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テクスト効果 (23)
  芸術編(11)



榊山裕子


人形と独身者


 先回、土井典の人形が同時代の第二派フェミニズムに対応する「愛玩拒否」を表現していた一方、澁澤龍彦が当時唱えていたエロティシズムの内実は「成長拒否」であったと述べた。時代は「性革命」と「性の政治」が語られた時代であったが、澁澤流のエロティシズムは生殖を排除することによって成り立っていた。
 ちなみに「性革命」は性道徳の革命であるとともに、それまでのヘテロセクシュアルの男性中心の性の在り方への根本的な問題提起でもあった。その意味で土井の「愛玩拒否」というテーマは、男女の性の在り方の根本を問い直すという意味で根源的な意識「革命」の萌芽を示していたと言える。
 しかし土井以後の女性の球体関節人形作家には、土井的な「愛玩拒否」という問題意識は受け継がれていかなかった。むしろ澁澤的な「成長拒否」の影響から出発して作品を制作していく傾向が見られたのである。「愛玩拒否」は「性」の対象としての「女性」の在り方に対する批判的な問題提起であるが、女性にとっての「成長拒否」は、大人の女性へと成熟することの拒否である。前者は「愛玩」する者や「視姦」する者に対する問い返しに繋がるが、後者は自分自身の身体に向かう。日本で1970年代から独自の花を咲かせていく球体関節人形とその作り手である多くの女性作家たちについて語るに際してこの「成長拒否」の傾向は無視できない。

 この「成長拒否」と澁澤流のエロティシズムの関係であるが、先回紹介したように種村季弘は澁澤が1968年に責任編集した雑誌『血と薔薇』の特徴を戦前の児童向け雑誌の「コドモノクニ」の世界に喩えている。『血と薔薇』はサディズム、マゾヒズム、同性愛など一見さまざまな倒錯的な性の在り方に彩られているが、種村によれば、そこで表現されていたのは1960年代末の「アメリカ的なセックスの解放」、すなわち成人した青年の年長者への反抗としての性ではなく、「それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子供の多形倒錯(フロイト)の世界」であった。

 「子供の多形倒錯」への憧憬は澁澤自身が早くから語っていたことである。1965年、澁澤は『快楽主義の哲学』という新書をカッパブックスから出している。大衆向けにわかりやすく書かれたということもあり、その後の彼の本のスタイルとなる、キラ星のごとく明滅する固有名詞や難解な専門語はちりばめられてはいない。しかしそれだけに彼の考え方の地が意外に素直に出ているとも言えそうだ。彼はここで「情死の美学」や「乱交のユートピア」について語ったあと、最終的に「性感帯の拡大」を提唱している。つまり「性器だけが、まるで専制君主のような特権的な地位を占め、あらゆる快楽を独占している現状」を批判し、性感帯を「肉体全体に押し広げるべき」としたのである。それこそが「肉体の階級制度をどんどん打破」することだというわけである。これはペニスとヴァギナの結合のみを唯一の性交とみなす性器中心主義に対する、更には男根中心主義に対する異議申し立てと見ることも可能である。たとえば彼は次のように性感帯の拡大を主張する。


   サドがその小説のなかで大胆に描いてみせたように、わたしたちは、肉体の階級制度をどんどん打破すべきです。性器の優位をくつがえし、すべての性感帯を復活させるべきです。クンリニングス(口と女性性器との接触)も、フェラチオ(口と男性性器との接触)も、おおいに奨励すべきです。それどころか、できれば背中にも、足の裏にも、脇の下にも、おへそにも、鼻の孔にも、つぎつぎと性感帯を押し広げるべきでありましょう。(澁澤龍彦『快楽主義の哲学』)


 この部分だけ引用すると、性器中心主義を打ち壊しその先に向かう価値の転換を提唱する性の革命を志向しているようにも見えるが、次の行に移り具体例になると、話は一気に無邪気かつ退行的なトーンに変わる。


