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テクスト効果 (21)
  芸術編(9)



榊山裕子

人形と女性(4)

戦前から戦中、戦後へ

 1930年代に独特の発展を遂げようとしていた日本の創作人形は、先回述べたように、戦争の忍び寄る影とともにその発展をいったん凍結することとなった。特に材料の統制と表現の統制は壊滅的な影響を与えた。1940年の中原淳一作品の雑誌への掲載不可をはじめとして女性向け雑誌(下記挿図1〜4参照)も戦時色を深めていった。堀柳女の人形塾でも生徒たちは「それぞれ、疎開をしたり、焼け出されたりして、散り散りばらばら」(註1)になり、『図説 日本の人形史』(註2)によれば「人形本体に使う、桐塑造を練るための生麩糊も食品に回されるため入手困難で、時に手に入れても食べてしまった、とは当時を知る人形師の回顧談」であったという。

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挿図1
1938(昭和13)年『少女の友』8月号付録 中原淳一による『皇軍慰問お人形帖』

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挿図2
『少女の友』1944(昭和19)年2月号
裏表紙には「飛行機さえあれば タラワ・マキンの仇が討てる」
「女学生よ あなた方の手で造った飛行機で鬼畜米英の本土を爆撃しよう!!」
のコピー文句が踊る

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挿図3
『主婦之友』1944(昭和19)年12月号
「滅敵生活」「アメリカ人をぶち殺せ!」の見出し


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挿図4
『主婦之友』1945(昭和20)年7月
終戦直前、カラーではなくモノクロ
見出しには「勝利の特攻生活」

 上図挿図1は、1938(昭和13)年に中原淳一が少女たちのために描いた『少女の友』の付録の『慰問人形帖』である。兵隊さんに贈る慰問のための人形作りだが、挿図2の1944年の『少女の友』の表紙と比べるとその雰囲気は著しく異なる。前者では少女たちは戦争肯定へと巧みに誘導されながらも、いまだ人形作りを許され、奨励されているが、後者で彼女たちが作っているのは兵器としての飛行機である。また挿図3、4の『主婦之友』の表紙を見ると、主婦たちも針や糸ならぬ兵器を手にとり、「滅敵生活」や「特攻生活」に勤しむことが奨励されている。

手芸人形と主婦

 戦前の創作人形界においては、帝展に「人形」が進出することが一つの大きな目標であった。工芸部門が帝展に置かれたのは1927(昭和2)年、それに遅れること9年、1936(昭和11)年帝展改組第一回に待望の人形部門が置かれた。戦後は帝展は日展と改称して、1946年に再出発する(註3)。また日本伝統工芸展が1954(昭和29)年にはじまり、人形もその一部門として、創作と伝統の間で「工芸」として生き延びていくこととなる。芸術から一度排除された人形は、工芸の一端を担うという形であらためて「芸術」のなかにその居場所を得たことになる。

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第1回日本伝統工芸展ポスター

 しかし先回既に見たように、こうした伝統や工芸とは別の創作人形の流れが戦前から既にあり、それは戦後に綿々と続いていた。この流れは女性向け教育により発展した「手芸」との親和性が強かった。
 たとえば人形作家 野口晴朗は「近代人形のおいたち」(1959)のなかで、「手芸人形の勃興」に言及しているが、それは伝統的な人形とは異なる手法で女性やアマチュアの間から出てきた人形であったとしている。
 「大正末ころから昭和のはじめにかけて、フランス人形の輸入や、趣味人形の興隆が原因して、素人の人々の間に、次第に自分達で人形をつくろうとする機運が高まっていった」のであり、「近代人形のもう一つの発足」がそこにあったという。すなわち「抒情的な画風をもって、少女達の熱狂をかちえた竹久夢二」が晩年に製作した「縫いぐるみの人形や、アップリケ式の人形」、これらが「門下の画家や婦人たちに引継がれ」ていったというのである。これが「手芸人形」の流れであり、この流れから出て来た作家には堀柳女のような人もいたとされる。

   「堀柳女氏がその一人です。伝統工芸技術の人間国宝として指定を受けられた堀柳女氏を、アマチュアの出身というように見ることはおかしいのですが、さしあたり分類上は、どうしても、そうでないとかえって不正直なことになります。」(野口晴朗「近代人形のおいたち」)

