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テクスト効果 (30)

ジェンダー編(1)



榊山裕子


1968とエロティシズム


 古い映画やドラマをテレビで放映する際に「作品のオリジナリティを尊重するため、そのまま放送しています」というテロップが流れることがある。その作品が作られた当時には許されていた差別的な表現などがあるためである。
 あるいは具体的な差別表現が問題になっているわけではないが、筆者自身が自己申告する場合もある。澁澤龍彦が自著『エロティシズム』(初出および単行本化1967年)を1984年に文庫本化するにあたって自ら書いた「クラナッハの裸体(あとがきにかえて)」などはその一例である。そこには次のように書かれていた。


   今読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在の私の意見とは認めがたい。無責任のようだが、君子は豹変する。なにぶん十七年前の著作なので、これらの点は大目に見ていただきたいと思う。

(澁澤龍彦「クラナッハの裸体(あとがきにかえて)」1984)


 たしかに1967年に出版された澁澤の『エロティシズム』には「女のエロティシズム」や「女性不完全論」に代表されるように、後から読み返せば、女性に対して「差別的」と思われる主張がところ狭しと並んでいる。だがそれは特定の差別用語や罵倒の類ではなく、このテクストの思考そのもののなかに張り巡らされているので、特定の言葉や特定の文章だけを切り取ることはできそうにない。さらに彼は上記の文の一つ前の文では次のように書いていた。


   当時の私はフロイトのエディプス理論やサルトルの実存主義や、さてはバタイユの哲学などに影響されていたので、それが本書の文面にも少なからず反映しているようであるが、現在の私は必ずしもそれらを信奉してはいない。

(澁澤龍彦「クラナッハの裸体(あとがきにかえて)」1984)

 そもそも彼の『エロティシズム』は同題のバタイユの著書や、フロイト理論に多くを負うている。それは地の文に埋め込まれているのでそれだけ取り出して、彼のオリジナルな意見と分けることはできない。それに「必ずしも」という表現は微妙である。バタイユやフロイトをまったく信奉していないというわけでもないようだ。「女性に対してかなり辛辣な意見」というのも、どれがその辛辣な意見なのかは曖昧なままである。結局のところ彼の書いていることをいったんそのまま引き受けるか、そもそも読まずに拒否するしか道はないようである。

 若い時に澁澤をそれなりに読んだ身としてはこの文を読んだ時、少々驚かないでもなかった。しかし心底驚いたということではなく、なんとなく彼らしいとも思い苦笑した。ただ文責というのはどうなるのだろうと思わないでもなかった。またこういう告白に対して、読者が怒るわけではなく、戸惑う様子もないことが不思議であった。驚くべきは澁澤のこの書き方以上に、こうした告白に対する読者の側の無関心というか「スルーっぷり」の方だったのかもしれない。

 『エロティシズム』そのものは当時単行本で読んだが、文庫本には注意を払っていなかったため、この「あとがき」を読んだのは数年前のことであるが、その時に思い出したことがある。わたし自身が創作人形誌DFJ(ドール・フォーラム・ジャパン)の取材で人形作家・土井典にインタビューした時に彼女自身から聞いた澁澤についての証言である。「澁澤さんとはどんなお話をなさったのですか。」という質問に対して彼女は次のように答えていた。


   「私はうちが教育者で固い家で育ったから、エロとは何か?それが知りたかった。澁澤さんのところに行ったのもそれが知りたかったということもある。エロスと卑猥の違いについて、彼に何度も質問しました。」(ドール・フォーラム・ジャパン』27号, 2000)


 当時澁澤はエロティシズムについての第一人者と思われていたし、教祖的な人気を誇っていた。四方田犬彦は昨年出版された『1968 文学』の冒頭の「告知と現実」という文のなかで澁澤について「彼は日本の思想界に、エロティシズムという問題を本格的に導入した最初の人物であった。」と述べている。

