非白人一人、名誉白人のような存在として、いわば「紅一点」であった時代が長く続いた、と考えてみることができよう。

 と言っても、歴史的にそれを辿ることはこのささやかなエッセイにおいては到底不可能である。ということで、ここでは緑のなかに赤が1つ、というイメージ、こうしたイメージを表わしている1975年に撮られた2枚の写真から、そのことについて少しばかり考えてみたい。

 まずは「紅一点」として、かつてもいまも幼稚園児たちをときめかせつづけているTVの五人組の戦隊ものの変遷について考えてみよう。かつて5人の戦隊のうち女の子は1人だった。1975年にはじまる「秘密戦隊ゴレンジャー」の5人の戦士のうち、女子はモモレンジャー1人であった。

 敗戦後、日本は経済的に欧米列強と肩を並べる道を突き進んだ。そしてそれを実現した。1975年にはじまる先進国首脳会議で撮られた写真を見ると、そこには、非白人という紅一点としての日本人の首脳の姿がある。1975年の第一回先進国首脳会議、ランブイユ・サミットの写真。当時の首相は三木武夫。ここには白人男性のなかに、アジア人の男性が1人いる。

 かつて『紅一点論』を書いた斎藤美奈子は、日本における「紅一点の女性」について次のように語っていた。

   私たちにとって、「男の中に女がひとり」は非常に見慣れた光景である。テレビをつけると、たとえば『秘密戦隊ゴレンジャー」なんていうのをやっていて、アカレンジャー、アオレンジャー、ミドレンジャー、キレンジャーにまじって、紅一点のモモレンジャーが戦っていた。『ウルトラマン』の科学特捜隊にはこういってんの友里アンヌ隊員がいた。ほかたくさんのテレビ番組にも、チームの中に紅一点の女性がいた。そして、私たちは大人になるまでもなく学んだのである。女の子が座れる席は、ひとつしか用意されていないんだな、と。(斎藤美奈子『紅一点論』) 

 さてでは、紅一点の時代はいつまで続いたのだろうか。五人組の戦隊ものシリーズにおいて、はじめて女の子が2人になるのは、1984年「超電子バイオマン」のとき、男女雇用機会均等法が施行される2年前のことであった。

 1人から2人になることは、小さな違いであるようにも見えるが、その違いは大変に大きい。
 1人の場合、その人はその「集団」もしくは「カテゴリー」(ここでは女性という集団)を代表する存在として見られている。つまりその1人の一挙手一投足がその「集団」を代表する。それゆえ、少しでもマイナスな側面が見られたら「だから女は」「だから東洋人は」「だから黒人は」となるわけである。
 しかし2人になれば、その2人の間の差異に目がいくようになる。そこではじめて個人差に目がいくことになる。その時、はじめて女にもいろいろな人がいること、東洋人も単一のイメージで計ることができないことが目に見える形でわかってくるわけである。

 さてサミットにおいて白人男性の集団にアジア人男性以外に他者が現われるのは1979年のことである。それが1979年、東京サミットにおける白人女性、マーガレット・サッチャーの登場である。そして黒人のアメリカ人大統領が現われるのはようやく2009年のことである。そしてそれと相前後する2008年にG20が始まる。その時の映像が右下にあるが、この映像を見ると、1975年のサミットとは隔世の感がある。そこにはもうまったく違う世界観が展開しているのがわかる。そこでは日本人はもはや「紅一点」などではない。

 筆者がここで語ろうと思うのは、国際政治や世界経済の問題ではなく、単なるイメージの問題である。しかしその単なるイメージが人の思考にも実は強い影響を及ぼしていたことがこれらの映像からあらためて確認されはしないだろうか。日本人が先進諸国において「紅一点」であった時代、それがリアルに可視化されたのが1975年のサミットの写真である。このインパクトは、敗戦後のマッカーサーと天皇の写真には及ばないものの、当時の日本人にかなり強力なイメージを発信していたように見える。

