人形と女性(5)
土井典と1968という時代
先回紹介した合田佐和子が「オブジェ人形」を制作し、本を出版したのは1965年のことである。その後彼女は、人形を離れ、立体のオブジェから平面作品へと移っていった。先回も書いたように、この1960年代後半から1970年代にかけては、人形が美術とかなり接近した時期であった。また学生運動、新左翼運動、ウーマンリブ運動、性革命などの影響を受けながら、文化や芸術表現にも大きな変革がもたらされていく時期でもあった。
今回紹介する土井典はそうした激変の時代に人形製作を開始した。土井は女子美術大学図工科を1955年に卒業し、マネキン会社に勤務する傍ら、独特な人形やオブジェを作っていた。彼女がその名を広く知られるようになったのは、澁澤龍彦責任編集の『血と薔薇』の企画に小道具で参加したことがきっかけである。そこで彼女は1968年から69年にかけて、ドイノリコ名でその第2号と第3号に小道具で参加、第2号の特集「鍵のかかる女」において、芦川羊子が着用し、立木義浩が写真を撮ったグラビアの貞操帯を制作、また第3号では、篠山紀信の写真、イメージ・ディレクターに堀内誠一の「制服の処女」特集で小道具のペニスケース製作を担当している。
1968と幻の雑誌
この雑誌は三島由紀夫、稲垣足穂、吉行淳之介、飯島耕一、加藤郁乎、塚本邦雄、高橋睦郎、田村隆一、吉岡実、野坂昭如、倉橋由美子ら錚々たる文学者や詩人、土方巽、芦川羊子らの舞踏家、篠山紀信、立木義浩、細江英公らの写真家、飯田善国、中西夏之、池田満寿夫、堀内正和、横尾忠則、金子国義、野中ユリらのアーティスト、澁澤龍彦、種村季弘、巌谷國士、川村二郎、松山俊太郎、堂本正樹、植草甚一、その他さまざまな分野の一流の表現者を迎えた贅沢な雑誌であった。当時の澁澤龍彦の求心力の一端が伺える豪華な布陣である。
『血と薔薇』第2号表紙 貞操帯は土井典製作
『血と薔薇』が刊行された1968年、この年に東大闘争が起こり、フランスでは5月革命が起こった。この同じ年の12月にこの雑誌は刊行されたが、澁澤の編集は3号で終わり、敗戦処理のような第4号は平岡正明の編集でなされ、内容や雰囲気は著しく異なるものとなった。
さて第1号の冒頭は写真グラビアの特集である。「LES MORTS MASUCLINES 特集 男の死」という活字と、バタイユの著書の一節「エロティシズムとは、死にまで高められた生の賛美である」という一節が透けた紙に印刷されている。そしてそこから少し透けて見えるのは、冒頭のグラビア写真、三島由紀夫の有名な『聖セバスチャンの殉教』(写真・篠山紀信)である。
被写体には三島の他、澁澤龍彦、唐十郎、土方巽らが参加している。そして目次に続いて「血と薔薇」宣言が掲げられ、七項にわたる宣言文が連ねられている。その冒頭を引用してみよう。
1、本誌『血と薔薇』は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。
一見して、過激な宣言であるように見えるが、ここで語られるエロティシズムは、1960年代から1970年代にかけて欧米諸国、とりわけアメリカで隆盛した性革命や性解放と言われた現象とはいささか趣を異にしていたようである。この雑誌にも寄稿していた種村季弘は、2003年にこの雑誌の復古版が出版された際に、この頃のことを回想して、別冊のリーフレットに次のような談話を寄せている。
「血と薔薇」は一応、エロティシズムの雑誌が建前だったのですが、60年代末のあの頃は、エロティシズムといっても、ヒッピーがアメリカから持ち帰ってきたライヒやマルクーゼの性解放論が主流でした。「血と薔薇」もそういう時代思潮の影響を受けていないではなかった。しかし今にして思うと、同時にそれとはまったく対極的な方向も打ち出したのだと思います。一口にいえば「コドモノクニ」の世界。
アメリカ的なセックスの解放というと、どこか青年期の成長幻想のようなものが匂いますね。アメリカはもともと万年ユースフェティッシュ(青春崇拝)の国だから。「血と薔薇」の方はしかし成長を拒否したとはいわぬまでも、それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子供の多形倒錯(フロイト)の世界を夢見ていたのだと思います。それも、号を追うごとにますますその傾向が強くなってきた。
