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テクスト効果 (16)
  芸術編(4)



榊山裕子

人形と身分(2)

人形のあやふやな身分

 先日、7月4日木曜日、新宿・ゴールデン街のクレマスターにて人形作家の四谷シモンと精神分析医の藤田博史の対談が行われた。その際、四谷シモンは「人形には身分がない」と繰り返し語った。なぜ人形には身分がないのか。身分がないとはどういうことか。それは「人形」には、それを位置づけるための上位概念がないからではないか、そして、とりわけ「彫刻」と比べたときに、その違いははっきりするのではないか、と先回の「テクスト効果 人形と身分(1)」では指摘した。同じようにヒトガタを扱う立体的な造型物として、人形としばしば比較されるのが彫刻である。彫刻の場合は、芸術ー美術の下位概念として明確に位置付けられている。すなわち彫刻には身分がある。しかし人形にはそれに相当する身分がないのである。それはいわば父なし子のようなものである。人形の身分があやふやなのは、人形が美術や芸術に対して持つ関係が彫刻に比べて曖昧だからである。
 もちろんそう語ってしまった瞬間に、さまざまな反論もまた可能となるだろう。いわく「人形は工芸ではないか」「人形美術という言葉があるではないか」、あるいは「名称や身分にこだわる必要はないのではないか」「作品として優れていればよいのではないか」というように。もちろん人形はそこにあり、あり続けている。ただ問題はその場所が明確に確定されていないということなのである。

 人形の美術的価値あるいは美術としての人形についてはこれまでも様々な形で語られてきた。たとえば人形問屋・吉徳の経営者にして人形研究家であった十世山田徳兵衛(1896-1983)は、1939年(昭和17年)に著した『日本人形史』のなかで「美術品としての人形」という項目を設けている。ここでは古代以来の信仰の対象としての人形、祭りや行事と関わる人形、人形芝居に使われる人形、子供の玩ぶ人形との対比で、「美術品としての人形」が論じられている。山田によれば美術品としての人形は、人形信仰とは異なり、また子供向けのものでもない。「これは子供の玩ぶ人形の高級品ではなく、別箇の立場から生れたものである。大人が座右におき、或は室内に飾って愛翫し、鑑賞する人形に、江戸時代には衣裳人形・市松人形・御所人形・加茂人形(木目込人形)・嵯峨人形・奈良人形・宇治人形がある。香人形・押絵人形もここに挙げておこう」としている。
 また日本彫刻史の研究で知られる美術史家・久野健(1920-2007)の『日本の彫刻』(吉川弘文館、1959)では、江戸時代の人形が「人形彫刻」という名目で日本の彫刻の歴史のなかに組み入れられ、御所人形、風俗人形、加茂人形、木目込人形、衣裳人形などが写真で紹介されている。
 ただしこれらの人形はいずれも江戸時代のものである。すなわち芸術、美術、彫刻といった概念がそもそもこの国に持ち込まれる以前の産物である。またそれらは作者の名が記されてはおらず、その多くは共同制作によるものである(註1)。それは現在の目でみても、あるいは作品に作家性が前提とされる現代であればこそ、ハッとさせられる不思議な魅力がある。個人名や個人のオリジナリティに収まり切らないが故の魅力がある。また作者の無名性こそが人形の大きな魅力ではないかという考え方もある。しかしここではそうした作品は扱わず、基本的に全行程を一人で作り仕上げ、作品に固有名を冠する明治時代以降の「人形作家」とその作品を扱うこととする。