 思えば当時は教祖的に熱狂的に信奉される書き手が何人かいた。吉本隆明、澁澤龍彦などはその代表格である。澁澤は博覧強記な印象が強く古今東西の性の文献について縦横に語っていたという印象を持たれていた。彼は戦後のチャタレー裁判に続く1959年の有名なサド裁判の当事者でもあった。これはマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳した澁澤とこの本を出版した現代思潮社の社長が「わいせつ物頒布等の罪」に問われたというものである。またバタイユの『エロティシズム』の翻訳者でもあり、エロティシズムについて様々に語っているので、文学的、思想的な意味での性の専門家と当時は捉えられていた。土井典が「エロスと卑猥」の違いについて、このエロティシズムの教祖にお伺いをたてるのも当然という雰囲気が当時はあった。しかし17年を経て、女性について述べられた「辛辣な意見」は今では自分のものとは認めがたいと述べているのを読むと、かつて彼のこうした言葉を真摯に受け止めていた人々がいたという事実を思い、なんとも微妙な気分になるのである。

 こうした澁澤的カミングアウトに対してどう対処するべきか、そのひとつのヒントとして美術史家・若桑みどりの次のような発言を挙げておきたい。


   私は、澁澤龍彦が、かりにマニエリスムの作品やシュルレアリスムの芸術家について語っているようにみえるときにも、それはそれ自体が芸術作品だと考えている。我々の文体は、同じことを語っていてもまるでちがっている。澁澤龍彦が「・・・である」と書くときに、我々は、「・・・とだれそれは、どこそこで述べている」と書く。そしてそこに註をつけるのである。

(若桑みどり「註のない文章について」1988)

 澁澤の広範囲な知識はよく知られている。しかし註のない文章で美しい文体で披瀝されたその知識の配置の仕方は、学者のそれとは違っていた。澁澤には特有の美意識があり、彼の文はそれを表現する場であった。彼が言葉によって彼の趣味にかなった「もの」としての言葉を並べると、それは時代や場所を超えて繋がる。それは真理を目指す文章ではなくて、収集物を美しくならべるような言葉の連なりであるが、語り口は断定的である。彼の「・・・である」は「だれそれは、どこそこで述べている」という書き方ではないという若桑の指摘はその通りである。たしかに綺羅星のごとくフロイトやバタイユの名がちりばめられていても、具体的な参照先は不明のままである。どれが彼のオリジナルな意見でどれが引用であるかも完全に腑分けすることはできない。フロイトもサルトルもバタイユも、「女性不完全論」に登場するボーヴォワールもオットー・ワイニンガーも、彼が文字による芸術作品を作るための一つの素材だったということなのかしれない。この「・・・である」のもう一つの問題は、「私見によれば」というようなエクスキューズもないことだろうが、あたかもそこに真理があるかのように語られる断定的な口調こそが、同時代の多くの人が澁澤の文章の魅力に強く惹きつけられて、教祖的な人気を博した理由の一つなのかもしれない。

 とはいえ、彼が教祖であり得たのは日本国内限定である。バタイユの『エロティシズム』が出版されたのは1957年、ボーヴォワール の『第二の性』は1949年、フロイトはすでに1939年になくなり、早逝したオットー・ワイニンガーの『性と性格』は1903年に出版されたものである。なぜ年代についてあらためて述べるかというと、澁澤が本格的な導入に貢献したという「エロティシズム」という概念が、「1968」という世界的な同時性が語られる象徴的な年にふさわしい「性」の概念であったかどうかが気にかかるからである。

 ちょうど澁澤の『エロティシズム』が出版された頃から日本でも「フリー・セックス」という言葉が週刊誌などに登場するようになっていた。それは瞬く間に一般の人たちの知るところとなった。ちょうど性の言葉をめぐるパラダイムが大きく変わる時期であった。精神分析においてもフランスではジャック・ラカンのセミネールが行われていた。これには多くの女性知識人や精神分析家たちも集っていた。ラカン自身も1972年に精神分析の観点から女性性について論じた『アンコール』というセミネールを行い、女性の思想家や精神分析家が自ら女性性について新しい言説を導き出す上で大きな影響を与えていた。一方アメリカでは1970年にケイト・ミレットの『性の政治学』が出版され、女性の手でフロイトの精神分析が批判的に検証されはじめていた。ウーマン・リブをはじめとする第二波フェミニズムが台頭し女性の性に関して新しい言葉や概念を提供しつつあった。なによりも重要なのは、そこでは女性自身が女性性について検証していることである。

 澁澤の文にも「女のエロティシズム」のなかの「女性化時代は本当か?」という項目などにこの時代の変化の影響は認められる。ただそれは決して肯定的には語られてはいない。たとえば「女のエロティシズム」の「女性化時代は本当か?」の最後は次のように締めくくられている。