(種村季弘「コドモノクニ あるいは『血と薔薇』の頃」)
この発言は、この時代やこれらの思潮をよく知る種村の発言だけに興味深いものがある。確かに『血と薔薇』にはサド・マゾヒズムや同性愛やオナニズムやフェティシズムやさまざまな倒錯的傾向が溢れているように見えるが、そのどれにも強いこだわりがあるわけではなく、むしろそれらがゆるやかに遍在している。真正の倒錯というより多形倒錯を思わせる。実際、血と薔薇宣言においても「インファンティリズム(退行的幼児性)を賛美する」という一節があった。
サド裁判と表現の自由
とはいえ当時、澁澤龍彦は「『コドモノクニ』の世界」に閉じこもっていたわけではなかった。というより当時の状況は彼にそれを許してはいなかった。なぜならこの時期まだ彼はサド裁判の被告人であったからである。
サド裁判とは何か。これは澁澤自身が被告になっていた裁判のことである。1959年に翻訳出版したマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え・続』について、翻訳者である澁澤は、発行人である現代思潮社の石井恭二とともに猥褻文書販売および同所持の容疑で起訴された。このいわゆる「サド裁判」は最高裁までいき、1969年に被告側の敗訴で罰金刑が確定することになる。それゆえ『血と薔薇』が発行されたこの時期はまだ裁判は終わってはいなかったわけである。裁判には大岡昇平、大江健三郎、埴谷雄高、吉本隆明など弁護側の証人として多くの知識人が登場していた。また特別弁護人には白井健三郎、遠藤周作らがいた。これら60年代を代表する文化人が名を連ね、澁澤の異端ぶりにはこうした背景が説得力を添えていたといえる。多くの文化人たちがサド裁判に参加し、表現の自由のために澁澤を擁護した。これは1951年にはじまり57年に終わった「チャタレー事件」に続く芸術と猥褻と表現の自由を巡る裁判であり、この後には1980年の四畳半襖の下張り事件が続き、「猥褻」と「芸術」の問題はこうして政治と関わりながら、周期的に話題に上っていた。
澁澤自身は現実の政治とは一線を画し、かかわることはなかったが、こうした背景があったため、当時の全共闘運動や「反体制」的な動きと連動して考えられることはしばしばあった。また当時の学生たちにはそうした観点から澁澤に共感するものもいたが、澁澤の妻である澁澤龍子は、のちに朝日新聞のインタビューに答えて「渋沢は政治的発言をしないのに、反体制派や政府に批判的な学生から同志とみなされた。むろん体制側でもないから、困惑していた」と語っている。
土井典と性解放の時代
この澁澤龍子の発言は、政治の時代であったにも関わらず、『血と薔薇』には同時代の政治的な問題に関する言及はなかったことと呼応している。また性をテーマとしながらも、この時代に巷でもしきりに語られていた「フリー・セックス」や「性解放」といった現象への言及がないことも澁澤的であるといえば澁澤的である。ここで気になるのは、こうした澁澤の個人的な傾向が、同時代の性を巡る表現に与えた影響である。当時、澁澤はサド裁判をかかえ、『快楽主義の哲学』(1965)や『エロティシズム』(1967)などを出版し、性やエロティシズムについて語り、書き、この方面の専門家であるように見なされていた。
澁澤龍彦『快楽主義の哲学』
それ故、土井もまた、その方面に詳しい澁澤からいろいろ知識を得ようとしていた様子が、ドール・フォーラム・ジャパンで2000年に筆者自身も参加して行なったインタビューにおける土井の次のような発言から読みとることができる。
私はうちが教育者でかたい家で育ったから、エロとは何か? それが知りたかった。澁澤さんのところに行ったのもそれが知りたかったということもある。エロスと卑猥の違いについて、彼に何度も質問しました。結局、彼に言わせるとどれも同じだ、と。それが私の原点。(『ドール・フォーラム・ジャパン』第27号カバーインタビュー 特集 土井典)
