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テクスト効果 (12)



榊山裕子


日本と父(4)

4)キリスト教とスケープゴート


 先回はルネ・ジラールのスケープゴート論の続きを「犠牲者への気遣い」という観点から考えてみた。そこでは人類の罪を一身に背負って沈黙のうちに死んでいくはずの「スケープゴート」が、キリスト教においては寡黙ではなかったこと、そのことによって無実の犠牲者に向けられた罪の告発は、翻って犠牲者を集団で殺害したマジョリティの人類の側に向けられたことが指摘された。「集団はスケープゴートを作り、そのものを罪あるものとして、全員一致で殺害する。そしてそのことによって集団は結束を遂げる」それは人類によって普遍的に行なわれてきたことである。殺人や戦争がなくならないように人はいまだにスケープゴートを作り続けている。これも確かである。しかしスケープゴート論の斬新な点は,ルネ・ジラール自身も語っているように、スケープゴートが実は無実であることを暴露してしまった点にある。かつてスケープゴートが人々にとって切実な意味を持っていたのは、犠牲に供される者に罪があると本気で人々が信じていたからである。しかしその虚妄は暴かれてしまった。それを最初に暴いてしまったのがキリスト教であったというのがルネ・ジラールの主張である。彼はそれを「神話」、具体的にはギリシャ・ローマ神話に対する脱神話化として語った。つまりギリシャ神話においては、英雄は実際に罪を犯したものとして罰を受ける。しかしそれと相似したストーリーを用いながら新約聖書の福音書においては、神話の英雄に相当するキリストが罪を冒したものとして罰を受けるものの、実際には無罪であることが明るみになり、キリストを殺害したものたちの罪が逆に浮び上がる。これは「神話」というテクストで起こった殺害の捉え直し、解釈のし直しと考えることもできる。ルネ・ジラールは次のように語っている。

   古代宗教とキリスト教の間には、一つの構造的な相違があります。古代宗教の枠組の中では、スケープゴートのスケープゴートたる所以が理解されません。全員が一致して有罪だというのですから、犠牲者は罪人なのだと考えられてしまいます。福音書においても、全員一致の瞬間はあります。使徒全員がキリストに背き、群衆に加わるときです。その後キリストの復活によって、この全員一致は破壊されます。信徒たちは直接または間接的に福音書の著者となり、群衆やスケープゴートのシステムを告発します。福音書においてはこの二つの姿勢が対比的に描かれています。信徒たちは初めは群衆に賛同し、次いで群衆に背を向けこれを告発します。こうすることによって、スケープゴートのシステム全体がすっかり暴かれるのです。(ルネ・ジラール『文化の起源』(註1))

 ここで興味深いことは、「聖書」というテクストで重要な位置を占める「福音書」の著者たち(彼らはキリストの弟子たちであった)もまたいったんはスケープゴート作りに加担し、全員一致でキリストを告発し、同じ罪を犯すという点である。しかしまるで櫛の歯が欠けるようにそこから抜ける人々が現われはじめる。そのなかにどっぷり浸かっていた人たちが自らその過ちを悟ってそこから抜け出すという順序を踏むことによって「全員一致」はその根拠を失う。自らを迫害するものについて、キリストは父なる神に向って「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と語ったと「ルカによる福音書」には書かれている。またルネ・ジラールは、スケープゴートのメカニズムが十全に機能するためには、スケープゴートのメカニズムに対する「無知」が不可欠であることを指摘して次のように述べている。「スケープゴートを持つこと、それはスケープゴートを持っているとは知らないということなのです」。ここではスケープゴート作りに加担しないことこそが「知」の証として評価される。

 とはいえ「全員一致」を求める思考の傾向は決して遠い過去のものではない。たとえばこの「テクスト効果」の第三回で示したように、自民党の「総務会」は2005年まで「全員一致(全会一致)」のタテマエが貫かれていた。また第二回で書いた、小熊英二がインド旅行の折に聞いた「インドの北のほうにある田舎の州」の例においても、そこに住む人々は「たとえば投票でどこに入れるかも、政治運動などを行うかどうかも、一族や村で決める」ために「全員一致」となる、というエピソードによって、「全員一致」という神話的思考は今もまだ健在であることを示していた。そこでわかったことは「全員一致」とは個人の意見が皆同じになるということではないということであった。すなわち前提条件がそもそも「個」にはないのであるからそこで言われる「全員」は個人個人の意見の一致などではないのである。この国で近年まで美徳とされてきた「和」の精神もそのようなものであった可能性がきわめて高いが、このことについてはあらためて詳しく考察することにしたい。

