テクスト効果 (3)







榊山裕子


擬制としての二者関係について(1)


 「多数決原理」と「全員一致」は相容れないと前回書いたが、この二つの原理を長い間併存させてきた国がある。それはこの国「日本」である。この国では、長きにわたって、多くの場で、「多数決原理」を公的なルールとして設定しながらも、実際の物事の決定においては、「全員一致」を「慣行」とするという「風習」がまかり通ってきた。こういう「二つの基準の併存」が何故、長い間許容されてきたのか、それどころか、それこそが「美風」だとさえ思われていたのか。そして数年前からその慣行が急速に失われつつあるのは何故なのか。

 同様に、2012年現在、失われつつある数々のもののなかに、かつて一斉を風靡した土居健郎の「甘え」という概念が示している人間関係の在り方、あるいは人間関係のそのような見方がある。これは土居自身が2007年に危惧をこめて証言していたことであるが、この一致は偶然なのだろうか。いや、「全員一致」と「甘え」は共に戦後日本に特徴的なある症状を表わしているのではないか。そしてその症状は急速に消えつつあるのではないか。今回はそのことについて考えてみたい。

 かつて丸山眞男は次のように語った。

   「だいたい閉じた共同体というものは全員一致です。つまり閉された社会というものは伝統的な一つの価値が通用しておって、その価値を認めないものはそのことで村八分になる。価値が画一化しているわけでありますから、だから当然そこでは全員一致になる。だれでも同じような考え方をしている。したがって全員一致になるのは当然なんです。」

(丸山眞男「政治的判断」)


 ここで丸山が述べている「閉じた共同体」とは、どこか遠くの国のことではなかった。名指しこそされてはいないが、彼の視野にあったのは何よりもこの国のことであったに違いない。そして21世紀を生きるわれわれも異文化を見る文化人類学者の眼差しで見るほどには、こうした共同体の在り方から遠くにいるわけではない。なぜなら、この国の政治において、全員一致をよしとする価値観は、つい最近まで、いや部分的には現在も存続しているからである。その典型的かつ代表的なものとして、「自由民主党総務会」が挙げられよう。

 いうまでもなく「自民党総務会」は、党大会・両院議員総会に次ぐ自由民主党の意思決定機関である。また常設としては、党内の最高意思決定機関である。そして自民党党則に、「総務会の議事は、出席者の過半数で決し、可否同数のときは、議長の決するところによる」とあるように、公的には多数決原理が採用されている。それにもかかわらず、自民党総務会では「全会一致(全員一致)」が慣行として行われ、その慣行は、つい数年前まで、破られることはなかった。「全員一致」は、決して全員の美しい合意によって守られてきたわけではなかった。「根回し」という言葉が象徴するように、そこでは壮絶な裏取引が行われていたという。それでも、その慣例は20世紀の間に破られることがなかった。それが破られたのは、ようやく2005年のこと、「自民党をぶっ壊す」というスローガンを掲げた小泉総理大臣が、郵政民営化修正法案を通すために、多数決による採決を強行したことによって、であったという。それまでは、「与党」(2005年当時)のこの重要な意思決定機関では、「挙党一致」を理由に「全員一致」が頑なに守られていたのだという。

 言うまでもないことだが、自民党は、「閉じた共同体」などではあり得なかった。かつての伝統的な共同体においては、「全員一致」が唯一のルールであったかもしれない。しかし自民党には「党則」があり、そこには「多数決原理」という公式のルールが誰にでもわかるような言葉で明文化されていた。しかしそのルールを「タテマエ」として掲げながら、それとは別の「慣行」としてのルールを作り、それを守り続けたこと、あるいは守らなければならない、という信念を持ち続けていたこと、そうした「二つの基準の併存」が必要であると思われていたこと、そこに戦後日本の「症状」がもっとも典型的に顕われていたように思われるのだ。

