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テクスト効果 (20)
  芸術編(8)



榊山裕子

人形と女性(3)

手芸と女性

 日本の創作人形は「美術」と「工芸」の間で自らの身分を探しあぐねてきたかのように、これまで考えられ、語られてきたが、ジェンダーの視点を導入してみると、そこに更に「手芸」というカテゴリーが入ってくることが先回までの連載で見えてきたことであった。すなわち創作人形は「美術」と「工芸」と「手芸」という3つのカテゴリーの間で作られ、語られ、見られてきたのである。

 この国で手芸が女性と結びつけられるようになったきっかけを辿ると、明治5年の学制の制度化に遡る。小山静子によれば江戸後期の子どもたちは「子どもが生れながらにしてもっていた属性、すなわち、性別・身分・階層・続柄などによって、多様な教育を受けていた」。すなわち子どもたちは各々の共同体に属し、そのなかで教育されていた。しかし学制によって子どもたちは「国家の子ども」として再編成されていくことになる。つまり身分や階層別に分断されていた子どもたちが並列に並べられていくことになる。ただそこでもジェンダー差は残り続け、そのジェンダー差をあらわす典型的な科目が「手芸」であった。たとえば『子どもたちの近代』(2002)のなかで小山は次のように書いている。

  学制には、「男女トモ必ズ卒業スベキモノトス」(第27章)とされた尋常小学以外に、いくつかの変則小学の規定が存在していたが、その中の一つに「女児小学」というものがあった。女児小学とは「尋常小学教科ノ他二女子ノ手芸ヲ教フ」(第26章)学校である。(小山静子『子どもたちの近代』)

 このように明治以降の教育において「手芸」は最初から女性という性と不可分な科目として設定されていた。参考までに文科省のホームページを見るならば、当時、尋常小学校以外に次のような「小学」が設定されていたことがわかる。

  小学校は「教育ノ初級」で、「人民一般必ス学ハスンハアルへカラサルモノトス」と定め、これを尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学に区分した。・・・略・・・
  女児小学は尋常小学の教科のほかに女子の手芸を教え、村落小学は僻(へき)遠の農村において教則を少し省略して教えるものとし、多くは夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄進によるため、仁恵学校とも称し、小学私塾は小学の教科の免状を持つものが私宅で教えるものであり、幼稚小学とは六歳までの男女に小学入学前の予備教育を施すものとした。尋常小学の教科の順序を踏まずに小学の学科を授けるものを変則小学といい、私宅でこれを授けるものを家塾といった。

 このようにまだ学制が出来たばかりの明治5年当時においては、さまざまな境遇や地域や身分を考慮して小学校にさまざまな区分が作られていたのであるが、この時期に既に男女を分ける「女児小学」という発想があり、そこに「手芸」という女性向けの科目が登場していたことは興味深いことである。

 『近代日本の「手芸」とジェンダー』(2005)を書いた山崎明子によれば、明治初期の手芸は「広く女性の手仕事」を指す広義の概念であり、そこには「養蚕・製糸・紡績・裁縫・刺繍・造花・押絵」などが含まれていた。この広義の概念は明治期の間、広範に用いられていたが、次第に現在に通じる狭義の概念に変容していった。1895(明治28)年の高等女学校令制定の際には、「裁縫」が正科目に、「手芸」が随意科目となっている。そして「さらに1901(明治34)年高等女学校令施行規則では、手芸の範囲を編物・組紐・袋物・刺繍・造花」などとし、ここに狭義の「手芸」は制度化され、かくして女性の手仕事としてカテゴリー化された「手芸」は、「芸術のカテゴリーにおいて『美術』とも『工芸』とも位置づけられず、二重の意味で周縁化」(山崎)されていくこととなった。
 こうして教科として制度化された「手芸」はまた、女性向け雑紙や単行本を通して普及していくこととなり、そこでは「ふらんす人形」「あめりか人形」などさまざまな人形の作り方が特集された。多くの女性たちが、プロの人形作家とは別に、あるいは子どものために、あるいは趣味として、あるいは自己表現として、人形を作り、人形制作の裾野を広げていった。
 また裁縫、手芸という技術を身につけることは、当時の結婚、出産を前提とした女性の限られた生き方のなかで、主婦として必要な技術として推奨されただけではなく、夫や親を失うなど「万一」の場合に備えて、あるいは家計のやりくりが困難なときなどに、家計を支える、あるいは補助するためにその技術を習得、維持することが奨励されていた。手芸、裁縫の内職仕事はさまざまであったが、人形に関していえば、当時の資料からは、雛人形などの制作過程の一部や人形の衣裳製作などを家内で担う内職の仕事などがあったこと、多くの女性たちがそうした下請けの仕事に従事していたことが確認されている。
 この「手芸」というカテゴリーは、戦後、正規の学校教育からは消えたが、「人形」と「手芸」の関係が現在にも生き残り続けていることは、たとえば手芸用品で有名なユザワヤによるカルチャースクール「ユザワヤ芸術学院」において、「ファッション、手芸、工芸、海外、一般教養・子ども」という五つの分類のうち、「人形」「木目込み人形」「下野和紙人形」「紙粘土人形」「セラミカル(陶)人形」などが「手芸」のジャンルに置かれていること、またこれらのジャンルがまがりなりにも「芸術」の名の下に置かれていることにも現れていよう。ここで理解されるのは、人形作りが、女性たちの間で手芸もしくはその延長として一世紀以上にわたって親しまれ、楽しまれてきたということである。