   それは具体的にどういうことかといいますと、子どもの世界、遊びの世界に帰るということです。だれもが知っているように、子どもの世界には、つらい労働というものがない。それは、ほとんど完全に快楽原則(第一章で説明しました)に従属した世界です。(澁澤龍彦『快楽主義の哲学』)


 つまりさまざまな異常な性向の奨励は結局のところ「子どもの世界、遊びの世界」への帰還に繋がるというのである。それは、これまでの成人の性の在り方を批判しその先に向かおうとする挑戦的な試みではなく、子供の世界に留まることのススメであった。また彼が考える「快楽主義者の現代的理想像」に合致するのは深沢七郎や岡本太郎であり、両者はともに「女房子どもなんかもたず、いつも自由な独身生活を楽しんでいる人」である。つまりここでは生殖の問題、次世代の再生産の問題は否定されているというよりも、ただ回避されている。先回澁澤の「倒錯」は幼児の「多形倒錯」を思わせると述べたが、澁澤自身もかなり早い時期にそれを自覚し自ら文中で告白していたのである。澁澤を知る人たちもまた、しばしば彼の幼児性、少年性について言及している。たとえば澁澤を敬愛する土方巽は「彼には少年時に自己の心の巡礼を決めこまされたある決定的な事件があったに違いない。それが息切れもせず、ずっと続いている」とその性向を彼のたぐいまれな個性として描き出している。

 澁澤が編集した『血と薔薇』はエロティシズムを前面に押し出しているが澁澤的な好みがそこに強く反映していた。それゆえ男性同性愛、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムなどとともに「機械」が重要なテーマとなっていた。第1号では「オナニー機械」という特集に、カルロス・マルキオリ、飯田善国、金子国義、池田満寿夫、中西夏之、鈴木康司、横尾忠則、長澤節ら当代一流のアーティストたちが絵画作品を寄せた。この号ではまた「オナニー機械資料編」として種村季弘がミシェル・カルージュの「独身者の機械」について論じている。第2号では機械好きかつ人形好きによく知られる「未来のイブ」に想を得た絵画作品が、司修、中村宏、落合茂、谷川晃一によって、また「殺人機械」というテーマで池田達雄、長新太、中村宏、堀内誠一、トミー・ウンゲラーらによる作品が描かれ、誌面を飾るという贅沢ぶりであった。またカフカの『処刑機械』とデュシャンの『大硝子』についてのカルージュの分析が美術評論家・東野芳明によって詳しく紹介された。ミシェル・カルージュはフランスの批評家で作家、シュルレアリスムに傾倒し、1952年に「独身者ー機械」を雑誌『メルキュール・ド・フランス』に掲載、その2年後に『独身者の機械』として出版、その後1976年に増補改訂版を刊行している。それ故『血と薔薇』刊行の時点で参照されていたのはこの1954年の初版である。この本が『独身者の機械』というタイトルで高山宏らの手によって、最初に邦訳されたのは1991年のことであったが、この本と「独身者の機械」という概念の紹介は既に1960年代からなされており、一部の日本の男性知識人や愛好家の間で評判を呼んでいた。今年、2014年春にこの『独身者機械』を新たに翻訳したフランス文学者の新島進氏はその点について次のような興味深い指摘をしている。

   そんな未来の住人たるニホン人が『独身者機械』になにかを感じたのも偶然ではないでしょう。本書(初版)は一九六〇年代よりすでに部分訳が試みられ、また『超男性』邦訳版(一九七五)の解説において巌谷國士によって長く引用されたりもしました。フランスで新版刊行後、その全訳については『超男性』の訳者である澁澤龍彦氏が「一番乗り気だった」にもかかわらず一九八七年に逝去、重い腰をあげない日本のフツブン界のふがいなさに隔靴掻痒した高山宏氏が森永徹氏と共訳で刊行したのが一九九一年の旧邦訳版でした。
   この邦訳版は、やはり表題の強烈さからか、とりわけ日本のアーティストたちの注目を集めました。たとえば岩井天志氏は『未来のイブ』を原案に、またひとりの独身者機械アーティストであるアメリカのクエイ兄弟からの影響を感じさせる人形映画を一九九六年に製作、そのタイトルをずばり「独身者の機械」としました。(新島進「解説 ミシェル・カルージュと独身者機械」)