 そして今回注目したいのは、そうした症状が21世紀になってから、急速に消滅しつつあることである。そもそも小泉が多数決による採決を強行できたのは、単に彼個人の資質によるものではなく、こうした慣行が既にその意味を失いつつあるという状況があったからではなかったか。それは「日本人が変わった」のではなく「日本人が替わった」ということ、すなわち日本人と呼ばれる人々の個々の心性が変わったのではなく、日本人の構成メンバーが交替したこと、端的に言えば、世代交代によるものだったのではないだろうか。

 公的な「ルール」は、公的な手続きによって変更しない限りは存続するが、「慣行」はそれを共有するものの間にしか通用しない。それは象徴化された言葉によるルールにはない「執拗さ」によって、人々を心身ごと強く拘束し続ける一方で、それを具体的に「知る」人たちがいなくなれば、それはまるで最初からなかったかのように、蜃気楼のように消えてしまう。それ故、こうした慣行は一度でも破られてしまえば、まるでわずかなひび割れから水がにじむようにやがては大きな山をも崩してしまう。実際、この後、自民党が与党から転落したことを思えば、この「全員一致」という「慣行」を守らなければならないという「信念」は正しかったということになる。

 さて「全員一致」は、集団の成員全員が、内実はどうあれ、同一の価値観を共有しているというタテマエを保持しなければならない、という心情を「全員一致」で保持している集団によって維持されてきた。もちろん前回述べたように、ここでの「全員一致」は、平等な個人が教室で全員挙手するというようなものではなかった。そしてこれを「二者関係」に適用したのが、かの有名な「甘え」という概念だったのではないだろうか。すなわち「甘え」の構造における二者関係は、平等な「個人」を前提とした二者関係ではなかった、ということである。

 2012年現在、失われつつある数々のもののなかに、慣行としての「全員一致」とともに、かつて一斉を風靡した土居健郎の「甘え」という概念が示している人間関係の在り方、あるいは人間関係のそのような見方がある。冒頭にも書いたように、そのことは、数年前に土居健郎自身が証言していたことでもあった。自民党総務会ではじめて「全員一致」という慣行が破られ、「多数決原理」による採決がなされたその2年後の2007年、『甘えの構造』の著者、土居健郎は、ここ数年「甘え」概念をめぐる読者の反応が大きく変わってきたことをいささかの危惧をこめて語った。2007年の増補普及版のはしがきに寄せられた「甘え今昔」という文がそれである。『甘えの構造』という書物が、かつてこの国において一斉を風靡したことは多くの人の知るところであろう。著者は、著名な精神科医、精神分析家であったが、この本は精神医学の本としてよりも、むしろ当時流行した一連の「日本人論」もしくは「日本文化論」の代表的な書物として巷間に広く読まれた。それ故ここでは「日本文化論」としての『『甘え』の構造』というテクストについて考えてみることにしたい。この本は1971年に出版され、この本は版を重ね現在に至っている。土居は2009年にこの世を去ったが、土居自身によれば、2007年に増補普及版が刊行されるにあたって、あえてこの文を書いたのは「本書が書かれた時代とその後30有余年を経た今日では『甘え』についての一般の感じ方が随分変わってきたように感じられるからである」ということであった。さて、では「一般の感じ方」はどのように変わったのだろう。土居によれば、『甘えの構造』は刊行当初から「世人の注目を」引いたが、様々な批判にも晒されてきた。しかし彼は、その批判に可能な限り答えてきたという。


「私は批判に対してその都度自分の視点を明らかにすべく努めた。それで1975年には「『「甘え」の構造』補遺」を発表し、1980年には「「甘え」再考」を書き、刊行20周年の1991年には「甘え」が本来非言語的心理であるという事実をめぐって新しい序文を書き、更に2001年には「続「甘え」の構造」を出版して「甘え」概念の総括的考察を試みた。しかし恰度その頃から私の「甘え」理論に対し表立って異論を唱える者も出なくなったのである。
 さてこのことは私の持論が一般の認めるところとなったことを意味するものなら結構な話だが、必ずしもそうとは言えないことが問題である。というのはこの頃から人間関係についての一般の関心が急速に失われてきたように思われるからである。」