 日本人論において『甘えの構造』が出版されたのは1971 年、河合隼雄『母性社会日本の病理』が出版されたのは1976 年のことであった。この前後の時代を青木保は『「日本文化論」の変容』のなかで日本文化論(日本人論)の「肯定的特殊性の認識」の時代と位置づけている。彼はこの本のなかで、1945年から1954年までを「否定的特殊性の認識」の時代、1955年から63年までを「歴史的相対性の認識」の時代、1964年から1983年までを「肯定的特殊性の認識」の時代とした。すなわち敗戦後すぐには「日本」の「特殊性」は「否定」すべきものであると考えられていたが、経済大国になるにしたがってその認識は「相対化」され、1970年代前後は、その特殊性こそが日本の長所であると肯定的に捉えられていたというのである。この自負はサミットの写真に見られる欧米諸国のなかで一人立つアジア人の映像によく現われているように見える。そこに見え隠れするのは自信と裏腹の不安である。だからこそこの不安を覆い隠すような「肯定的な」言葉が必要だったのかもしれない。

 しかしこのように日本が「紅一点」であった時代は、1980年代半ば頃から徐々にその根拠を失っていく。ひとつの理由は、日本文化論が日本人の日本人による日本人のための「読み物」ではなくなる時代が到来していたことがあげられる。欧米の側も一種の東洋趣味(オリエンタリズム)によるのではない日本文化論を著しはじめていた。国際社会においても「紅一点」であるが故の特別視から、先進諸国の一員としての責任が要求されるようになっていった。この頃から欧米の日本文化論にも強烈な日本批判が見られるようになる。また日本文化論と直接の関係はないが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が1978年に著されたことも欧米の東洋(オリエント)観を変える一つの大きなきっかけとなったはずだ。このことについてはまた後に触れる。

 さて、話をこの肯定的特殊性の日本文化論の時代に戻すと、先回も取り上げた『甘えの構造』はその代表的なテクストであった。そして先回も書いたように、特殊な日本の在り方を精神分析の言葉で語ってみせた土居健郎は、「甘え」という語に対する興味が、2000年頃を境にして人々の間から急速に失われていったと感じていた。もう一度その文をここに引用する。

  「私は批判に対してその都度自分の視点を明らかにすべく努めた。それで1975年には「『「甘え」の構造』補遺」を発表し、1980年には「「甘え」再考」を書き、刊行20周年の1991年には「甘え」が本来非言語的心理であるという事実をめぐって新しい序文を書き、更に2001年には「続「甘え」の構造」を出版して「甘え」概念の総括的考察を試みた。しかし恰度その頃から私の「甘え」理論に対し表立って異論を唱える者も出なくなったのである。
 さてこのことは私の持論が一般の認めるところとなったことを意味するものなら結構な話だが、必ずしもそうとは言えないことが問題である。というのはこの頃から人間関係についての一般の関心が急速に失われてきたように思われるからである。」(土居健郎「『甘え』今昔」『甘えの構造 増補普及版』)

 さきほど写真で見た20カ国の首脳が集る20ヶ国・地域首脳会合(G20 Summit)G20は2008年にはじまるが、その前身であるり20ヶ国・地域財務大臣・中央銀行総裁会議(G20 Finance Ministers and Central Bank Governors)は既に1999年より開催されていた。それまでは、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカ合衆国、欧州連合が、G7として定期的に財務大臣・中央銀行総裁会議を開催していたのが、この先進7ヶ国・1地域に主要国首脳会議(G8)参加国のロシアと新興経済国11ヶ国が加わり開催されたのが会議であった。新興経済国の内訳は、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、韓国、メキシコ、南アフリカ、サウジアラビア、トルコであった。
 土居健郎の「甘え」理論から一般の関心が急速に失われていった時機は、まさに日本だけが非西欧社会における唯一の先進国であり経済大国であった時代、日本が「紅一点」の「特殊」な位置を閉めていた時期が終わる頃でもあったのである。