戦後、性差による大きな不平等は法律上はなくなったとはいえ、慣習的にはそれは容易に消えるものではなかった。「初等教育では民主教育で男女平等の理念を教えられながら、実際の社会は以前の性規範を抜け出ていなかった」(註1)のがこの時代である。特に「かたい家」で育った女性にはそもそも男性に近づくこと自体をタブー視する傾向が、少なくとも戦前育ちの親の世代にはまだまだ色濃くあった時代である。土井の場合、大学進学にしても「姉が結婚して西荻窪に住んでいて、女子だけの学校ならいいという」(註2)ことで女子美に進学したという経緯があった。このように新しい性風俗や性に対する新しい思潮が輸入される一方、女性は結婚までは男性と接するべきではない、という道徳観がまだ生き残っていた時代なので、特に女性の場合、性の知識は断片的にしか得ることができなかったはずである。そして女性を無知の状態に置くことが性道徳であり得た時代から、そういう枷だけが取りのかれ、それに変わる基準や知識を与えられないまま放り出された若い人々のために、そこから起こるさまざまな問題に対応するために、そうした無知を補うはずの性を巡る情報の偏りを是正する一つの方法として「性教育」の必要性が唱えられていた時代でもあった。しかし性を巡る価値観は多様で容易に一致点は見出せないようであった。
たとえば1971年に出版された『共同討議 性』(筑摩書房)では松田道雄、多田道太郎、橋下峰雄、作田啓一といった各界の第一人者がこの時代の性の状況について討論している。そのなかで、医者で教育評論家の松田道雄は「性教育批判」という一文において、女性に関して戦前は「男に対する服従が、貞淑といわれ、女のまもるべき道徳とされていた」(註3)と証言している。一方男性はと言えば「戦前の日本には禁欲の思想はありませんでした。ですから中学では自慰は有害だとおしえられると、高等学校の生徒は自慰するかわりに女郎買いをしました」(註3)としている。そして松田は戦後の男女平等を理念としては理解するが、性の問題はそうはいかないということを次のように語っている。
ただいえることは、男女は性的に平等ではないことを、女の子にはっきりとおしえておくことです。その性的不平等のために、戦前は女郎屋があったこともかくすべきではありません。そして男の子の善意、悪意をこえて、いまの女の子は女郎の代理をさせられる危険のあることも知らねばなりません。(松田道雄「性教育批判」)
こうした言説を、現在公の場で聴くことができるとしたら、それは失言で話題を振りまく一部の政治家の発言ぐらいで、一般的には語り手の不見識が問われるところだが、当時はこういう言説はむしろ良心的な知識人の言葉であったことは興味深いことである。現在の若い男女の性の在り方から見ると隔世の感があるが、興味深いのは、未婚の女性の性行為が「女郎」と比較されていることである。なぜなら戦前においては若い女性は、来るべき結婚向けに性から隔離されていたか、逆に商品として性を売るという二つの方向に大別されていたからである。つまりそうした時代に育った人々は未婚の女性の性行為について云々する際に、そうした戦前のイメージをどうしても引きずって思考してしまうということである。そのことは、この時代のこの国における「性解放」なるものを考える際に、またこの時代のさまざまな言説を考える際に踏まえておくべき点ではないだろうか。未婚の女性が性に近づくことは女郎と変らないものになる、という言い方で、未婚の女性を性から遠ざけるような言説が、この時代のひとつの良識として流通していたこと、だとすれば、新しい時代の性の在り方を模索する若い世代の側も、本人の意図とは別にどうしてもこうした「良識」に対する反逆という形をとらざるを得なくなるということである。特に「男尊女卑」から「男女平等」へ大転換を遂げた戦後、その戦後に生まれた世代にとっては、「男尊女卑」の時代の価値観には違和感がある一方で、新しい価値観を生きた先達が見当らないため、手探りで進まなければならなかったはずである。いわゆる古い「良識」に新しい時代を生きる自らの価値観が納得されない以上、良識とは異なるものを探し求めて彷徨する若い人々が、澁澤の異端的な性の在り方に一つの活路を見出そうとしたのは理解できることである。
同時代の文化の影響