(土居健郎「『甘え』今昔」『甘えの構造 増補普及版』)


 「人間関係についての一般の関心が急速に失われてきた」という土居の見立てが正しいかどうかには異論もあろう。ただ少なくとも土居が「人間関係」と考えている「関係」の在り方に対する関心が急速に失われていったことは、彼が2007年当時、ひしひしと感じていたことだったようである。つまり少なくとも「甘え」に代表されるような「人間関係」の在り方に対する一般の関心が急速に失われてきたことは確かだったようなのである。そしてこの時期は、「全員一致」がいよいよ効力を失ってきた時代と一致していた。

 「甘え」と「全員一致」の関連は既に1976年に指摘されていた。『甘えの構造』が出版されて5年後、1976年に『甘えと社会科学』という本が同じ弘文堂から出版された。これは土居健郎と2人の社会科学の学者による鼎談である。1人は社会経済学を専門とする大塚久雄、もう1人は民法、法社会学を専門とする川島武宜である。このテクストに「全員一致の諸現象」という項目があり、そこで「甘え」と「全員一致」との関連が指摘されていたのである。まずは、その冒頭部分を以下に引用する。


      大塚 いまの問題と関連して考えられるのは日本では「全員一致」が非常に重要視されるということですね。農村に始まって今では社会のあらゆる部面に見られる。
  川島 前に私が言った「帰一の原理」ですね。まさしく、それは「甘え」の現象形態ですね。

(『「甘え」と社会科学』)


 ここではまず、大塚、川島が共に、日本では全員一致が非常に重要視されているということを、自明の前提として語っていることに、注目しておきたい。この認識は土居にも共有された三者全員の共通了解であったことは、その数行後に、土居が「日本の場合は何かものをきめるときに、それこそ『全員一致』ですけれども」と発言していること、更に、当時の学部の教授会の議論という具体例を挙げ、川島と大塚もそれに具体例で応じる次の問答を読めばあらためて確認されよう。

   土居 私の関係している学部の教授会は何か議論が出てきたような場合には協議会に切りかえるというやり方をしています。協議会だから何でも自由におっしゃって下さい、それは記録に残しません、というわけです。記録に残すところは「全員一致」にしなければならないのだと思います。
  川島 日本では、村会も「共産党議員が出てくるまでは、『全員一致』で決めて『割れる』ようなことはなかった」というような嘆きをいろいろなところで耳にしました。
  大塚 これは外国人には想像を絶したことのようですね。私たちがT・C・スミス『近代日本の農村起源』(岩波書店、1970年)を訳したでしょう。あれは立派な本ですね。あの本の中で、著者は徳川時代の農村における全員一致の政治的機能を実にみごとに説明しているのですが、日本では戦後になってもまだ全員一致でやっている農村があると驚いているんです(笑声)。

(『「甘え」と社会科学』)


 これらの発言から、少なくとも1976年当時、この国では「全員一致」が公的な場面で慣行として幅を利かせていたことが、理解される。2012年現在から見ると、一つ一つが30数年前の時代の証言として興味深い発言である。たとえば大塚久雄の「農村に始まって今では社会のあらゆる部面に見られる」という発言、川島の、村会において「共産党議員が出てくるまでは、『全員一致』で決めて『割れる』ようなことはなかった」という嘆きをいろいろなところで耳にしたという証言、土居の所属する医学部教授会における 全員一致の有り様、こうしたいくつもの時代の証言のなかで、今回ここで選びたいのは、川島の発言にある「帰一の原理」、「甘え」の「現象形態」であるという「帰一の原理」である。