 実際に「未来のイヴ」に想を得た岩井天志氏の『独身者の機械』は、1997年イメージ・フォーラム・フェスティバル審査員特別賞を受賞するなど、人形アニメとして評判を呼ぶこととなった。

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 また映画監督・押井守がハンス・ベルメールや球体関節人形に影響を受けて製作したアニメ映画『イノセンス』にもこの「独身者機械」の影響が濃厚に見られることは同じく新島氏が指摘するところである。

   この作品とも呼応し、また『独身者の機械』最大の副産物ともいうべきものが、押井守「イノセンス」(二〇〇四)でしょう。ハンス・ベルメールの人形写真にインスピレーションを受けた作品であり、リチャード・コールダーのガイノイドSFもネタ元としてありますが、ハダリー、ソワナ、そしてロクス・ソルス社といったネーミングの使用から独身者機械論が影響を与えているのは間違いありません。とりわけ訳者は「イノセンス」冒頭の『未来のイヴ』からの引用が同作品の既訳、つまり渡辺一夫訳でも齋藤磯雄訳でもないことが長い間不思議でならなかったのですが、ある日、この引用が、本書旧邦訳版の訳文と一字一句同じであることに気づき仰天しました。バトーたちの電脳がアクセスするデータベースには『独身者の機械』が書き込まれていたわけです。(新島進「解説 ミシェル・カルージュと独身者機械」)




 つまり「イノセンス」にもまたカルージュの『独身者の機械』の影響が極めて濃厚だということである。こうしてベルメール、未来のイブ、初音ミク、ハダリー、カルージュなどさまざまな固有名詞がまるで何か秘密の共同体の合言葉か符牒のように「独身者の機械」という言葉と連鎖していく。独身者の機械を愛好する人びとはこの符牒を互いに発見し合うことに喜びを見出すかのようである。『独身者機械』という書物がそうであるように、『イノセンス』という映画がそうであるように、『血と薔薇』という雑誌がそうであるように、一見おどろおどろしい文言や異端的な単語や通向けとされる美しい固有名詞がちりばめられているが、それらは子供が好む昆虫や機械や硝子玉のコレクションに似ている。たしかにここにはコドモノクニにも似た世界が拡がっているのである。とりわけ機械は男の子の好むものである。独身者機械とは畢竟男の子のペニスのことであるとするなら、ここでのエロティシズムは表向きは生殖拒否だが実は生殖以前なのだということになろう。

 しかしこのコドモノクニに多くの優れた表現者が集まり、そこから一群の興味深い表現が育っていったこともまた事実である。それは澁澤スクールとでもいうべき表現者の共同体を形成していた。たとえば人形作家の四谷シモンや舞踏家の土方巽にとっては、澁澤との出会いは必然であったと言えよう。両者はともに既成のジャンルに収まり切らない表現者であったからである。いわば澁澤の芸術愛好の在り方そのものが多形倒錯的であり、それは既成のジャンル分けからははみだすか抜け落ちちてしまう表現に親和的であったということが言えるかもしれない。

 また澁澤の生きた時代が、大きな価値観の変わり目をまたいでいたことは重要であろう。種村季弘は澁澤の編集を引き継いだ平岡正明による『血と薔薇』第4号と澁澤編集の同誌との違いについて「その後も平岡(正明)君たちの「血と薔薇」四号とか、マガジンハウスの少女向け雑紙をはじめ、いろいろな雑誌が出ましたが、戦後生まれの人が編集した雑誌にこちらが異和感を覚えるのは、どこまで行ってもここにある現実に地続きであること」と指摘し、「そのへんが違うんです。失われた戦前の子供部屋があって、いまがある。そしてその間に虚虚の無がある」と述べている。