 さて「全員一致」を打ち壊す考え方が「聖書」に仕込まれていたことをルネ・ジラールが指摘したことは既に語ったが、では歴史的に見てキリスト教が早くからそれを実践していたかというと到底そうとは言えないだろう。他の宗教に対する不寛容、「魔女狩り」などに見られる残酷かつ徹底的な虐殺、こうした歴史的事実を見れば、到底そのようなことは言えそうにない。むしろ「全員一致」という方法は、犠牲者は最小限に抑える方法であったし、今もスケープゴート・システムを根絶する特効薬のような方法は見つかっているわけではない。実際、集団が集団として安定するためにはこのスケープゴートの存在が不可欠であるように見える。つまり同一平面上にいる「全員」と、そこから外れる唯一の存在があれば集団は集団として成立し安定するというわけである。それが上方に排除されたものが指導者=父となり、下方に排除されたものがスケープゴートとなる。

 フロイトは著名な「集団心理学と自我分析」(1921)において、「指導者を伴う集団」の代表的な例として、教会と軍隊を挙げているが、この集団の在り方もまた基本的に上記の「全員一致」による集団の在り方と同型である。両者において指導者以外のすべての構成員は「平等」である。あらゆる意味で平等であるとは限らないが、こうした集団においては「首長となる存在ーーーカトリック教会の場合はキリストであり、軍隊においては隊長ーーーがいて、集団のすべての個人を等しい愛情をもって愛しているというまやかし(錯覚)」(註2)が支配的である。軍隊においては「隊長は自分の兵隊皆を等しく愛する父親」であり、教会においては、キリストは「心優しい兄の態度をとる。彼らにとって父親代わりの存在」である。指導者と集団の関係は軍隊の場合も教会の場合も基本的には同じである。

 しかし補遺においてフロイトは両者の違いに言及している。軍隊においては兵士は上官を理想とする一方、同僚たちとは「同一化」する。兵士が自らを上官と同一化することはない。カトリック教会においてもキリスト教徒はイエス・キリストを「理想」として愛する一方、他のキリスト教徒と「同一化」を通して結ばれていると感じている。だが教会には軍隊と異なる点がある。それは教会が信徒に更なる要求をすることである。つまりキリスト教徒においては、イエス・キリストとも自らを「同一化」し、キリストが彼らを愛したように、彼らの一人一人も他のキリスト教徒たちを愛さなければならないとされるというのである。

 キリスト教徒は誰もが原理的には自らを指導者の位置に置くこと、その位置から人々に積極的に愛を施すことを要請される。これは専ら指導者に「愛される」という形で指導者に帰依する宗教の在り方から明らかに逸脱している。しかしキリスト教は、指導者に信者が帰依することと信者自身が指導者の位置に立つことを、原理的には両立可能とした。このからくりをキリスト教はどのような形で実現したのだろうか。軍隊と教会の違いで目につくのは、軍隊における指導者は「父」の役割を果たすが、イエス・キリストの場合は「父代わりの兄」という指摘である。フロイトは、軍隊において上官は「父」とする一方、イエス・キリストは信徒一人一人に対して、「父」の代わりの「兄」として振舞うと指摘する。すなわちキリストは集団にとって「父親代わり」の「兄」であり、信者たちはその「兄弟姉妹」であるというのである。

 一般に息子と父の間には葛藤もあるが継承もある。男性集団のホモソーシャリティは、そうした男性間の文化伝播や財産の授受の仕組みである。キリスト教の「三位一体」は「父と子(息子)と聖霊」であり,そこからは女性は排除されている。上記の指導者=父と、キリスト=息子の関係がそのようなものであるならば、それは集団の構成を逸脱しているわけではない。しかしフロイトが指摘したキリスト教の考え方の過激な点は、この考え方を徹底すれば、正統な後継者としての「息子」以外の人々も、同様にそこに立つ権利を有しているということになる点である。つまり原理的には女性でも子供でも奴隷でも「兄弟姉妹」としてその位置に立ってよいということになる。実際にはにそのようなことは長い間起こらなかったことを実証する例はいくつもある。しかしこうした過激な可能性がそこに仕込まれていたということに、ここでは注目しておきたい。つまり最初から可能性を排除されている場合と、一筋の光であれ可能性が垣間見える状況とは全く異なるということである。とりわけ差別されているものにとってはその違いは大変大きいと言える。

 キリスト教が要求していることがフロイトが指摘している通りだとしたら、通常の集団たとえば軍隊においては、集団の構成員は父(上官)の代わりになろうとすることはないが、キリスト教においては集団の構成員は父(神)代わりの兄(イエス・キリスト)の位置に立つこと、すなわち指導者の位置に立つことをむしろ要請されていることになる。また兄であるイエス・キリストのように、「殉教」という形で自らの意志によってスケープゴートの位置に立つ可能性があることを示してもいる。そこでは固定した上下関係が維持されつつも崩壊している。あるいは上下関係と平等関係の同時共存とでも言うべき事態が起こっている。このことはまた指導者の位置に立つものが唯一無二の存在ではなく、交替可能であるということも示していたといえる。






















註1)ルネ・ジラール『文化の起源 人類と十字架』田母神謙二郎訳

































註2)ジグムント・フロイト「集団心理学と自我分析」藤野寛訳