 堀柳女はたしかに竹久夢二の門下から出て「人間国宝」にまでなった希有な人形作家である。彼女自身の記述によれば、その最初の人形はチューインガムで作った人形であったという。それがしんこ細工の人形作りに繋がり、三越の人の目に留まり、仕入部に買い入れてもらったのが、プロの人形作家になるきっかけであった。彼女が登場した1930年代には日本は大衆消費社会を既に迎えており、百貨店やギャラリーで人形展が催され、多くの女性たちが消費者として、そして一部の女性たちが製作者として、そこに参加した。人形展は松屋、三越、資生堂ギャラリーなどで開催され、百貨店は女性たちに人気のでる人形作家を待望しており、堀柳女も、そうした機運にのって登場してきたのである。

 しかし女性たちが人形を作り始めたのは決してこの頃に始まったことではなかった。「良妻賢母教育」において裁縫の延長として「手芸」が称揚されたこともあり、女性というジェンダーと「人形」製作との親和性は明治期から見られた。つまり「自分達で人形をつくろうとする機運」は、その前から既にあったわけである。たとえば下図のように明治35年の『新選 女子の手芸』にはじまり、大正12年の『母の手芸』などには、主に子どもに与えるための人形の作り方が記載されており、女性たちは家で人形を作り続けていたのである。

新選女子の手芸.pdf女子の手芸より這這人形.pdf
『新選 女子の手芸』鏑木かね子著 明治35年刊

母の手芸表紙.pdf母の手芸より滑稽人形6種.pdf
『母の手芸』津田敏子著 大正12年刊

 ただそれらは職人としての人形製作とは異なり、アマチュアの余技とみなされていた。家庭に入ることが称揚されていた都市中産階級の女性たちを中心として、その予備軍である女学生などとともに「手芸」としての人形製作は一つの表現手段として親しまれていたが、それが男性の目にもとまるような公的空間に進出してきたのが1930年代だったということなのである。すなわち1930年代に高まったのは、人形作りそれ自体ではなく、それを「表現」として私的空間から公的な空間へと押し出していくという機運だったのである。それは彼女たち自身の願望であると共に、そうした女性たちの、表現への渇望を捉えた百貨店やマスメディアの戦略であったともいえよう。


「手芸」と「前衛」〜オブジェ人形と合田佐和子〜

 「手芸」と女性の関係、手芸を介して溢れでてくる女性たちの表現欲、それは終戦を経て、戦後も途絶えたわけではなかった。先述の「近代人形のおいたち」のなかで、この「手芸人形」の流れについて、野口晴朗は次のように書いていた。

   「さて、この項の最後として、手芸人形の作者達が、今日では一つのジャンルを開拓し、それが婦人手芸の重要な部門を受持っていることを付記しておきます。もちろん、それらが、近代生活の中に深く食い込んでいるのには、それ相応の必然性があるわけです。手芸人形が甘い・・・とか、安易・・・だとかいわれても、なおかつ多くの婦人の関心の中にあるということは、単に制作過程が簡略で入りいいということだけではありますまい。」(野口晴朗「近代人形のおいたち」)

 これが書かれたのは1959年のことであり、この時点では「手芸」と「人形」の関係は、「婦人」の余技の延長上にあるものと考えられていたようである。しかしその6年後、1965年には、こうした「婦人」の「手慰み」としての「手芸人形」という基準では図りかねる人形が登場していた。その奇妙な「人形」の一部は、同年、グラフ社の「手芸文庫」の一冊に収録されている(註4)。タイトルは『オブジェ人形』、後に現代美術作家として著名になる合田佐和子の最初の作品集である。

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『オブジェ人形』(1965)  合田佐和子


 合田は人形作家ではない。彼女は武蔵野美術大学の前身である武蔵野美術学校商業デザイン科を1963年に卒業している。そして「オブジェ」という名称に見られるように、これは、既成の創作人形の延長に作られたものではなく、むしろ現代美術に属するものといえよう。とはいえこれは「手芸文庫」の一冊として刊行され、「手芸文庫」というシリーズの性質上、全ての作品の作り方も記された。すなわちこの本を頼りにこうした奇妙な人形を「手芸」として作った読者もいたということである。これらの人形の材料は、顔の部分にはウキやピンポン玉、胴体部分は廃品のビンを使うというもので、一般の人にとっても手に入りやすい材料ではあった。
 これらの人形は、既成の人形よりは、ダダやシュルレアリスムのオブジェを思わせる。また廃品を使ったアートという意味では、1950年代に世界的に脚光を浴びた同時代の現代美術、ジャンク・アートとの繋がりが想起されないでもない。また、この人形集に言葉を寄せているのは、詩人・美術評論家の瀧口修造であり、詩人の白石かずこである。すなわち、これはそれまでの創作人形の文化圏とは別のところからでてきた人形であった。
 合田はこの年に初個展も開催している。さまざまながらくたを組み合わせた作品はいわゆる「人形」として作られたわけではなかったが、この個展は評判を呼び、上記の初の作品集『オブジェ人形』の出版に繋がったのであった。