さて、女子美を卒業してすぐ55年からマネキン会社に勤務していた土井典は、1968年に『血と薔薇』に貞操帯、ペニスケースといったエロティックな小道具で参加する一方、土方巽の舞踏公演のためにも模造男根を作成するなど当時の第一線の表現者たちとの親交を深めていくことになる。また同じ68年には、澁澤の特別注文で等身大のマネキン風の少女像人形を作っている。この特別注文は土井にとってはどのようなものだったのだろうか。1987年の「みずゑ」で彼女は次のように語っている。
「澁澤龍彦の世界」と題した「別冊新評」のグラビアの一ページに、四四年土井氏の人形を愛するようになる、のコメント入りで人形と向き合った澁澤氏の写真が掲載された雑誌が送付されてきた時、わたしは複雑な心境となった。
そのマネキン風少女像人形は乳白色に近い特質肌色であの自体としては洒落て居り、とても似合いっては居た。ドイツ表現派画家オスカー・ココシュカが人形を依頼した時の特別注文と同じく澁澤氏の発注も、エロティシズムと言うよりも美的な問題として二点の要請を受けた。私は要望も実現し、特に身長のバランスもコレクターを主に考慮、特別サイズで完成品としたが、その理由は説明せずに、氏の眼前では、胴体は、腕、鬘は、と既製の制約のある不満をのべ、強い視線を意識して書斎に組み立てて同居人とした。(土井典「特別注文の記憶」「みずゑ」1987年冬号)
このとき「顔を直したり、それから澁澤さんから陰毛をつけてくれという注文があったのでつけた」と彼女は2000年のドール・フォーラム・ジャパン(DFJ)のインタビューに答えて語っている。またこの「特別サイズ」というのは澁澤の身長に合わせたというものであり、これは2000年のDFJのインタビューの折に筆者自身も土井から直接聞いた話である。
またこの次の年には、ハンス・ベルメールの人形の贋作「偽物の濫用」の注文を澁澤から受け、これは澁澤の午睡タイムに搬入されたという。
土井典『偽物の濫用』
土井典の人形を評してしばしば「愛玩拒否の人形」というキャッチフレーズが使われるが、こうして二体のいわば愛玩用の人形を作った最初の経験が「愛玩拒否の人形」を作るひとつの原動力となったように思われる。とはいえ、こうした反抗的傾向は早くからの土井の特徴であった。愛玩用の人形を澁澤から依頼されたときもその注文に従順に応えるだけではない「問い返し」があったようである。最初の人形では小柄な澁澤に合わせて特別サイズで作ったことを特に澁澤自身には説明せず、しかしその後の1987年の「みずゑ」のインタビューでも2000年のDFJのインタビューでもその事実を指摘している。またベルメールの人形の贋作を納入するに際しても、注文にはない澁澤自身の首を作って持参していたという。「これには本当は首がありました。澁澤さん自身の顔を作って持っていきました」と土井は2000年のDFJのインタビューで証言している。これは「この人形は澁澤さん自身ではないですか」という一種の謎掛けでもあったのだろうか。しかしこうした問い返しや謎掛けは澁澤自身のお気には召さなかったのか、この首がその後どうなったかは土井も知らないし、史実にも残ってはいないようである。しかしこの「問い返し」は興味深い。なぜならそれはこの時代の女性による表現の一つの傾向をよく示しているからである。
愛玩拒否という矛盾
このように、愛玩拒否とはいえ、もし「愛玩」それ自体に興味がないのであれば、そもそも「人形」ではなく彫刻やオブジェを目指せばよかったのを、あえて「人形」を選ぶというところに土井の個性がある。「拒否」とは「愛玩」を強く意識することでもあるからだ。「マネキンは嘘の身体。あの方がいいと思うことへの反発」をかかえ、当時は「時代に歯向かって生きていくような顔つきをしていた」と自ら語る土井ではあるが、「でも作っていると、やはりどうしてもある程度綺麗な人形になっていく。そういう意味ではいつも中途半端じゃないか、というジレンマがあった」と告白している。これは「愛玩」に対するアンビヴァレントな反応と考えることができそうだ。