創作人形作家の誕生と人形芸術運動

 個人としての作家意識を最初に発揮した人形作家とされているのが、久保佐四郎(1872-1944)である。久保は「人形に初めて落款(製作者が自筆で署名、または印を捺すこと)を入れるなど、全行程を一人で仕上げ、名声を得た」(註2)人形師であり、その意味で彼は日本初の「人形作家」であったという。この久保も関わり、先述の山田徳兵衛や日本画家で人形研究家の西澤笛畝らの強い後押しもあって、人形の地位向上のために、大正末期から昭和初期にかけて起ったのが人形芸術運動である。この時期、平田郷陽、岡本玉水ら、プロの人形師による人形研究団体が次々と結成され、また人形師とアマチュア作家による「日本人形研究会」が結成され、人形師はその優れた技術によって、女性を多く含むアマチュア作家たちはそのユニークな発想によって互いに啓発しあうこととなった。
 こうして人形作家の意識と機運が高まり、西澤らによる美術界への働きかけなどによって、人形が公式に「芸術」というヒエラルキーの下に収まったのは、1936年(昭和11年)のことである。これは現在の日展に相当する帝展にはじめて「人形」が展示されたことを指す。この年、帝國美術院改組第一回の美術工芸部門に、平田郷陽、堀柳女、鹿児島寿蔵、野口光彦、羽仁春水、野口秋豊ら、六人の人形作家の作品が入選した。
 そもそも帝展の前身(註4)である、1907年(明治40年)に創設された文展(文部省美術展覧会)において、初期は「日本画」「西洋画」「彫刻」の三部門のみで、人形も工芸一般も疎外されていたが、1926年に「美術工芸」部門が第四組として付け加わった。このことによって工芸が公的に「芸術」として認められるようになったのだが、人形はまだそこに組み入れられてはいなかった。この出来事をひとつのきっかけとして、人形を帝展に送り出すことが一部の人形関係者の目標となり、それが達成されたのが1936年だったのである。
 戦後、帝展は日展となり、現在も続いている。ここでは素材と技法別に、漆、陶磁、染色等々と分類された工芸作品のなかに「人形」がある。一方、日展とともに、実力のある人形作家を輩出したのは、戦後に始まった日本伝統工芸展である。これは公益社団法人日本工芸会によるもので、陶芸、染色、漆芸らとともに人形は一つの部会を形成し、現在に続いている。
 このように創作人形は「美術」の下位概念としての「工芸」という枠組のなかでその居場所を得、かくして一応その身分は保証されたと言える。つまり工芸の一部門という位置付けで、工芸を通して「美術」更には「芸術」に繋がっているというのが、創作人形が現在置かれた日本における公的な位置付けである。
 また東京の国立近代美術館においては、分館である工芸館にその作品が所蔵され、人形展は現在でもこの工芸館で行われており、人形を工芸の一分野としておく考え方は一応浸透していると言える。

アマチュア作家の台頭と現代人形美術展

 では創作人形が工芸にすっぽりと収まっていたかといえば必ずしもそうとはいえないのである。小川千惠子(現・羽関チエコ)は、上記の潮流とは別の「一つの流れとして、1926年に婦人運動家としても知られる上村露子がフランスの布製のブドゥワール人形の技術を持ち帰り全国に『フランス人形』を広めたことで、中原淳一、小松康城、水上雄次、川崎プッペを経て、趣味工芸から前衛的な作品まで広がりを見せた布帛人形の系譜がある」(註5)と指摘している。性別役割分業がいまだ堅固であった時代において、女性が身につける機会に恵まれていた手芸の延長上で作品制作ができたことも女性たちが参加しやすい要因であったと言えよう。
 さらに、日展や伝統工芸展とは別に、人形を主題とした展覧会が戦後しばらくの間開催されていた時期があった。それが1949年にはじまった朝日新聞社が主催する公募展、現代人形美術展である。ここでは「美術工芸」ではなく「人形美術」という名称が使われていることにも注意しておきたい。先述の「人形=工芸」という公式が必ずしもすんなりと受け入れられていたわけではないことがこのタイトルからもうかがえないだろうか(註6).。この画期的な展覧会では辻村ジュサブロー(現・辻村寿三郎)や浜いさをらが活躍し、1962年には当時まだ18歳だった四谷シモンも入選を果たしている。この現代人形美術展は1968年まで続き、日本の創作人形の興隆のために貢献した。そしてこの公募展が終るのをきっかけに辻村寿三郎の呼びかけで布を素材とする作家たちが結成したのが「グループ・グラップ」(註7)である。参加した作家には辻村寿三郎の他、浜いさを、佐藤三郎、与勇輝らがいる。布で作られたぬいぐるみ、布帛人形と呼ばれるそれらの人形は、玩具や手芸の延長のように見られることもあったが、日展や伝統工芸展の作品にあきたらない作家たちにとって、新しい試みをするための最良の素材であり、創作人形の新しい試みがそこではさまざまになされていたのである(註8)。

四谷シモンの登場と日本の球体関節人形

 四谷シモンは、こうした時代背景のなかに登場してきた人形作家である。彼の作品は日本でいわゆる「球体関節人形」が広まっていくきっかけをもたらした。そしてその四谷シモンの、球体関節人形をはじめるきっかとしてのハンス・ベルメールの人形との出会いというエピソードは、既に一種の神話として、定着している。ここでは少し長くなるが、四谷シモンの著書『人形作家』より作者自身に語ってもらうことにしよう。

