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テクスト効果 (27)

アーカイヴ編(1)



榊山裕子


☆今回の芸術篇はお休みになります。代りにこれまでに活字化された評論のなかから既に入手が難しくなっているものをアーカイヴ編として公表します。今回はドール・フォーラム・ジャパン発行のDFJ別冊の『人・形ノート』No.2 2007年3月10日発行より『彫刻と人形「再考」』の前編を掲載します。


彫刻と人形「再考」(前)       榊山裕子

彫刻と人形の境

 人形はしばしば彫刻と比較して語られてきた。近年の重要な論考としては谷川渥「彫刻と人形 比較論の地平」(『美術手帖』二〇〇六年三月号)、単行本では増淵宗一『人形と情念』(一九八二)が、またこれらの論考でも参照されている最重要文献として高村光太郎の彫刻論、たとえば「彫塑総論」(一九二五)や「彫刻十個条」(一九二六)と和辻哲郎「歌舞伎と操り浄瑠璃」(一九五四)が挙げられよう。
 増淵は、人形を美学的に研究するそのきっかけとして、この二人の書き手の名を挙げている。彼にとって和辻の著書は自分の「人形美学研究にポジティヴに作用することによって」、高村の論考は「逆にネガティヴに作用することによって」彼の「人形美学研究を促進」したのだという。
 確かに高村光太郎の彫刻論は人形について語る時、激烈なまでに否定的である。同じヒトガタでありながら人形はただ彫刻を浮かび上がらせるために必要であるかのようにそこに登場する。彫刻と人形の間には厳然とした上下関係、階層秩序が前提とされている。増淵は高村の彫刻論を読んだ印象を次のように語っている。

   彫像制作者としての彼の内面倫理としては、「私は彫刻家である」ということは、すなわち「私は人形作家ではない」ということを意味していたように私には思えてならない。〈中略〉彼の彫塑論は、いわばひとつの人形否定論なのである。(増淵宗一『人形と情念』一九八二年)

 増淵がいみじくも言い当てているように「私は彫刻家である」という高村の主張は「私は人形作家ではない」ということをそのまま意味している。このような激しい「否定」に出会う時に思い起こされるのは、患者の激しい「否定」に出会った時にその否定をあえて「無視」する精神分析の方法である。フロイトは「否定」という論文のなかでその理由を次のように書いている。

   「この夢の人物は誰かとお尋ねですが、母ではありません」。われわれは「それは他ならぬ母である」と訂正する。分析の際には、否定を無視して、患者の思いついた内容だけを自由に取り出すのである。患者が「この人物は母ではないかと思いついたのですが、この思いつきをそのまま認める気にはなれないのです」と言っていると考えるわけである。(フロイト「否定」一九二五年 中山元訳)

 フロイトによれば、被分析者が抑圧されていた欲望を意識化させる際にこの「否定」という方法を用いることがある。たとえば「わたしはそんなことは夢にも考えていません」と否定形によって語ることによって、人は抑圧された無意識の欲望を、抑圧それ自体を解除することなく、意識にのぼらせ、それを知的に承認することが可能となるのである。
 高村光太郎の彫刻論=人形「否定」論の場合はどうだろうか。高村が例に出すのは「活人形(生人形)」や「医学上の人体標本の蝋細工」など人形の中でもとりわけリアルな人形である。それは彼が幼年時代に既に「粒に粟の生じるような」恐怖の体験によって見知っていたものであり、その「不気味さ」に恐怖で怯えたことがあるヒトガタである。文学者でもある高村らしい迫真的な描写で幼年期の子宮巡りのような生人形体験が語られたあと、何故彫刻を語るに際して、自分はこのことについて話さねばならなかったのかその理由もまた記される。

   なぜこんな事を話すかというと、この分かり易いような分岐点が、意外なほど人々に了解せられていない事を屢見るからであり、又此がよく意識せられていないと、彫刻修行の途次、つまらない悪写実の岐路に迷う事があると思うからであります。(高村光太郎『彫塑総論』、一九二五年)

 高村は彫刻に忍び込む人形的な「悪写実」を敏感に察知する。「活人形(生人形)」は彼によれば「真に迫れば迫るほど、似て非なる感、薄気味の悪い、無気味な感を人に与え」る。こうした人形特有の「不(無)気味さ」についてはフロイトが「不気味なもの」(一九一九年)において精神分析の立場から詳細に論じているが、こうした不気味さを体現した人形として、二十一世紀を迎えてここ数年日本で再評価の著しい生人形作家松本喜三郎の作品が挙げられようか。そして高村は喜三郎の人形の不気味な魅力を、一九二五年に既に次のように描写していたのである。

