人形と身分(3)
人形と工芸
先回記したように、「人形」が「公」的に「芸術」としての「身分」を得たのは、現代の日展に相当する帝展こと帝國美術院改組第一回の美術工芸部門に、平田郷陽、堀柳女、鹿児島寿蔵ら六人の人形作家が入賞した1936年(昭和11年)のことであった。また、この「美術工芸部門」が帝展に加わったのは、1927年(昭和2年)とその9年前のことであり、それは帝展の前身である文展の第一回が1907年(明治40年)に日本画、西洋画、彫刻の三部で始まってから20年経ってからのことであった。すなわち人形が国家公認の展覧会において、「美術」の末席に名を連ねるようになるまでに既に30年近くが経っていたことになる。
この事実だけを見ると、「工芸」もしくは「美術工芸」やその下位区分としての「人形」は、はじめは「芸術」から除外されていたが、次第に美術や芸術の仲間入りを果たすようになっていったように見える。
しかし話はそれほど単純ではない。そもそも明治40年に文展において、「工芸」が「美術」から疎外される以前、たとえば明治10年以降、開催されてきた内国勧業博覧会においては、その初期においては、「美術」区分のなかで、「工芸」に相当する作品が美術作品として展示され、明治23年の第3回には「美術工業」、明治28年の第4回以降は「美術工芸」という分類の元に、絵画や彫刻と共に展示されていた。ところが文部省が「芸術奨励の方策」として行なった最初の官制の展覧会、文展こと文部省展覧会第一回では「工芸」が美術から完全に排除されてしまった。殖産興業的な側面を強く持っていた博覧会ではなく、初の官制の美術展覧会で「工芸」が最初から排除されていたことは重要である。
2013年10月現在の文部科学省のHPには、「明治期以来の政府と美術との関わりが歴史を追って記されているが、そこには文部省肝入りの展覧会が、「日本画、西洋画、彫刻の三部」で構成されていたという歴史的事実が記されている。
政府の芸術奨励の方策は、まず、美術の分野において展覧会を開催することから始められた。すでに明治十二年に日本美術協会が創設されて絵画・美術工芸品などの展観を行なったのをはじめとして、個展あるいは各流派ごとの展覧会が明治年代にはひろく行なわれていたが、美術界ではこれら各流派をもうらした一大展覧会を開きたいという機運が高まった。そこで文部省は、四十年六月、「美術審査委員会官制」を定め、次いで「美術展覧会規程」を公布して、毎年一回展覧会を開催することとした。審査委員会は、日本画、西洋画、彫刻の三部に分かれて出品作品の鑑査・審査に当たり、また褒賞・買い上げを行なうことも定めたが、同年十月、東京上野竹ノ台で第一回の文部省展覧会すなわち文展を開催した。その後、文展は引き続き開催され、大正七年第一二回をもって終わるが、わが国美術発達の上に大きい足跡を残した。
(文部科学省HP)
このように文部省主導のもとにはじめられた最初の美術展覧会において、取り上げられたのは日本画、西洋画、彫刻に限られ、工芸も人形もそこでは排除されていた。その排除ののちに、新たに付け加えられるという形で工芸は「美術」の下位区分に参画することになるのだが、その時には既に絵画、彫刻の優位性を揺るぎないものとなっていた。そして「人形」がそこに付け加えられるのは更にそのあとであったということも興味深い事実である。ここで注意しておくべきは、「人形」が工芸や美術として認められたことではなく、それ以前に工芸や人形の「排除」があった、ということである。
美術の登場
そもそも「美術」という日本語は、1873年、ウィーン万国博出品の折に使われた翻訳語であると言われる(註1)。しかし、この語は、文学や音楽を含み、現在でいう「芸術」を意味していた。また実際にそこで輸出、展示されていたのは現在でいえば主に「工芸」に相当する作品であった。
