セミネール断章 2026年6月14日講義より
第6回第6講:虚構としてのシニフィアン
ジャック・ラカン精神分析との出会いと学習過程
今年のセミネールでは、ジャック・ラカンの精神分析に深く傾倒し、熱心に研究されている方が多くいらっしゃいます。なかには、それをもとに京都大学で講師あるいは教授として教えている方もおられるようです。
わたし自身がラカンの精神分析を本格的に学ぼうと思ったのは、1980年から81年にかけてのことです。当時フランスに住み、ニース大学に通っていたのですが、同じ大学に在籍していた、非常に頭の良いポーランド人の青年から、「ヒロシ、ジャック・ラカンを知っているか」と尋ねられたのがきっかけでした。名前だけは知っていると答えると、彼はカフェでいろいろと教えてくれました。
これはすごいと思いました。わたしはそれまで、中学2年の頃からフロイトの精神分析の著作を読んでいましたが、ジャック・ラカンはフロイトの精神分析を、当時の現代的な視点から、あるいは数学的な枠組みを用いて再解釈・再編成した人物であり、当時のフランスでは知の最前線、思想の最前線として位置づけられていました。
彼と出会ったのは1979年から80年頃だったと思いますが、残念なことに、ラカンは81年に他界してしまい、結局会うことは叶いませんでした。
その後、わたしはラカンが1953年から晩年の1980年まで、27年間にわたって行った27回のセミネールを読み進めていくことになります。当時、これらのセミネールを聴講した人々のなかには、タイピストを伴って講義を逐語的に記録し、そのテキストを裏で販売していた者たちがいました。パリのリプシーという書店(現在も営業しています)は、こうしたラカンの海賊版や非公式の文献を多く扱っており、当時はカセットテープに録音されたラカン自身の肉声によるセミネールも販売されていて、わたしはそれも購入していました。
フランスにいる間は、もっぱらこうした海賊版のセミネールを読んでいました。当時はまだ、ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールが編集を手がける、スイユ社(エディシオン・スイユ)から正規版のセミネールがぽつぽつと刊行され始めていた段階でした。
これらのセミネールを読み進めるにつけ、これはすごいと確信しました。そして1980年から10年間、ラカンを読み続けることになります。フロイトについては、大学時代の恩師であった精神科の助教授・新海安彦先生が課した、非常に難易度の高いドイツ語の試験――多くの学生が脱落するような5次試験・6次試験まで設けられていました――を無理やり受けさせられたことが幸いし、ドイツ語版のフロイト全集(Sigmund Freud: Gesammelte Werke)を読むことができました。
フランスにいる間、ラカンはフランス語で、フロイトはこのドイツ語全集で読んでいたのですが、その過程で気づいたのは、フランス語とドイツ語とでは言葉の構造がまったく異なるという点です。両者ともそれぞれの仕方で明確な言語ではありますが、ドイツ語は定冠詞によって名詞の格や位置が判別できるという特徴があります。
ソシュール言語学と記号論の基礎
ジャック・ラカンは言葉に依拠します。言葉とは何かを考えるうえで重要なのが、20世紀初頭、フランスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが行った講義をまとめた『一般言語学講義』です。この本はソシュール自身が書いたものではなく弟子たちによってまとめられたものですが、著者名としてはソシュールの名が冠されています。この講義のなかで、言語の構造についてまったく新しい見解が示されました。
ソシュールによれば、言葉は二重の恣意性によって成り立っています。たとえば虹の色は、国によって7色、5色、3色などと区切り方が異なります。これは任意のものであり、こうした性質を恣意性(フランス語でarbitraire)といいます。
この恣意性は二重に働きます。一つは、言語による区切り方そのものの恣意性です。たとえば英語では、生きている羊はsheep、その肉になるとmuttonと呼ばれます。つまりsheepとmuttonは区別されます。ところがフランス語では、生きていても死んでいても羊はmoutonと呼ばれます。つまり、どこで言葉を区切るかという点に恣意性があります。
もう一つの恣意性は、moutonという音と、実際の羊という存在との結びつきそのものの恣意性です。この音と実体との結びつきには必然性がなく、任意のものにすぎません。