ちなみに土井の愛玩拒否には主に二つの方向がある。ひとつはいわゆる美形でも八頭身でもない「太った人形」を作るという趣向。もうひとつは愛玩という行為そのものを外から見るという手法である。前者が彼女の特徴的な太った人形であり、後者が1974年の「エロティックな函」や「覗きの構造」のような展覧会として結実した。もっともこのいわゆるモデル体型でもなく、世に言ういわゆる美形でもない肥満体の人形は皮肉にもというべきか、幸運にもというべきか、寺山修司のような人物に見初められてもいたのである。土井によれば寺山は「普通の人形は怖いけれど土井さんの人形は怖くない。毎日家に帰ると、必ず人形に触っていると言っていました」という。屈折した感情によって作られたこの人形は、それ故にかえって、安心感ややすらぎにつながる愛らしさを逆説的にもつことになったのかもしれない。
『ドール・フォーラム・ジャパン』第27号 「カバーインタビュー 特集 土井典」」
ドール・フォーラム・ジャパン事務局、2000
こうした女性の「愛玩拒否」の傾向は、この頃から日本でもようやく台頭しはじめたウーマン・リブの考え方と似通っているように見える。土井自身はリブ運動とは直接関わりはなかったし、フェミニズムにも特にシンパシーを感じているわけではないようだが、思考や表現の在り方に明らかな同時代性が見受けられる。リブのカリスマとも巫女とも言われる田中美津に「わかってもらおうと思うは乞食の心」という有名な言葉があるが、これはまさに「わかってもらう」ことの拒否の形をとりながらそのウラには強烈に「わかってもらいたい」心があり、その相剋こそがこの言葉によって表現されていたが、こうしたアンビヴァレントな傾向は当時の女性の言説や表現にさまざまな形で見出されるからである。土井の場合も彼女自身が厳格な家で、女性はかくあるべきという古い通念の元に育ち、そうして植えつけられてしまった古い女性観と新しい女性観や生き方との間で引き裂かれ、また、学校教育で学ぶ男女平等という理念と学校教育を受けた後に入る「社会」と呼ばれる場所にはいまだ画然とあった性差別との間で引き裂かれていたはずである。こうしたさまざまな矛盾と葛藤のなかで「取り乱し」(田中美津)ながら、社会変革より前にまず自己の意識変革をしていく必要があった当時の若い女性たちの自分自身との格闘という面を検証することなしには、その言説や表現の一見して矛盾だらけだが何か強い情熱は伝わってくるような、わかりにくくもリアリティだけはひしひしと伝わってくるような独特の熱っぽさのその意味は見えてこないはずである。
愛玩拒否と成長拒否
ウーマン・リブといえば、この『血と薔薇』の撮影の折には「(小道具の)七点のうち四点を私が作って、立木義浩が写真を撮って、一点約一時間。モデルに舞踏家の芹川羊子や女優の李礼仙(87年に李麗仙に改名ー括弧内引用者)、それからウーマンリブの女の子もいた」と土井自身が語っている。日本のリブ運動の最初期の活動は記録に残っているものでは1969年から始まるが、土井自身の記憶違いでないとしたら1968年末の撮影の折にウーマン・リブを標榜する女の子がそこにいたのであれば、あるいはリブを彷彿とさせる発言をする女性がそこにいたのであれば、それは極めて先鋭的な出会いであったといえそうだ。
ただし『血と薔薇』という伝説の雑誌にはそうしたリブ的な空気感は微塵も感じられない。むしろそうした時代の変化を拒否していたように見える。土井が「愛玩拒否」であるならば、確かに澁澤は「成長拒否」であったのかもしれない。種村季弘は、『血と薔薇』の世界が、戦前の子供部屋の回復を目論んだものでもあった、と指摘している。
つまり、たまたま編集関係者だった人たちに戦前東京の中産階級の子弟が多かった。しかもその子供部屋、コドモノクニは、一度戦争で破壊されて焦土と化してしまった。それがひとつのポイントです。
出身が下町、山手の別はあっても、戦後はひとしなみに焼跡です。その何もなくなった廃墟から失った子供部屋を再現したい。そういう暗黙裡の共通感覚があって、「血と薔薇」の映像なり言葉なりによるオブジェ・コレクションが出来た。その後も平岡(正明)君たちの「血と薔薇」四号とか、マガジンハウスの少女向け雑紙をはじめ、いろいろな雑誌が出ましたが、戦後生まれの人が編集した雑誌にこちらが異和感を覚えるのは、どこまで行ってもここにある現実に地続きであること。