見世物・博覧会・百貨店

 野口晴朗は、「近代人形のおいたち」(1954)という人形史をたどった文のなかで「手芸人形の勃興」という一節を書いている。そこでは「大正末ころから昭和の初めにかけて、フランス人形の輸入や、趣味人形の興隆が原因して、素人の人々の間に、次第に自分たちで人形をつくろうとする機運が高まって」いったことが指摘されている。すなわちこうした手芸的な人形が登場してくるのは1920年代後半から1930年代にかけてのことであった。そして女性のプロの人形作家が登場してくるのは、また職人出自の男性の人形作家とは別の水路から男女を問わずアマチュア作家が台頭してくるのは、堀柳女(1897-1984)らが登場する1930年代を待たなければならなかった。
 それ以前の、明治、大正期において、作家名が残されている人形はそれほど多くはないが、まず代表的なものとして松本喜三郎(1825-1891)、安本亀八(1826-1900)らのいわゆる「生人形」が挙げられよう。「生人形」は幕末から明治にかけて「大阪の難波新地や東京・浅草の奥山で見世物興行の華として人気を博した」(註1)不気味なまでに迫真的な人形である。これらはまず見世物小屋に並べられ、庶民に親しまれた。

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松本喜三郎作『谷汲観音像』1873(明治6年)

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初代 安本亀八『相撲生人形』 1890年

 やがて「生人形」は見世物から、博覧会、デパートの展示などのディスプレイとしての需要を得ていくようになる。1925(大正14)年、銀座松屋では開店記念のディスプレイに、三代目安本喜八に100体もの生人形の制作が依頼されているが、その頃には生人形は西洋のマネキンに近い役割を和装マネキンとして果たすようになった。こうした時代の変化や百貨店の要望もあって、同じ1925年には、京都で「島津マネキン」が発足し、洋風の洋装マネキンが日本独自の製造方法で作られていく。そして和装に対して洋装のマネキンの受容が高まりはじめたように、人形においても洋風の人形が好まれるようになるのもこの時期であった(註2)。

マスメディア・百貨店・想像の共同体

 更に、この時期には、西洋人形に親しむ国際交流の機会があったことを指摘しておかなければならないだろう。それが1927(昭和2)年のアメリカとの人形交流である。1924年にアメリカの議会で新移民法が可決したことに心を痛めた宣教師のシドニー・ギューリックの呼びかけで、アメリカ国内で集められた13000体近くの人形が、名前をつけられ手作りのパスポートを携えて「青い目の人形大使」としてはるばる海を越えて日本にやって来たのである。それに対して日本からは答礼人形として各都道府県の名前にミスを付けた(たとえばミス富山というように)58体の人形を贈ることになり、そのために平田郷陽ら当時随一の人形作家たちが製作を依頼された。それは人形業界の活性化に繋がるとともに、この国際交流に参加した女性たちの目を開かせることともなった。そうした影響も手伝ってか、その翌年『主婦の友』では「新案アメリカ人形の作り方」なる特集を組んで「手芸」感覚でできる人形の簡単な作り方が掲載されるなど西洋風の人形に親しむ機会が増えていった。

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答礼人形

 アマチュア、女性、職人出身などの人形作家たちが次々と団体を作っていったのもこの時期である。まず1927(昭和2)年、アマチュアから出発した新しいタイプの作家たち、武井武雄、村山知義、中原淳一、川崎プッペらによるイルフトイス、1928(昭和3)年、平田郷陽、岡本玉水ら職人から出発した人形作家たちによる白澤会、野口光彦らの五芸会、そして1930(昭和5)年には、竹久夢二と堀柳女、岡山さだみらアマチュア出身の女性たちによる「どんたく社」、また同1930年、日本画家・西澤笛畝、人形問屋吉徳の山田徳兵衛らを中心に「童宝美術院」が結成される。そして1933年には人形師とアマチュア作家による日本人形研究会が、更に1935年頃日本人形研究会に学ぶ女性たちがはじめた勉強会「人形すがた会」では「従来男性のみによる職人わざであった日本人形の製作法を、この会によりはじめて女性たちが学んだ」と『図説 日本の人形史』(1991)には記されている。こうした人形をとりまく環境が活気づくなかで、人形芸術運動の機運は高まり、1936(昭和11)年帝展改組第一回に人形を入選させることで、公的なお墨付きを得るという形で、人形を「芸術」に格上げするという一つの目的を達成することになる。