   男女が自由意思で子供を生むようになったということ(つまり避妊の普及)は、女の地位を性的に解放すると同時に、女の客体としての従順性を、ますます際立たせることに役立っているようだ。とかく前者のみが強調されて、後者は見落とされがちであるが、じつは女の性愛における幸福のもっとも深い基礎をなすものは、後者であることを忘れてはなるまい。

(澁澤龍彦「女のエロティシズム」1967)

 こうした言説は今となっては古く見えるし、澁澤自身が「君子は豹変する」と言っているように、これは澁澤自身がすでに1980年代には自分のものと認めていない女性差別的な議論であったかもしれない。ただそのことは1960年代から1970年代にかけて澁澤の言説が人々に与えた影響について考えることを妨げるものではない。日本の「1968」前後における性の言説を代表するものが澁澤由来の「エロティシズム」であるとしたら、それは同じ「性」について語っているように見えても、まるで一周遅れのランナーのようにも見えるからである。あるいは一周遅れの古風な言葉と、雨だれのように輸入されてくる真新しい性解放をめぐる同時代の言葉が入り乱れている状態とでも言おうか。もちろんそれは澁澤だけの問題であったわけでもない。むしろそうした世界的な同時代性とそれに対処しきれない古さが入り乱れていた日本のこの時代が澁澤を必要としていたということなのかもしれない。それは例えば次のような言葉が当時どのように読者に受け取られどのような効果を持ったかを考えると見えてくることではないだろうか。


   一本調子な性の開放論者の尻馬にのって、安易に処女否定論などを口にするドライな青年男女は、じつはエロティシズムの何たるかを少しも解しない、青くさい連中でしかあるまい。断っておくが、むろん、わたしは矯風会のおばさんではないから、純潔の道徳を説いているのではない。道徳とは全く関係のないところで、ただエロティシズムの価値を論じているだけである。

(澁澤龍彦「女のエロティシズム」1967)

 ここでは、当時の若者たちの新しい性のあり方が「青くさい」ものとして批判されている。いやきちんと批判されているのではなく揶揄されている。こういう言い回しを喜ぶ読者はどのような世代のどのような人々と想定されるだろう。あるいは次のような言葉はどうだろう。


  したがって、女がみずから処女否定論をやるのは、どだいナンセンスである。処女はみずから語らない存在である。もし処女否定論をやる女が処女ならば、彼女の論理は矛盾しているし、もし処女でなければ、彼女は自分の過去の体験を忘れたいという、何らかの強迫観念につきまとわれているとしか考えようがない。そういう女性は、ヒステリックな処女否定論をやるかもしれない。

(澁澤龍彦「女のエロティシズム」1967)

 この思考が性差別的であることも否定すべくもないだろう。興味深いのはむしろこうした文章が当時の女性や男性に対してどのような効果を及ぼしたのかということである。ここには当時の文化が、女性自身に女性のことを語らせないためのあの手この手が、あたかも何かのパロディかサンプルのようにその骨格をあらわにしている

 重要なのは、ここで語られていることの是非ではなく、女性がこのことについて語ろうとするとある語り方しか許されないように構成されていることである。もちろんこれは澁澤オリジナルの論法ではなく、当時の男性中心文化がそれなりに練り上げてきた論法のヴァリエーションの一つである。こうした論法は今でも繰り返し現代風の意匠を借りて亡霊のようにあらわれてくるが、この時期の澁澤の言説の場合、面白いのはそれが「異端」という形をとってあらわれていることである。このことによって当時の先端的な文化であった「カウンター・カルチャー」に正面から対抗することなく、それを無視することが可能となる。

 つまり正統を引き受ければ、カウンターによって正統の位置から引きずり降ろされ、旧弊という烙印を押されるというリスクを背負うことになりかねないが、正統に対する「異端」に転じることによってこうした損な立場を引き受けずに済むというわけである。この場合の「異端」は近代以前にそのエロティシズムのありかを求めていく。そこでは「アナクロニズム」はむしろ古いことによって先端的でカッコイイことになる。未来志向のカウンター・カルチャーのエネルギーは逆転して、過去の価値観へとひっくり返される。その古い価値観は実は当時の日本人にとって馴染み深いものである。ただ日本の土着の旧弊な考え方そのものではなく、ヨーロッパの過去の意匠を借りることによって、旧弊のそしりを免れることが可能となる。過去の価値観そのものではなく、過去の価値観の代替物が選択されているのである。(つづく)