北澤憲昭は「工芸とアヴァンギャルド」において「日本の造型史をかえりみると、純粋に鑑賞のために造られたものはいたって少ない。そのほとんどが、なんらかの生活上の用途と結びついている。たんに形式的な結びつきにとどまる場合もあるが、そのことが却って実用的機能への執着を証しているともいえる。鑑賞性を求めながら、わざわざ実用的機能形態をまとうからには、強い心的社会的規制がはたらいていたにちがいないのである。ひとことでいうならば日本社会の造型史は、工芸の優位性において展開してきたのであった」と記している。また北澤がそこで引用している矢代幸雄の『日本美術の特質』(1943)では「先づ日本は美術国といふよりも寧ろ工芸国と呼ぶを適当とする程、工芸の盛なる国であった。而してその工芸は甚だ特殊なる材料を多量に持ち、技術多様にして頗る変化が多い」と日本における工芸の優位性が述べられていた。このような工芸優位の日本の造型が、西洋的な価値観による「美術」という内実を獲得していくには、一定の時間の経過と価値観の変動を必要としていた。さまざまな紆余曲折を経て「芸術」の下位概念として「美術」が、そして「美術」の下位概念として「絵画」(日本画と洋画)を頂点として「彫刻」がそれに連なっていく過程で、それでも工芸的作品は「美術工芸」と呼ばれたり「工芸」と呼ばれたりしながら「美術」とともにあったのだが、 明治40年にはじまる文展が、その分類を「日本画」「西洋画」「彫刻」に限定してしまうことによって、「工芸」を一度完全に「美術」から排除した。そして先述したようにその20年後に「工芸」が「美術工芸」として帝展に加わり、その9年後にこの「美術工芸」にようやく「人形」がその場所を得ることになったのである。
現在、『広辞苑』をひもとくと、「美術」という語には「本来は芸術一般を指すが、現在では絵画・彫刻・書・建築・工芸など造形芸術を意味する」とある。この順序は恣意的なものではなく一般的な評価の基準と言える。そしてここには「人形」という語はない。人形は現在、主にこの「工芸」の下位概念として扱われている。この扱いが定着するのは、1936年改組第一回帝展に人形が初入賞を果たしてからである。このとき、創作人形はここで帝展の第4部美術工芸のなかに身を置くことになったのである。現在も日展においては、日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の区分があり、人形はこの「工芸美術」に分類されている。また日本伝統工芸展においても人形は展示されており、そこでは人形という分類もあるが、それは工芸の下位概念となっている。東京・国立近代美術館においても人形が収蔵され、展示されるのは工芸館であり、人形は工芸として分類されている。
人形は工芸か
しかし人形は工芸かといえばどうもそこに収まりきれるものでもないのである。これは藤田博史との対談の折に四谷シモン氏が指摘していたことでもあるが、工芸は実用と繋がっており、その意味で人形は実用品かといえば、どうもそうとは言い切れないのである。またそれは人や動物の形を象ったものであり、工芸よりは彫刻に近いとも言える。こうした認識は実は、1936年に人形が帝展で美術工芸部門に組み入れられたときに一部の人形作家が感じていたことでもあった。人形作家のなかには人形はむしろ彫刻に近いというべきであり、その意味では「工芸美術部門」よりは「彫刻」部門の方がふさわしと考える者も相当数いたし、そもそも人形を工芸や工芸美術と呼ぶのは無理があると考える人々もいた。またそもそも「工芸美術」とはどのようなものか、ということについて各々の人形作家の持つイメージや印象は異なっていた。それは作家の問題ではなく、「工芸美術」という概念の側の問題であった。この辺りの事情を入江繁樹は次のように説明している。
そもそも、<工藝美術>は<絵画>や<彫刻>と違い、ある一定の製作原理を指し示すような概念ではない。それはむしろ「絵画を頂点とする現行の美術体制に位置づけがたい雑多な技法の総称」として、帝展内部では機能していた。
(入江繁樹「『人形』・『彫刻』・『工藝芸術』のあいだ」)
「人形」は技法において用途において、また視覚的にみて、他の工芸作品と似通っていたわけではなく、明治以降主流となった「絵画を頂点とする現行の美術体制」において周縁に追いやられたその不遇な境遇という一点で他の<工芸美術>作品と似通っているに過ぎず、そこは実際にはさまざまな技法の寄り合い所帯であったとも言えるのである。それ故各々の作品は絵画や彫刻に対して周縁に置かれるというその境遇において似通っていても、必ずしも各々の間に相似性が認められたわけではなく、とりわけ人形の場合はその傾向が甚だしかったと言えるだろう。