 さて先述のサイードの『オリエンタリズム』であるが、この原著がアメリカで出版されたのは1978年だが、日本で翻訳されたのは1986 年のことである。非常に大雑把にに要約してしまえば、このテクストが提示してみせたのは、西洋から見た東洋(オリエント)はこれまで「女性」のポジションにあったという指摘であった。「西洋と対比的に、東洋には後進性、奇矯性、官能性、不変性、受動性、被浸透性などの性質が割り当てられた。また逆に、西洋は東洋に対し、みずからと反対のもの(カウンター・イメージ)を執拗に割り当てることによってのみ、自分自身のアイデンティティ―を形成していった」と訳者はあとがきで書いている。さてでは日本ではこのテクストはどのように受けとめられていたのだろうか。『オリエンタリズム』の訳者は当時この訳書のあとがきで、日本にもこのオリエンタリズムの問題があると書いていた。


 「この点に関し、まず何より重要なのは「日本のオリエンタリズム」の問題であろう。『オリエンタリズム』を読むとき、私たちは、サイードの分析し批判した西洋のオリエンタリズムが、たんに西洋の問題であるにとどまらず、私たち日本人の多くが無意識のうちに共有し、浸されている考え方なのではあるまいかという反省に立ち返らざるをえない。それは、日本と中東、日本とアジア(第三世界)の関係を考えると、とくにはっきりと現われてくる問題である。」
  「いま中東に即して考えた「日本のオリエンタリズム」の問題は、日本と東アジア(とくに中国・朝鮮)との歴史的関係を辿るときにも同様に現われてくる。これについては本書「訳者あとがき」を含め、すでに多くの指摘がなされており、ここで改めて取り上げるまでもないのかもしれないが、例えば日本の東洋史学(シナ学)の性格や、大衆レヴェルでの中国観・朝鮮観、また現実の大陸侵略の歴史など、確かにヨーロッパのオリエンタリズムと重ね合わせて考えることの出来る部分は少なくない。」(杉田英明「『オリエンタリズム』と私たち」)

 1986年に書かれた、訳者の一人、杉田英明氏のあとがきにおいて興味深いのは、日本人が一貫して西洋の側に置かれていることである。また、もう一人のあとがきを書いた今沢紀子氏にしても「主体=観る側としての西洋と客体=観られる側としての非西洋世界とが対立するオリエンタリズムの構図に対して、近代日本はきわめて特異な関わり方をしている」として「西洋から観て地理的・文化的に非西洋世界である限りにおいて、言うまでもなく日本は客体=観られる側である」と指摘しているものの、しかし「近代日本は帝国主義列強の一員となる道を選び、植民地経営を視野において、西洋思想を積極的に学び取ろうとしてきた」とし、「ここに見られるような努力の結果、日本は西洋の東洋観をも摂取して、オリエンタリズムの主体=観る側に立ったのである」と結論づけている。
 つまり「日本」の受動性、女性性としての問題についてはほとんど指摘されないか、指摘されてもこの当時深く考察されることはなかったのである。

 1986年前後の時代状況を見ると、まず1981年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が書かれ、特殊日本が肯定的に語られる時代のクライマックスを迎えたが、出る杭は打たれるというのか、特殊な「紅一点」として甘やかされていた時代は終焉を迎え、この頃から先進諸国の一員として責任ある言動や、特殊な論理ではなく普遍的な論理に連なることを、西欧諸国の側から求められ始めていた。ピ―ター・デール『日本的独自性の神話』が1986年に、ハルミ・ベフの『イデオロギーとしての日本文化論』が1987年に出版され、日本人論批判と日本批判の風向きが強くなったのはちょうどこの頃である。日本はこの時期、一つには「ジャパン・アズ・ナンバーワン」としての自負から自分を当時の優越者である欧米の側に置いていたとも考えられようし、またこうした日本批判が欧米の側から吹き出していた時期でもあり、自らを東洋の側に置くことは欺瞞であるとも考えられていたともいえよう。

 とはいえ、実際には日本人は、そして日本は、欧米の列強に肩を並べたとしても、あくまでも名誉白人にとどまり、その違和感をぬぐい去ることはできなかったはずである。何故ならこの時代はまだ、日本人=彼女は、紅一点の存在であったのだから、今思えば、その最後の時代ではあったのだが。