   この無気味さの必然に伴う効果を巧みに利用して、かの活人形の名人松本喜三郎の如きは、曾て人魚、妖婆の類を扱いまして鬼気人に迫るものを作りました。彼の三十三所観音霊験期の活人形の優れているのは斯かる點に或る悟入を持っていて、霊験というようなものに必定な、罪状にからまる或る陰惨な空気を何処からともなくただよわしたからであると思われます。(高村光太郎「彫塑総論」)

 生人形の魅力、それは「鬼気人に迫る」不気味さの魅惑であり、それは彫刻にはあってはならないもの、と強い否定を繰り返しながらも、彼は幼児期の人形体験の魅惑をいわば裏側から語っていく。高村の人形否定論の興味深いところは、強く感情的な「否定」を括弧にいれてみると、実はそれが人形の魅力を鋭くそして豊かに伝えている点にある。

松本喜三郎と不気味な人形

 人形もしくは人形的なものを見直す機運が近年高まっている。現在進行形で作られつつある人形、さまざまな手法による創作人形、球体関節人形、そしてフィギュアなどの実作品の隆盛は言うに及ばず、長く人形と人形的なものを無視もしくは軽視してきた美術史や美学においても「人形的なるもの」の見直しが始まっている。その背景には「美術」「彫刻」の自明性そのものが問い直されていることが関係しており、日本では「美術」や「彫刻」が翻訳語として定着した時期が近年しきりにクローズアップされている。たとえば北沢憲昭は次のように論じている。

   彫刻はいうまでもなく美術の一ジャンルである。このことは、彫刻が明治になって成立したジャンルであることを示している。「美術」は明治になって西欧から移植されたジャンルだからである。(北澤憲昭「『彫刻』の行旅」二〇〇六年)

 北澤によれば、「彫刻」という語、また「彫刻という名に対応する造型」は、江戸時代以前にも存在しなかったわけではない。しかしそれは「彫り刻む」という意味で用いられていたに過ぎず「それらを造型の特質に対して総称することは行われていなかった」。これは作り手の「かまえ」から見れば「『彫刻』という見方が存在しない以上、『彫刻』を制作するという意識もありえな」かったということである。
 「美術」という概念や「彫刻」というジャンルが明治初頭に確立したとしたら、その時期に「美術」や「彫刻」にカテゴライズされた作品とそこから抜け落ちた作品があったはずだ。それ故この時期の問い直しが「美術」や「彫刻」から抜け落ちた作品の再評価を伴うというのは必然の動きであろうし、近年松本喜三郎の作品が再評価されているのもこの大きな流れと無縁ではないだろう。その周辺事情を辻惟雄は次のように書いている。

   近代日本美術の研究者の関心は、現在、そのつなぎ目に向けられている。西洋文化と伝統文化との思いがけない遭遇がもたらしたさまざまな興味深い現象への関心である。高橋由一もその観点から取り上げられ、また江戸時代の「見世物」が改めて脚光を浴びている。
   江戸時代の「見世物」は、寛永年間、四条河原での珍獣見世物や曲芸のさまざまが風俗画や文献に残る早い例であり、江戸時代後半には、江戸の両国橋橋詰めや浅草奥山の見世物のにぎわいが浮世絵その他に残されている。安政地震の前後、浅草奥山で興行された松本喜三郎の生人形は、とりわけ人気を集めたが、その本物とみまがうなまなましさは、由一の油絵の迫真性に通じる。(辻惟雄『日本美術の歴史』二〇〇五年)

  この高橋由一の油絵や松本喜三郎の生人形のリアルな「迫真性」は現在の人々の目から見るとたじろぐような生々しさを漂わせているし、どことなく奇妙で不気味に感じられる。しかしそれはわれわれが既に「美術」や「彫刻」を自明のものとしている時代を生きてきてしまったからであろう。こうした自明性は実はこの国ではそれほど遠くはない時代に確立したのであり、高村自身は実はそれが成立しつつある過渡期を生きていたと言える。彼にとって喜三郎の人形は実は身近にあったいわば親しいものであり、だからこそ彼は自分のうちに巣食う「人形的なるもの」を削ぎ落とすために、彼にとっての「彫刻」を確立するために、何度も人形について書き、そのたびに彫刻との差異を確認し、それを「不気味なもの」として繰り返し葬り続けねばならなかったのではないだろうか。