戦後の創作人形の前衛

 こうしたオブジェ人形のような表現は一朝一夕に出て来たわけではなかった。ここではこうした作品が出て来る背景として、戦後、美術界と人形界に登場した二つの公募展を挙げておくことにしたい。一つは1949年にはじまり1964年に中止された読売新聞社主催による「読売アンデパンダン展」、もう一つは同じく1949年にはじまり1968年に終わった朝日新聞社主催による「現代人形美術展」である。
 光田由里は合田の作品が出てきた時代背景について、読売アンデパンダン展を引き合いに出して、次のように的確に述べている。

   「美術界では、既成の「芸術」を否定しようとするダダ的なムーブメント、「反芸術」動向の収束期にあたる。50年代末から読売アンデパンダン展を主要な舞台に、ありとあらゆる廃物をぶちまけたジャンク・アートやスキャンダラスなパフォーマンスが喧噪を繰り広げ、ついにアンデパンダン展が中止されたのが1964年である。合田の可憐なジャンク・オブジェが、抵抗なく受け入れられる土壌は十分にあった。けれど、当時の代表的なグループ、ネオダダの作家たちの作品に見られるような、破壊的、暴力的要素、マニフェストを打ち上げる姿勢とは、合田の作品はかなり異質である。」(光田由里「合田佐和子 影像」)

 読売アンデパンダン展は、合田が作品を発表する前年に中止されていたが、表現の可能性を広げたこの展覧会の後では、まさに光田がいうように「合田の可憐なジャンク・オブジェが、抵抗なく受け入れられる土壌は十分にあった」と言えよう。また現代美術だけではなく「手芸文庫」という異質な場所にもこうしたオブジェが存在することを許す程度には、一般的にも表現の可能性が広がっていたのであろう。

 一方、創作人形界でも、日展や伝統工芸展以外に、特筆すべきて公募展がはじまっていた。それが1949(昭和24)年から上野・松坂屋で開催された朝日新聞社主催による「現代人形美術展」である。展示された人形の「主流は伝統工芸、日展系などで、博多人形なんかもあった」(註5)というが、新たな傾向も台頭してきており、辻村ジュサブロー(後の辻村寿三郎)、浜いさをらの他、1962年には当時まだ18歳だった四谷シモンも入選を果たしていた。そしてこの公募展が終るのをきかっけに辻村寿三郎の呼びかけで結成されたのが「グループ・グラップ」である。その経緯について、小川千惠子(現・羽関チエコ)は次のように書いている。

  「四九年から六八年までの間、朝日新聞社が二十回にわたり主催した現代人形美術展は、素材や会派を問わず、若い作り手にとって挑戦の場となった。辻村寿三郎は同展で入選を繰り返し、後に審査員となった。この公募展がきっかけとなり、辻村の呼びかけで布を素材とする人形作家による「グループ・グラップ」が結成された。当時、人形で最先端の表現を目指す若い人形作家たちは、素材に布を選んでいたのである。「グループ・グラップ」展を七回開催する間には、浜いさをや佐藤三郎、与勇輝、川本喜八郎 など、現在も活躍中のベテラン人形作家達が出品している。」(小川千恵子「他者としての人形性と日本人」)

 ここで興味深いのは「当時、人形で最先端の表現を目指す若い人形作家たちは、素材に布を選んでいた」という指摘である。この布という素材を用いて作られた人形は、一方ではおもちゃか手芸的なものとみなされていたはずだからである。この辺りの事情について、グループ・グラップの主要メンバーである佐藤三郎は次のように証言している。