また人形は、人や生き物の形を模した立体作品という点で、他の工芸作品よりはむしろ彫刻と極めて近い。先述したように、日本では、人形と彫刻が明確に分かれていったのは明治以降のことであり、その事情はいまだ人々の記憶に残っていた。彫刻と人形の分かれ目は明治初期においてはかなり曖昧であり混沌としていた。たとえば人形師と呼ばれていた人でも森川杜園は彫刻家としての身分を得るが、生き人形の松本喜三郎や安本亀八は彫刻家と呼ばれることはなかった。たとえば平櫛田中は大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫を習い、後に日本を代表する彫刻家という評価を得るまでになり、後に東京美術学校で教授となるが、それは作品が彫刻として扱われたが故にであった。もちろんそうした区分けもまた一朝一夕に出来たわけではなく、紆余曲折を経て少しずつ形成されていったのである。このように実際に明治の初期に人形と彫刻が分かれていく経緯を知っていた作家たちにとっては、彫刻部門の方がより人形に近いという考えは当然のごとくあったが、しかし彫刻という概念がポジティブな意味をもって定着するにつれ、そこから排除されるという形で人形に「ネガティブな意味」が付着していくという過程が作られてしまっていることも十分認識している以上、彫刻の軍門に下ることは彫刻の下位に人形が置かれること、あるいは「人形」としての独自性を失ってしまうことになると懸念されもしたのである。こうした複雑な人形作家たちの心境を当時の重要な人形作家の一人、鹿児島寿蔵の発言から、入江繁樹は次のように説明している。
鹿児島寿蔵はいう、「理論としては人形は彫刻の一分派と言へませうが、(略)若し幾人かが通過したとしても、それは最早、人形界の出来事としてではなく、彫刻界に属して論ぜらる様になりはしませんか。だから誰も留めるものはない、純粋に彫刻としての作品を作ったら、その方へ出品すればよいことです。だから理屈として第四部への進出運動は一寸可笑しいことになるが、それかといって第三部への進出運動なんか、てんで何処でも問題にしてくれないでせう」。つまり、鹿児島にとって、〈人形〉は確かに「彫刻の一分派」ではあれ、〈彫刻〉に併呑されるべきものではありえなかった。彫刻部門への進出は、かれからみれば〈人形〉の〈彫刻〉に対する完全敗北であり、〈人形〉独自のアイデンティティの放棄に他ならない。それ位ならば、たとえ「一寸可笑しい」としても工藝美術部門に進出した方が、〈人形〉の独立維持にとってまだしも好都合であったのだ。
(入江繁樹「『人形』・『彫刻』・『工藝芸術』のあいだ」)
このように工芸美術部門への人形の進出は作家たちは必ずしも諸手を上げて歓迎されたわけではないが、彫刻の元に置かれることは人形の独自性を失うこととしてむしろ敬遠された。
人形と彫刻の境
このような事情は彫刻の側においては、人形と彫刻の区分が比較的曖昧であったこの国においては、人形と自らを分離することによって自らのアイデンティティを確かめていたという側面がある。「芸術」とか「美術」とか「彫刻」という概念が日本語で定着する前は、日本には美術も彫刻もなかった。少なくとも作る人も見る人もそのように作ったわけでも見ていたわけでもなかった。北澤憲昭も指摘するように「『彫刻』という見方が存在しない以上、『彫刻』を制作するという意識もありえな」かった。たとえば高村光太郎の父、高村光雲は職人としての「身分」から出発して、やがて「芸術家」「美術家」へと至る道を進んだが、ここには本人の意志だけではどうにもならない偶然も働いていた。「篩にかける」という言葉があるが、まさにそのように、ある規格にあうものが残り、規格にあわないものがふるい落とされたのが、「美術」とそうでないものを分ける歴史であった。多くのものがふるい分けられたが、それでも、彫刻として残ったもののなかにも西洋の彫刻にはあまり見られない要素も残ることとなった。たとえば「彼らは木という素材も捨てなかったし、西洋の近代彫刻ではあまり顧みられない、彫刻への彩色という手法も受け入れた」と田中修二は指摘している。
こうした技法を現在に探し求めるならば、著名な彫刻家として舟越桂の名を挙げることができようか。彼は木彫を用い、彩色を施し、大理石ではあるが義眼を入れている。限りなく人形と近いのである。このことは既に人形作家によって指摘されてきたし、実際に作品を観る人々、作品を作る人々にとっては感得しやすい事実でもある。しかし舟越桂の作品は彫刻と呼ばれ、人形とは呼ばれないのである。(つづく)