 この戦後や戦後世代への違和感は、小熊英二が『民主と愛国』のなかで江藤淳について述べたいわゆる「少国民世代」の感性に繋がっているように見える。ちなみに江藤淳は1933年生まれの種村季弘と同世代であるが、1928年生まれの澁澤はもう少し年長である。すなわち「失われた戦前の子供部屋」のイメージはむしろ種村のものであって、澁澤の失われた部屋はもう少し年長の旧制高校の学生の部屋であるかもしれない。ちなみに澁澤は旧制高校の雰囲気を知り、またそこでフランス語やドイツ語を学んだ最後の世代である。

 一方、澁澤の精神的な盟友であった三島由紀夫は1925年生まれの「戦中派世代」であり澁澤より年長である。1928年生まれの澁澤は「少国民世代」と「戦中派世代」のちょうど間(はざま)にいることになる。通常の時代ならばわずかな年齢差であるが、この前後の世代にとって数年の違いが重要なのは、徴兵経験があるか否か、徴兵検査を受けたか否か、あるいは同級生が徴兵され、また多くの同級生が戦死した経験を持つか否か、また幼少期や思春期に皇国教育を受けたか否か、言論統制の時代に何歳であったか、学生時代が外国語教育もままならぬ時代であったか否かなど、この時代の数年の差がもたらす経験の違いは、その後の世代には図り難い大きなものがあったからである。

 たとえば三島に近い1924年生まれの吉本隆明は父の勧めもあって理系に進学したため勤労奉仕はしたものの徴兵は免れている。しかし多くの同級生が戦死した世代である。小熊英二は『民主と愛国』のなかで「この『戦中派』知識人の代表として挙げられることが多いのは、評論家の吉本隆明、作家の三島由紀夫、政治学者の橋川文三などである。これらの人びとは、その思想傾向をこえて、ある種の共通性をもっていた」と指摘している。特に吉本は理系に進学したことによって、三島は入隊検査を受けながら誤診により即日帰郷したことによって徴兵を免れたことは、さまざまな偶然が作用していたとはいえ、その後の彼らの思想形成に大きな影響を与えた。また彼らの思想的傾向には彼らの受けた皇国教育が大きく作用していた。この点を小熊英二は次のように指摘している。

   この「戦中派」は、戦中に最大の動員対象にされ、もっとも死傷者が多かっただけではなく、中等・高等教育をまともに受ける機会をもてなかった。また彼らの幼少期は皇国教育が激化した時期であり、しかも極度の言論弾圧のため、マルクス主義や自由主義に接することも不可能だった。そのためこの世代は、幼少期から注ぎこまれた皇国思想を相対化する経験も知識もなく、敗戦まで戦争に批判的な視点をもたない者が多かった。(小熊英二『民主と愛国』)


 「敗戦まで戦争に批判的な視点をもたな」かったのは、戦前の教育を受けた者の一般的な現象であったかのように戦後世代からは捉えられることがあるが、それは正確ではない。たとえば「戦後に行なわれたアメリカ戦略爆撃調査団の面接調査によれば、敗戦を確信していた者は、調査対象者の五四%にのぼっていた」という。「敗戦などを予告する米国の宣伝ビラ」を信じた者の比率は、農村部よりも都市部、若年層よりも年長者に多かったという。「平和な時代を生きた経験があり、それなりに世知に長けていた年長者は、たとえ知識人ではなくても、戦争を相対化してみることができた」のであり、「敗戦を突然のものと受けとめ」まるで世界が一気に変わってしまったかのように感じたのは「皇国教育で育てられた純情な若者を中心とした現象」(小熊英二)だったからである。また戦前の旧制高校や大学においては、官憲の弾圧などもあったとはいえ、マルクス主義を学ぶ機会はあったのであり、それが完全に弾圧されていた時代は実はそれほど長くはなかった。だからこそ戦後、年長者がマルクス主義や民主主義や自由主義について既に知っていることとして語り始めたときに、そうした教養に全く接する機会を持たなかった戦中派のなかから不信感が湧き起こったのも故なきことではなかったのである。