   「戦後みなさんの心の中に余裕ができて人形に興味が出てきて、布も揃うようになって、人形の戦後第一期隆盛期といった様子でした。当時の布帛人形(ぬいぐるみの作り方による人形)というのは水上雄次さんや中原淳一さんは別として、一般的にはおもちゃと同列のものという評価だったんです。創作人形というと、(平田)郷陽さんや堀柳女さん等に代表される、磨きに磨きをかけるという世界だったから、布で「お手芸」から脱出したものをやりたいというのが、わたしたちの間で誰彼変らず思っていた気持ちなんです。」(佐藤三郎「グループ・グラップの軌跡」)

 このように、布の人形は「簡単に」出来るということでアマチュアや女性たちにも人気があったが、逆にそれ故におもちゃか「お手芸」(佐藤三郎)と見なされがちであり、この「お手芸」から脱出したいというのが、布で人形を作っていた人たちの念願であった。そして、この布による人形が創作人形の前衛であり得た理由は、まさにそれがそれまでの伝統的な人形の在り方から外れていたために、大胆で自由な創作が可能だったからであった。浜いさをは次のように語っている。

   「布の人たちは、一番新しいことをやっていたんだよ。当時は、基本的に木彫りとか胡粉仕上げでしょ。 我々はぬいぐるみとか布帛人形なんていいながら、感覚的に一番新しいことをやっていて、技術的にも相当大胆なことをやっていた。だから朝日の現代人形美術展でも、布の人形は異端なんだけれども・・・
    ーーーそうなんですか?
   そう、少数派で異端だったんですよ。伝統工芸の人などからはぬいぐるみなんて、玩具の延長みたいな言い方をされるしね(註・当時は肌に布を使うのをぬいぐるみといっていた)。偏見がありましたからね。でも、肌を布でやる人たちは、新しかったんだよね。伝統工芸みたいなしばりがないから、好きなことができたんだ。」(浜いさを「グループ・グラップの軌跡」)

 この「好きなようにできた」というところにこうした人形の可能性があったと彼らは考えた。実際、現代美術の世界もそれまでの絵画、彫刻という既成のヒエラルキーから離れかけていた時期でもあり、またシュルレアリスム的な絵画や幻想的な絵画のブームなどもあり、彼らの創作人形も美術画廊で展示されるようになっていった。

   「表舞台というかね、『ギャラリー銀座三番街』で僕の個展を企画でやると言われた頃、人形がそんなところでできるのかな、とか思っていたんだけれど、それと前後して、辻村さんが八重洲画廊でやったり、友永が彩鳳堂画廊でやったり・・・。ほぼ同じ頃、銀座界隈の画廊での企画展という形に発展していったんだね。世間的にあのころは幻想ブームがあって、シュールな世界に人形がフィットしたんだね。」(浜いさを「グループグラップの軌跡」)

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『ドールフォーラムジャパン』第21号
浜いさを特集表紙

 浜いさを同様、水上雄次(註6)に学んだ四谷シモンも、球体関節人形を始める前はこうした布の人形を製作していたが、既にこの頃には布での製作疑問を抱いていたため、グループ・グラップに参加することはなかった。

   「彼(四谷シモン)は布の人形をずっとやっていて、澁澤(龍彦)さんを知り始めた頃から、布の人形をやめたんだね。グラップにも誘ったんだけど、僕たちは布の人形ということで集まったからね。シモンは布から離れたいと言って、入らなかったんだ。」(浜いさを「グループ・グラップの軌跡」)

 奇しくも、この四谷シモンが、ハンス・ベルメールの人形写真に出会い、それまで作っていた布の人形の材料を捨てたのは、合田がオブジェ人形を発表したのと同じ1965年のことであった。