 しかしもはやその時代は終わってしまった。女の子が紅一点だった時代も、日本や日本人が「特殊」だった時代ももはや終わってしまったのである。だからこそ逆に、今こそ日本や女性が「紅一点」であった時代を総括することができるのではないだろうか。

 ということで、大急ぎで日本と女性の紅一点の在り方の相似性について語ってきたが、この問題をより深く考察するためにもう一歩先に進んでおかなければならない。
 そのための問題設定は次のようなものである。日本の置かれたポジションと女の置かれたポジションがよく似ているとしたら、では日本人で女であるものはどこにいるのだろうか、あるいは、どこにいたのだろうか。この問題について詳しく考えるのは次回にするとして、今回は、以下に簡単に予告編を記しておくことにしたい。

 「日本人女性」が抱える具体的な問題について語った文献はあるが、日本人であり女であるもののポジションについて語った文献は筆者の知る限りほとんど見当らない。そこでまず最初にこの問題を考えるに際して、参考になるテクストを2つほど持ち出してくることにしたい。ひとつはバーバラ・ジョンソンの「差異の世界」、もうひとつはレイ・チョウの「女性と中国のモダニティ」である。前者は、アメリカにおける黒人女性の問題について語っている。後者は、中国人であり女性であるものの問題について考察している(註1)。

 前者は、白人中心の、後者は西洋中心の文化において劣位に置かれ、なおかつ男性に対して劣位の位置に置かれている黒人女性、中国人女性の在り方について考察したものである。しかしこれまで見てきたように、実は日本人女性のポジションはそれとは少し違っていた。何故なら日本人がある時期まで「名誉白人」であり「紅一点」の特殊な存在であったとするならば、日本人女性も「名誉白人女性」の位置にあったのではないかと考えられるからである。つまり日本人であり女性である人間は、白人社会における白人女性の問題とも、東洋人や黒人の女性がかかえていた問題とも違う問題を抱えていたのではないか、と考えられるからである。

 ということで、この問題については次回、考えてみることにしよう。(つづく)

























註1)『母性社会日本の病理』を書いた河合隼雄は1928年生まれ。『阿闍世コンプレックス』を書いた小此木啓吾は1930年生まれ。『成熟と喪失ー母の崩壊」を書いた江藤淳は1932年生まれ。ちなみに『甘えの構造』を書いた土居健郎は1920年生まれだが、彼の「甘え」理論が、河合や小此木や江藤に影響を与えたことは間違いないが、彼のテクストは「甘え」の問題を母子の問題に限定しているわけではなく、また先述の3人のように執拗に「母」の問題にこだわっているわけではない。また『母原病』を書いた久徳重盛は1924年生まれだが、彼のテクストにも小此木や江藤のような執拗な「母」へのこだわりは見られない。この問題はまた別の場所であらためて論じることにしたい。

註2) この問題について指摘した試みの一つとして小熊英二の『民主と愛国』が挙げられよう。彼はこのなかで江藤淳のテクストについて次のような興味深い事実を指摘している。
「江藤は1971年の評論「『国歌目標』と『国民目標』では、「家庭内の『公』的なものの象徴」である「『父』のイメイジが回復されなければならない」と主張した。しかし同時に彼はこの評論で、「疲れて不安な父親は、みずから『父』の権威と役割を引き受けようとするよりは、妻の上に『母』のイメイジを重ね合わせ、あの渇望の充足を求めようとする」と述べていたのである。」















「秘密戦隊ゴレンジャー」
モモレンジャーが女性である印は
足の閉じ方に現われている。


第一回先進国首脳会議(1975)



女性が2人になった1984年の
「超電子バイオマン」



東京サミット(1979)



G20サミット(2008)





















































































註1)なおレイ・チョウのこの論文は、1991年に書かれたものであり、現在の中国の状況とは異なる状況において書かれたものであることをお断りしておかなければならない。