 ちなみに1933年生まれの種村季弘は「敗戦時に10歳前後から10代前半」の「少国民世代」であった。彼らは戦中派以上に「戦争と皇国教育に塗りつぶされて育った」世代で、この世代の小田実は自らを「平和の到来をむしろ奇異な感情でむかえた、<奇異>な世代」と表現した。江藤や小田実や大江健三郎などこの世代は、多かれ少なかれ、戦後の平和な時代を現実感のないものとして感じざるを得なかったことをそれぞれの言葉で語っている。種村季弘の述べる「虚無の無」もこの世代の感性の在り方の一つの表明であると言えそうだ。

 澁澤の場合は、1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(ドイツ語)に進んでいた。理系に進んだのは飛行機の設計者に憧れたのと徴兵逃れの意図もあったと言われているが、ほどなく敗戦となり、吉本隆明のように同級生の多くが戦死するという経験は持たなかった。また旧制高校から新制高校への変わり目の時期であったため、戦後に旧制高校の最後の空気を知ることとなった。それ故彼は旧制高校の空気のなかでフランス語やドイツ語を学ぶ機会を得ることができた。彼が通っていた旧制浦和高校では戦時中は敵性語であるフランス語のクラスは廃止されていたが、戦後、澁澤の一級下から復活したため彼は一級下の授業に潜り込み、フランス文学者であり後に東大名誉教授となる平岡昇に直接フランス語を学ぶ機会を得た。また併行してその時期、アテネ・フランセに通ったが、アテネ・フランセもまた戦時中閉校に追いやられていたのが戦後復活したばかりなのであった。高校といっても現在の大学の教養課程に匹敵するかそれ以上の教養を身につけることができた旧制高校は戦後の学制改革によって1950年には完全に廃止されることになる。つまり彼が旧制高校でフランス語を学んだのは奇跡のように短い狭間の時期においてなのであった。大学も新制への変わり目であったため、澁澤の場合、大学入学では難儀し、二浪することになるが、大学に入る時には既にかなりのフランス語能力と教養を習得していた。すなわち彼はこの移行措置の狭間で、旧制高校的な教養主義の残り香を味わうことができた最後の世代であったということになる。彼の作品に感じられる何か懐かしい教養の香り、セピア色の古い写真のような味わいはたしかに戦後教育で育った人びとの文章には感じられないものではないだろうか。

 さて今回、長々と時代背景について述べたのは、澁澤の幼児性と見えるものには、「彼には少年時に自己の心の巡礼を決めこまされたある決定的な事件があったに違いない。それが息切れもせず、ずっと続いている」と土方巽に言わしめたようなある必然性があったと思われるからである。あるいはその幼児性によって凍結せざるを得なかった文化の香りに一定の必然性が感じられるからである。これはその後の世代には見られない澁澤の世界の特徴である。それは再現しようとしても再現できるものではない。澁澤的世界の価値は、たとえば映画『ブリキの太鼓』の主人公が3歳で自ら成長を止めることを決意するような、ある種の決意に支えられている。そしてそれは内在的な理由よりも、外の世界の圧倒的な力に規定されたその結果であることによって、表現としての必然性と一定の説得力を持ち得たのだと言えよう。つまりある時期に外部からの圧倒的な力によって翼をもぎ取られたが故に、幻の翼を再現しようとする表現が人を納得させる力となるのであり、澁澤ワールドなるものが、戦後のオタク的な精神と繋がりながらもどこか決定的に違い、密やかにではあるが、今も輝き続けている理由はその辺りにあるように思われるのである。

(つづく)