愛玩拒否の人形と土井典

 合田佐和子はこの展覧会の数年後、人形を離れ、立体のオブジェから平面作品へと移っていった。この1960年代後半から1970年代にかけては、人形が美術とかなり接近した時期であった。あるいはこの時期は、さまざまな表現が互いに接近しながら影響し合っていた時代であったと言えるかもしれない。そうした磁場の最中にいた代表的な人物として、合田の作品集に詩を寄せた瀧口修造や、四谷シモンのカタログにエッセイを寄せた澁澤龍彦らを挙げることができよう。彼らを介してさまざまなジャンルの芸術家たちが繋がり、また相互に影響を与えあっていた。
 そしてもう一つ、当時の芸術表現の背後にあったのは、先進国で同時的に起こった1968年の学生運動、新左翼運動、またそれに続くウーマン・リブ運動やフェミニズムが文化や芸術表現にもたらすことになる影響であった。
 とくに、この時期の女性の表現者の台頭、そして彼女たちの「性」を巡る表現を考察するに際しては、当時の新しい思潮としてのウーマン・リブ運動やフェミニズムの影響を考えないわけにはいかない。その意味でこの時期の創作人形を語るのに欠かせない女性作家として、「愛玩拒否の人形」を製作した土井典の名を挙げないわけにはいかないだろう。土井は女子美術大学図工科を1955年に卒業し、マネキン会社に勤務する傍ら、独特な人形やオブジェを作っていた。彼女がその名を広く知られるようになったのは、澁澤龍彦責任編集の『血と薔薇』の企画に小道具で参加したことがきっかけである。そこで彼女は1968年から69年にかけて、澁澤の注文に応じて、貞操帯のオブジェなどを作っていた。また68年に澁澤の注文で等身大の少女像人形を、69年にも同じ澁澤の注文で、ハンス・ベルメールの球体関節人形の贋作を作っていた。マネキン会社に勤務していた彼女の技術は高く、その球体関節人形は大変すぐれた出来映えで、澁澤の書斎を飾ることとなった。

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土井典作品集『薔薇色の乳房』表紙

 こうした華々しい経歴にもかかわらず、2014年現在、彼女の名が意外なほど知られていないのは大変残念なことであるが、それはウーマン・リブ運動をはじめとする女性の運動や表現活動への無理解もしくは誤解が尾を引いていることと無縁ではあるまい。彼女自身がそうした運動と直接連動して作品を製作していたわけではないが、彼女の表現の新しさはそうした当時の最先端の思潮の影響を考慮しないと、ただ当時この国で新しい思潮として消費されていた「エロティシズム」の範囲内で語られてしまい、その真の新しさが覆い隠されてしまうからである。つまり当時の性革命には、男性の欲望の在り方、すなわちその男根中心主義が批判されるという側面が欧米においてはあり、そこにこそ人類の長い歴史のなかでも極めて画期的な視点の転換があったにもかかわらず、日本で侵犯的あるいは異端として語られたエロティシズムにおいては、その肝心な男性性への批判的側面、そのスリリングな側面がほとんど抜けおちてしまっていたからである。(つづく)





註1 堀柳女『人形に心あり』文藝春秋新社、1956年
註2 山田徳兵衛・編 小林すみ江・解説『図説 日本の人形史』東京堂出版、1991年



























































































註3)1907(昭和40)年に、日本最初の官展としてはじまった文展(「文部省美術展覧会」の略)は、1919(大正8)年に帝展(「帝國美術院展覧会」の略)となり、1936(昭和11)年に改組され、あらためて改組第1回帝展が開催されるが、翌年帝国美術院の廃止により、新文展となる。戦後は日展(「日本美術展覧会」)となり、1958(昭和33)年以降は社団法人となり現在に至っている。







































































註4)ちなみにこの文庫のシリーズは次のように構成されていた。「1 ファンシーなぬいぐるみ」「2 たのしい木彫」「3 手づくり人形」「4 立体的な刺繍」「5 暮らしの造花」」「6 暮らしのアクセサリー」「7 オブジェ人形」「8 たのしい手芸」「9 毛糸の手芸」










































註5)佐藤三郎「グループ・グラップの軌跡」『ドール・フォーラム・ジャパン 第22号』ドール・フォーラム・ジャパン事務局、1999年



































註6)水上雄次は浜いさをや四谷シモンの師にあたる人形作家であるが、彼は先述の『今日の人形ー鑑賞と技法』のなかで「縫ぐるみについて」という一章を担当し、その作り方を解説しながら、次のように記している。

   人形の創り方には、さまざまな方法がありますが、そのうち一番手がるにできるのは、縫いぐるみではないでしょうか。わずかばかりの布と、あとは日常使っている糸や針、それになかにつめるパッキングに少量の綿など、大した材料費もかからず、しかも美しい人形が簡単に出来上がります(水上雄次「縫ぐるみについて」)


 なお、四谷シモンは、1961(昭和36)年、水上雄次の内弟子になるが、「自分の作りたいものから遠く、すぐに止める」と彼のプロフィールには記載されている。