ソシュールは、この音の側面をsignifiant(シニフィアン)、意味の側面をsignifié(シニフィエ)と呼びました。signifiantとsignifiéはいずれも、フランス語の動詞signifier(意味する)から派生した語で、signifiantはその現在分詞、signifiéは過去分詞にあたります。日本語では、signifiantは「意味するもの」、signifiéは「意味されるもの」と訳されています。
つまり、ひとつひとつの単語――フランス語でsigne(記号)と呼ばれるもの――は、signifiantとsignifiéという二つの要素から成り立っています。これが、ソシュールが指摘した記号の構造です。
『一般言語学講義』には小林英夫氏による邦訳があります。
この訳業によって、20世紀の思想は大きく転換することになりました。こうした言語をめぐる学問は記号論と呼ばれます。20世紀を席巻したのは、この記号論と、もう一つはドイツに起こった現象学です。現象学とは、わたしたちが物質と思っているものはすべて現象である、という考え方に基づく学問です。
実存主義とハイデガー、サルトル
現象がなぜ起こるのかといえば、それはわたしたちが意識をそこへ向けるからだ、という発想から生まれたのが現象学です。この現象学は20世紀の思想界、とりわけ哲学に大きな影響を及ぼしました。その影響のもとに一連の哲学体系を築いた人物として、ドイツではマルティン・ハイデガーがいます(ハイデガーは後年ヒトラーに接近し、ナチス側の人間となりました)。もう一人はフランス人のジャン=ポール・サルトルです。両者はいずれも実存主義と呼ばれます。
「実存主義」という訳語は、京都の研究者(白井浩司氏だったと思います)によるものです。元の言葉はexistentialismeであり、これを直訳すれば「現実存在主義」となりますが、それでは訳語として適切ではありません。「現実」もそぐわない、「現存」も不自然、「現在」も違う、「実」「実現」もそぐわない――そうして最終的に残ったのが「実存主義」という訳語だった、という経緯があります。
わたしは大学受験に失敗して京都で予備校生をしていた時期、京都の古本屋に通い詰め、わずかな手持ちのお金でサルトル全集などを購入しました。サルトルの『存在と無』を読み解こうと試みましたが、結局読み切ることはできませんでした。それでも、彼の発想自体は興味深いものでした。サルトルによれば、存在には二つのあり方があるといいます。一つは、それ自体としてある存在であり、フランス語でêtre-en-soi(エートル・アン・ソワ)、日本語では「即自存在」と訳されます。もう一つは、何かに対してある存在であり、être-pour-soi(エートル・プル・ソワ)、「対自存在」と訳されます。
ラカン理論への疑問と転換点
わたしはラカン思想を学びながらも、あるとき、何かが欠けているのではないかと思い始めました。ラカンの精神分析は言葉に依拠するものであり、実際、フロイトが創始した精神分析の手法は、長椅子にクライアント(患者とは呼びません)を横たわらせ、その視界から外れる位置に分析家自身が座り、クライアントをリラックスさせたうえで、頭に浮かぶことをすべて話してもらうというものでした。これを自由連想法といいます。
自由に連想していくことで、本人が普段意識していないこと、思いもよらないことに次第に行き当たっていきます。芋づる式に、根のほうへとたどっていくようなやり方です。しかしこれはあくまで言葉によるものであり、言葉の外側の領域を精神分析がこれまで扱ってこなかったという点に、わたしは長年疑問を抱いていました。
量子力学への関心と観測問題
1990年代後半になると、わたしの心を捉えたのは量子力学でした。なぜ量子力学に惹かれたのかといえば、それがわたしたちの知覚によって直接捉えることのできない領域を覆う物理学理論だからです。とりわけ量子力学における観測問題は重要であり、これは、わたしたちが自分の外部にあると思っている観察可能な事物が、実は観測することによってそこに立ち現れているのだ、という考え方です。
したがって、観測の仕方や観測者が異なれば、対象とされるものの立ち現れ方そのものも変わってきます。これは二十世紀初頭、ニールス・ボーアやエルヴィン・シュレディンガーといった物理学者たちによって展開された考え方です。シュレディンガーは二十世紀前半に「シュレディンガー方程式」を提唱しました。
シュレディンガー方程式とは、宇宙が波動によって構成されているということを数式化したものです。あらゆる物理現象は、このシュレディンガー方程式によって解を与えることができることがわかっています。厳密には、時間を含む形のシュレディンガー方程式と、時間を含まない形のシュレディンガー方程式とがありますが、いずれにせよ、わたしたちが何かを観測した瞬間に、その「何か」として認知できるものが立ち現れます。逆に言えば、観測されないものは波動のまま残っているのです。