 さて、「帰一の原理」とはどのようなものであったのか。まずは『甘えと社会科学』のなかから、それを説明した部分を以下に引用する。

      川島 私は『日本社会の家族的構成』を書いたあとで、日本の家族、部落ないし村落、種々の派閥、その他の小集団———時には中くらいの集団———における結合(cohesion)を支えている心理および規範の特色を、「帰一の原理」ということばで表現しました。「甘え」現象の「核」として土居さんが「一体性への願望」として理論構成しておられたのを知って、私が「帰一の原理」について考えてきたモヤモヤしたものがすっきりしたような気がしています。

(『「甘え」と社会科学』)


  川島はこの「帰一の原理」について、これが「個人の固有の利益を否認する『家』的協同体の原理」であるとして、それが家族だけではなく、この国のさまざまな集団の構造を明らかにするためのキーワードとなると考えていた。なぜならこの原理は、明治期からの「日本の教育の思想的背骨」としての「家族主義イデオロギー」であり、「教育勅語」(1890)や「国体の本義」(1937)などを通して人々を教化していったものだからである。それは「国と家を擬制」し、「天皇と人民との関係を親子と類推すること」によって、人々の「情緒的反応の条件付け」を行っていた。たとえば『国体の本義』には次のように書かれている。

   「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。・・・・・我が君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失わないところの没我帰一の関係である。」

(『国体の本義』)


 ここに書かれている「没我帰一の関係」こそが「帰一の原理」であり、我を滅して一つになる関係のことであるが、そこにあるのはいうまでもなく平等な個人同士の相互関係などではない。ここで「擬制」されている親子関係は、戦後の民主主義的な親子関係ではない。それを川島は「恭順(piety)をもってする絶対服従の教説」としている。つまりこれは一方の「権威」に対する一方の「恭順」、あるいは「恭順」という名の「絶対服従」によってはじめて達成される「没我」の関係なのである。また、ここでは、夫婦兄弟のような「横の関係」あるいは「平面的関係」よりも、「親子関係」という「縦の関係」あるいは「立体的な関係」が優位に置かれている。そしてそこでの「親子関係」とは、繰り返しになるが、年少者の年長者に対する、弱者の強者に対する絶対服従を「没我帰一」と言い換えたに過ぎない。すなわち、川島が、土居の「甘え」という概念、そこに見られる「一体性への願望」に見たものは、「乳幼児の母親に対する感情」や、土居が『杏っ子』の父娘に見たような「睦まじく自然」な親子関係などではなかった。そうした情緒的親子関係を「擬制」した情緒絡みの「権力関係」だったはずなのである。これは戦後教育を受けた人間にはわかりにくいことであるが、1920年生まれの土居にとっては、馴染みの考え方であったと言える。こうした関係の在り方については、『国体の本義』に以下のように記されていた。

    「我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それは家である。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。」

(『国体の本義』)


 この「立体的関係」としての「二項関係」がいかなるものであるか。これについては、次回示していくことにするが、あらかじめその意図を述べておくならば、ここでの「縦の関係」もしくは「立体的な関係」としての「二項関係」の問題について考えることは、この国の奇妙な二者関係、第三項が機能しにくい日本的「想像的関係」の問題を考えるための布石となると考える。先述の「絶対服従」の親子関係はもちろん戦後、大きく変わった。しかしそこで称揚されてきた「一体感」や「母子関係」のイメージは、かつての「没我帰一の関係」のイメージに多くを負っていた。それは言語化されたイデオロギーよりも、身体や情緒に直接訴えかける情緒性のなかに染み込んで奇妙なモンスターのように生き長らえてきた。おそらくこのモンスタこそーが冒頭で述べた「二つの基準の併存」の一方の基準の牽引車であった。そしてそれは、つい最近まで、われわれの生活や感情や思想や芸術表現や文化に強い磁力を与え続けてきた。しかし、その磁力は、近年急速にその力を弱めつつある。そうした変化のなかで、この国の文化や芸術の在り方も変わりつつある。その変化の方向を見定めるために「急がば回れ」の回り道をもうしばらく続けてみることにしたい。(つづく)











上の写真は、
南仏・サン・ポール・ド・ヴァンス
マーグ財団美術館の彫刻庭園風景。