そのへんが違うんです。失われた戦前の子供部屋があって、いまがある。そしてその間に虚虚の無がある。なくなってしまったものがある。「血と薔薇」に魅力を添えているものがあるとすれば、この虚無の輝きでしょう。
(種村季弘「コドモノクニ あるいは『血と薔薇』の頃」)
澁澤流のエロティシズムはいわば虚無のエロティシズムであり、同時代の性の在り方とは一線を画していた。あるいはそのような意図によって澁澤のエロティシズムは設計されていた。そこは倒錯者や独身者や同性愛者はいるが、欠けているのは異性愛のカップルであった。つまりそこに徹底して欠けているのは「再生産」の視点であり、その意味でもこの世界は虚無の世界であるしかなかった。
またそれが種村が指摘するように、戦前の空間を閉じた形で取戻すことが目論まれていたのだとしたら、戦後民主主義を経た人間の目からみれば極めて性差別的に見えるその論調も、異端的であるというよりは、戦前の保守的な考え方と地続きであったとも言えよう。澁澤の独特のエロティシズムとその女性蔑視の傾向は、民主主義や男女平等が建前だけでも自明のものとなりつつあった時代、またそういう教育を受けた若い世代の読者たちにとっては、むしろ背徳的異端的であるが故に反体制的な価値があるかのように見えたのかもしれないが、女性蔑視の思潮は戦前においては普通の考え方であり道徳であったこと、こうした性差別的な考え方は、戦後の思潮に馴染めない人間にとっては特に違和感のない感覚や考え方であったことも指摘しておくべきだろう。また戦後育ちの若い世代の読者たちも、その親の価値観、すなわち彼らが育った家の環境が、戦前の価値観を残していた以上、澁澤の提示した価値観が彼らがその親から受け継ぎ、殻のように背負っていた言語化されにくい古風な性意識にむしろフィットしていた可能性は見逃せないだろう。
君子は豹変す
澁澤のこうした性差別的傾向を批判的に語る論考は現在もあまり見当らないが、澁澤自身は生前にそのことを明確に指摘していたことは興味深いことである。彼は『血と薔薇』が出版される前年1967年に週刊誌「潮流ジャーナル」に連載したエッセイを同年12月に『エロティシズム』というタイトルで桃源社から出版しているが、その後1984年の文庫本化の際に、1967年当時の自分自身の考え方が相当に女性差別的であったことを認めて次のように語っている。
当時の私はフロイトのエディプス理論やサルトルの実存主義や、さてはバタイユの哲学などに影響されていたので、それが本書の文面にも少なからず反映しているようであるが、現在の私は必ずしもそれらを信奉してはいない。いま読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在の私の意見とは認めがたい。無責任なようだが、君子は豹変する。なにぶん一七年前の著作なので、これらの点は大目に見ていただきたいと思う。
(澁澤龍彦「クラナッハの裸体(あとがきにかえて)」
こうした豹変ぶりというかこだわりのなさも、澁澤自身の性倒錯的なものへの嗜好が決してそれほど深刻なものではなかったことの証でもあろうし、その意味で澁澤と近いところにいた種村季弘の「子供の多形倒錯(フロイト)の世界を夢見ていた」という指摘は正しいように見える。とはいえ、それが多分にその幼児性と繋がっているとしても、誤りはさらりと認めておく澁澤の軽快な知性には一定の評価がなされるべきであろう。
また澁澤自身も認めるように性差別的なところがあったとはいえ、彼の作品が女性たちをも惹き付ける点があったこと、実際に澁澤との交流や澁澤の著書に触れることをひとつの刺激として自らの表現を進める一助とした女性たちがいたことも注目しておくべきことだろう。たとえば、土井典もそうであったように、『血と薔薇』にも数は圧倒的に少ないながらも女性の表現者が含まれていた。土井が小道具の貞操帯を担当した「鍵のかかる女」というグラビアには、芦川羊子や李礼仙がモデルとして登場している。この雑誌の趣旨としては、女性のオブジェ化であろうが、当事者の女性にとってはむしろ能動的な自己表現の場としてあったといえようか。
(つづく)