不気味なもの

 近年「人形的なるもの」がしきりに現代美術に登場している。江戸と明治の境目への関心はこうした現在形の動きと無縁ではなかろう。しかしここで仮に「人形的なるもの」と呼んだもの、それは「彫刻的なるもの」の網の目から抜け落ちる何ものかの仮の名称に過ぎないかもしれない。こうした作品を論じるに際して近年「不気味なもの」との関係がしばしば論じられている。「不気味なもの」とはフロイトが同題の論文の中で用いた重要な概念であるが、なぜそれが近年しきりにクローズアップされているかといえば、一つには「不気味なもの」という論文がそのテーマとして端的に「人形」の不気味さを扱っているというわかりやすい事情が挙げられようが、より本質的なところでは、それが「美」について、既成の「美学」の中心からではなく、精神分析という「周縁」から論じていたことが挙げられよう。それはまさに「人形」が「彫刻」との関係において置かれていたような「周縁」にまつわる「美」の問題を論じていたのである。フロイトはこの論文の冒頭を次のように書き始めていた。


   精神分析家が美学的研究をやってみたいという気持ちにかられることは滅多にない。美学を、美しいものについての教えに限定せず、われわれの感性的知覚の様々な性質についての教えと規定しても、そのことに変わりはない。分析家は心の生活のもっと別の層で仕事をしており、ふつう美学の素材となる感情の蠢き、すなわち目標制止され、和らげられ、随伴する非常に多くの事情に依存している感情の蠢きとはほとんど縁が無い。それでも、分析家が美学の特定の分野に関心を抱かずには済まない場合も散見されるのだが,其れは通常、美学の専門文献では軽視される周縁の分野に対してである。
 そのような分野の一例が「不気味なもの」である。(フロイト『不気味なもの』一九一九年 藤野寛訳)

 「不気味なもの」は、通常人々が避けようとするおぞましいもの、ぞっとするもの、恐ろしいもの、美とはむしろ反対の醜に属するものと考えられる。しかしフロイトがここでまず示していくのは、不気味な(unheimlich)ものはその反対語である慣れ親しんだ(heimlich)ものと重なりあう意味を持つという事実である。そしてそれは精神分析が分析の過程で発見してきたこととも一致する。「不気味なもの」は母との近親相姦願望及およbその禁止と関わっている。母への欲望は禁じられなければならない。こうして最も親しかった懐かしきものは否定され、抑圧され、無気味なものとしてかろうじて生き延びることになる。


   神経症の男性が、女性の性器は自分にとって何かしら不気味だと断言するということがしばしば起こる。この不気味なものは、しかし、人の子にとって古の故郷への入口、誰もがかつて最初に滞在した場所への入口なのだ。「愛とは郷愁だ」と戯れに言われもするし、ある場所や風景を夢に見ている人が、「これは私には見覚えがある。私はここにすでに一度いたことがある」と夢の中で考えるとすれば、それを解釈するために、母親の性器や母胎を持ち出す事が許されるだろう。つまり不気味な[unheimlich]ものとは、この事例にあっても、かつて慣れ親しんだ[heimlich]もの、古くから馴染みのものである。そして、この言葉についている前綴り[un]は、抑圧の目印なのだ。(フロイト「不気味なもの」)

 この前綴りunこそは「否定」であり、否定は抑圧の刻印なのである。 
 「不気味なもの」は正統的な美学の「周縁」に関わるとフロイト自ら語っているが、これは彫刻と人形の関係にもあてはめてみることができそうだ。彫刻が中心に置かれたとき、人形と「人形的なるもの」が、周縁として「不気味なもの」として配備されたのである。しかし不気味なものは、波打ち際に打ち寄せる波のように絶えず境界線を脅かす。ここで再び高村光太郎の人形についての記述を読み返すならば、その表現の随所に子宮巡りを思わせるような懐かしくも不気味なものについての描写が生き生きと語られているのが読み取れよう。否定しつつも、いや否定することによって、抑圧を免れ、人形的なるものがそこに息を吹き返している。それは高村光太郎の表面の意図を超え、否定を介して、そこに生き生きと顕われ出ていると言えよう。 (つづく)

『人・形ノート』No.2 2007年3月10日発行