  昭和四十年の春、酒場でのアルバイトを続けながら漠然と人形を作っていた僕に大きな転機が訪れます。
  ある日、明け方にふらっと入った大岡山の書店で「新婦人」という雑誌を手に取り、なんとなくパラパラめくっていました。「新婦人」は華道の池坊系の雑誌だったのですが、そんなことは知るはずもなく、宇野亞喜良さんが表紙を描いているというただそれだけの理由で手に取ったのです。
  そこには僕の人生を変える一枚の写真が載っていました。ドイツのシュルレアリスト、ハンス・ベルメールの人形の写真です。
  それまでいろいろな人形を作り、また日展や伝統工芸展などで日本を代表するいろいろな作家の人形を見てもいた僕は、自分の作っている人形の先に、そうした工芸的な作品があるのかと思いながら、決まり切ったポーズをして仰々しいタイトルがついた人形が、しょせん彫刻のまねでしかないことに漠然と不満をもっていました。だからといってそこから抜け出すためにどうすればいいか、自分ではわかりません。家では毎晩しこしことぬいぐるみの人形に綿を詰めていたのです。
  ところが写真で紹介されていたベルメールの人形は、そんなこぢんまりとした世界からはおよそかけ離れていました。全体は人間の下半身が二つ胴体で繋がったようなぐにゃとした形で、その股ぐらから少女の顔が突き出しているのです。
  瞬間、「何、これが人形?」ということが僕の体を火花のように貫きました。その写真を紹介した記事のなかに「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉がありましたが、僕は文字どおりその写真に痙攣したのです。
  ベルメールの人形はとてもエロティックなものでもありますから、僕はその大胆なエロティシズムに驚いたんだろうと思われているところもありますが、そうではありません。そのときのショックはベルメールの人形には関節があって動くということ、だからポーズがいらないということがいちばん大きかったのです。
  その本をもってすぐさま家に飛んで帰ると、家にあった人形の材料を捨てました。
  「ああいうのが人形だとしたら、こんなものもういらない」と思ったのです。
  家に帰ってその写真を眺め、また「女の王国」というタイトルの紹介記事を穴が開くほど読みました。そしてその日から、ハンス・ベルメールという名前とともにそれを紹介していた澁澤龍彦という文学者の名前が特別なものになりました。どちらもその日、「新婦人」によってはじめて知ったのです。(四谷シモン『人形作家』、講談社新書、講談社、2002年)

 ベルメールの「人形」写真は、当時、日本の多くの知識人や美術愛好家や若者たちを魅了した。1960年代から70年代にかけて、この国でその案内役を果たしたのは、澁澤龍彦の一連のエッセイであった。それはバルテュスやポール・デルボー等と同様に、エロティシズム、異端、人形愛といったきらびやかな言葉で彩られた澁澤的小宇宙の重要な必須アイテムだったのである。しかし四谷シモンがベルメールの人形写真から読み取ったのはそうした独自の「美学」だけではなかった。当時ベルメールや四谷シモンの人形に惹かれた多くの人々と違っていたのは、彼が「人形作家」だったということである。

 当時、四谷シモンが作っていた人形は布製の「ぬいぐるみの人形」だった。先述したように、これは当時の人形界では、伝統や工芸の枠組みに縛られない自由な創作表現の可能性がある技法であった。その四谷シモンがベルメールの球体関節人形を見た時の最大のショックが〈球体関節は動く→「だからポーズがいらない」〉ことを知ったことにある、としているのにはそれなりの理由がある。幼い頃から人形に興味を持っていた四谷シモンはそれまでにすでに「いろいろな人形を作り、また日展や伝統工芸展などで日本を代表するいろいろな作家の人形を見ていた」。そして「自分の作っている人形の先に、そうした工芸的な作品があるのかと思いながら、決まり切ったポーズをして仰々しいタイトルがついた人形が、しょせん彫刻のまねでしかないことに漠然と不満をもって」いた。たしかにそれらの人形は近代美術がそうであるように鑑賞されることを前提として固定したポーズをとっていた。しかしそれらのポーズの在り方、タイトルの付け方とそのセンスは近代美術的ではあっても、同時代的なセンスや魅力があるとは言い難かった。自分にとっての人形を求めて彼は朝日新聞社主催の「現代人形美術展」やデパートで開催されていたさまざまな人形展なども見て回り、1961年17歳のときに「現代人形美術展で布の人形としては戦後最初の特選をとったこともある優秀な人形作家」(註9)である水上雄次に師事し、更には翌年18歳という若さで布帛人形で「現代人形美術展」に入選も果たし、人形作家としての道を歩み始めていたものの、布の人形には違和感を持ち続けていた。そんな彼が1965年(昭和40年)のある日、出会ったのがハンス・ベルメールの人形写真であった。