 ちなみに現在のエコール・ド・シモンやドール・スペース・ピグマリオンのような人形作家による私塾のような人形教室が始まったのもこの頃であったようだ。堀柳女によれば、1938(昭和13)年にお寺の離れを借りて「寺子屋式教場」を開いたところ、朝日新聞紙上に「初めての人形学校」という見出しで記事が掲載され、7~80人もの人がどっと押し寄せたという。そしてその2年後には高島屋で展覧会まで開催する。それは「素人の奥さん方」の展覧会であるにもかかわらずデパートの後援もあって華やかな展覧会であったという。興味深いことは女性たちの自己表現への渇望や意欲がこの時期かなりの高まりを見せており、それが創作人形という形で結実しつつあったということである。

 こうした女性と人形の関わりには、マスメディアや消費文化の発達が背景にある。職人のような具体的な繋がりをもたない家庭の女性や女学生たちが互いにその存在を確認し、啓発し合えたのは、少女向け、主婦向けの雑誌が、それまでにない誌上の「共同体」を作っていたからであった。竹久夢二や中原淳一との接点もまずそこにあった。堀柳女の人形教室が盛況を極めたのも、きっかけは新聞に記事が載ったことであり、そこに訪れる女性たちは雑誌や百貨店のディスプレイや展覧会で人形を見知っており、そうした女性たちが作り手に回ってデパートの展覧会に参加することで更に人形愛好家の裾野を増やしていったのである。


戦争による中断

 しかしこれらの新しい創造の萌芽は近づく戦争のためにしばらく閉ざされてしまうことになる。まず既成の人形関係者たちにとっては1940(昭和15)年、公定価格が実施され、材料の使用に厳しい制限が加えられたことが致命的となった。また女性向け雑誌にとっては、1940年に中原淳一の描く女性の顔が、西欧的であるという理由で書籍への掲載が禁止となったことは大きな出来事であった。この頃から少女雑誌や主婦向け雑誌は次第に戦時色を深めていくことになる。堀柳女の人形塾も、戦争が激しくなると中止せざるを得ず、生徒たちも「それぞれ、疎開をしたり、焼け出されたりして、散り散りばらばら」になってしまったという。
 戦前の「手芸」や「女性雑誌」から、女性による人形製作の意欲が高まっていった背景には、男女の教育の違いがその根底にあった。しかし「芸術」からも「工芸」からも疎外されていた「手芸」から、逆に疎外されていることによって、その制限の範囲内でひとときの自由を謳歌するような表現が生まれたことも、そこに自己表現の場を見出し多くの女性たちが集ったこともまた確かであり、それは近代日本における女性と芸術表現を考える上で無視できないものであったといえよう。
 戦後の創作人形において、女性の表現が新たな脚光を浴びるようになるのは、なんといっても1970年代以降盛んになる球体関節人形(註3)であろうが、その創作の在り方と1930年代前後の人形ブームにおける女性の表現との関係については次回以降、あらためて考えてみることにしたい。

































註1)沓沢耕介「生人形は彫刻か?」『日本彫刻の近代』淡交社、2007

註2)欧化的な傾向が広まってくると、逆に、日本的なもの、郷土的なものをあらためて見直す機運も高まる。「嵯峨(さが)人形の流れをくむ木彫盛り上げ彩色人形を復活させ」(『日本人名大辞典』)、 独自の佐四郎人形と呼ばれる人形を作り、古人形の修復などでも知られ、日本で最初の創作人形作家と呼ばれるようになった久保佐四郎(1872-1942)は、こうした時代背景のなかで作家としての評価を高めていった。

註3)今回のテーマである「女性」の問題と離れて、戦前の人形と球体関節人形の繋がりにおいて重要なのは、この時期にはじまる「中原淳一、小松康城、水上雄次、川崎プッペを経て、趣味工芸から前衛的な作品まで広がりを見せた布帛人形の系譜」(羽関チエコ)であろう。この布帛人形は、女性たちが手芸の延長で比較的容易に近づくことができる製作方法であり、後に球体関節人形を作ることなる四谷シモンも初期にはこのタイプの人形を作っていた。もっとも手近な材料で、もっとも容易に作ることができる、「手芸」の延長上にあるこのタイプの人形が、ユニークな個性をもった人形や前衛的な人形を作り出していったのは興味深いことである。