 人形に惹かれ、人形を作ることを志しながら、当時の創作人形には収まりきらない欲望を人形に対してもっていた四谷シモンはこうして独自の道を歩むことになる。このような特異な出発を遂げた四谷シモンについては、澁澤龍彦の他、美術批評家で詩人の瀧口修造をはじめとして、現代美術や芸術関係の専門家たちが論じており、また最初の個展が主に幻想美術を扱う青木画廊で開催され、その後公立美術館で展覧会を開催するなど、工芸よりは美術の文脈で語られる傾向がある。しかし一方で彼の作品は東京国立近代美術館の工芸館に保存され、展示されている。また四谷シモンや土井典や天野可淡をきっかけとしてこの国で広まった球体関節人形は、工芸としての人形とも同時代の美術とも別の場所で生息し続けている。それらは系統的に語られることはなく、それぞれがそれぞれの場において自足しているように見える。そしてあちこちに位置付けられその名を刻みながら、どこにも収まりきることができない四谷シモンのような作家とその作品は、そのどこにも落ち着けないような居場所のなさ、身分の不確定さを感じ続けているように見える。そしてそれは、四谷シモンという作家個人の問題であるだけでなく、この国「日本」と「人形」の問題でもあるように見えるのだ。

 さて、今回は四谷シモンが登場するまでの、近現代日本の創作人形の歴史を大急ぎで追ってきたが、次回は更に時代を戻して、芸術や美術が登場してきた時代、さまざまなヒトガタから人形と彫刻が分かれた時代、工芸が美術の末端に連なるまでの紆余曲折、その混沌とした時代まで振り返ってみることによって、なぜ人形は身分を持たなくなってしまったのかについてもう少し深く掘り下げて考えてみることにしよう。



註1)「人形作りは、頭は頭師、衣裳は着付師と、専門の人間が分担し、これを問屋がまとめて商品化するのが普通であり(これは現在も続いている)、誰々の作品という意識が生まれにくい仕組みがある」(是澤博昭「人形芸術の誕生ー職人から作家へー」『日本人形の美』淡交社、2008年)

註2)是澤博昭「人形芸術の誕生ー職人から作家へー」『日本人形の美』淡交社、2008年

註3) あるいは北村哲郎は日本人形を①信仰や呪いに基づいたもの ②子供の遊びに伴うもの ③愛玩・鑑賞に資するもの、の3つに大別しているが、ここで扱う人形はこの③のなかでも個人名が冠されたものということになる。

註4)帝展は帝國美術院が主催した官展である。帝展は1907年(明治40年)創設された文展(文部省美術展覧会)が1919年(大正8年)に改組されたものである。1937年(昭和12年)帝國美術院が廃止され、再び文展が復活するが、戦後1946年(昭和21年)に日展(日本美術展覧会)となり現在に至っている。

註5)小川千惠子(現・羽関チエコ)「他者としての人形性と日本人」、『ユリイカ 特集 人形愛』第37巻第5号、2005年

註6)「人形美術」という名称に関しては次のような指摘もある。「この人形=工芸という現在の美術界の常識に基づいて、工芸を専門にあつかう美術館などで、近現代工芸としての人形展が開催されていることは記憶に新しい。だが、その一方では、主として実作者や公募展覧会の主催者側から『人形美術』という呼称が生みだされ、近現代の人形をめぐる動向を記述する際に、この用語が使われることも珍しくはないのである。」(大熊敏之「『形物美術の領域』ー近代日本の置物、彫刻、人形、模型(上)」)

註7)グループ・グラップについての記録は数少ない。その意味で創作人形専門誌『ドール・フォーラム・ジャパン』誌で連載された「グループ・グラップの軌跡」は大変重要な資料である。

註8)こうした芸術性と自由さを考慮した公募展はこの後見られなくなってしまったが、ドール・フォーラム・ジャパンの小川千惠子(現・羽関チエコ)の尽力により、ストライプハウス美術館(現・ストライプハウスギャラリー)で1999年に開催された「新世紀人形展」はその意味で注目に値する。招待作家に四谷シモンらを迎え、公募展として開催されたこの公募展は、審査員の肩書きの幅広さやユニークさでも特筆に値するといえよう。

註9)四谷シモン『人形作家』講談社現代新書、講談社、2002年