波動の収斂とコラップス
先ほどホワイトボードに描いた図は、左から右へ時間が流れているとして見てください。波線で描かれた部分が波動です。波動として流れ続けている部分もあれば、途中でキュッと収斂している部分もあり、しばらくすると再び元の波動に戻っていきます。つまり、数多くの波動のなかから、わたしたちは観測することによって、ある波動をそこに収斂させるのです。これは、レンズで太陽光を集めて一点に焦点を結ばせるのと似たイメージです。
この収斂は、物理学では厳密に「コラップス(崩壊)」と呼ばれます。順調に波動として流れていたものが、その地点で崩れ、壊れます。波動が崩れたものこそが、わたしたちが「存在」と呼んでいるものにほかならない、という画期的な考え方です。これは実存主義の哲学者たちすら思いもよらなかった考え方ですが、現在では最も確からしい理論とされています。
これを観測問題といいます。有名な例として、シュレディンガーの猫という思考実験があります。一つの箱の中に猫が入っていて、毒の入った容器があります。猫がその毒を飲んでしまっているかもしれないし、飲んでいないかもしれません。つまり、箱の中を見るまでは、猫が死んでいるかどうかはわかりません。
観測するまでは、猫は死んでいるとも生きているともいえる状態のままであり、つまり波動はまだ収斂していません。箱を開けてみて初めて、猫が生きていた、あるいは死んでいたとわかります。つまりわたしたちは、観測することによってのみ、何かの実在や存在を確認しているにすぎないのです。
量子力学が精神分析にもたらす転換
こうした考え方は、さまざまな思想に大きな転換を迫るものであり、精神分析もその一つです。フロイトが行った従来の精神分析、そして日本精神分析協会や国際精神分析協会といった団体が、フロイトの遺産として引き継いでいる精神分析とは、次のようなものです。
すなわち、旧態依然とした方法――長椅子に横になってもらい、自由連想をしてもらいながら、分析家自身の心、無意識とクライアントの無意識とを対峙させ、自分の無意識のなかに浮かび上がってくる解釈が見えてきたところで、必要なタイミングでクライアントにその解釈を投げかける、という方法です。これは「解釈の投与」と呼ばれ、薬の投与と同様に、この解釈の投与によってクライアントが抱えている主症状を解決していくのが、精神分析のやり方です。
現在でも、精神分析家のほぼ99.9パーセントはこの方法を行っています。わたし自身も精神分析を行っており、平日は精神科医として、日曜日に精神分析を行っていますが、わたしはこのやり方に満足していません。そのため、量子力学の観点も取り入れた精神分析を行っています。
これは、ホワイトボードに描いた図のうち、収斂した部分だけでなく、その周囲にある、まだ収斂していない波動も捉えようとする方法です。では、そのためにどうすればよいのでしょうか。
量子もつれと転移の関係
量子力学にはもう一つ、現在では携帯電話の設計などにも欠かせない「量子もつれ(クオンタム・エンタングルメント)」という考え方があります。これは、異なるクライアントがそれぞれ固有の波動を持っているように、治療者であるわたし自身も固有の波動を持っており、これらの波動が交わり、もつれ合うことが起こる、という考え方です。
フロイトが天才だったと思うのは、おそらく彼がこの量子もつれの現象のことをÜbertragung(転移)と呼んでいたという点です。つまり、フロイトが転移と呼んでいたものこそ、量子力学における量子もつれだったのではないかということに気づいたのです。だとすれば、量子もつれが起こらなければ、フロイト流に言えば転移が起こらなければ、適切な精神分析は進んでいかないということになります。
最近、心理学の教科書を見ていたところ、心理師はクライアントと同じ条件のもとで、クライアントの信頼を得なければならない、良い関係を築かなければならない、といった How to 的な説明がなされていました。心理学の最も良くない点は、こうした How to の集積になっていることだと思います。
つまり、量子もつれが起こるか起こらないか、そのまさに一点にすべてがかかっているのです。この量子もつれ、すなわちフロイトの言う転移についても、誤って解釈されていることが非常に多いです。陽性転移、陰性転移という言葉を聞いたことがあるでしょうか。陽性も陰性もありません。転移は転移であり、量子もつれは量子もつれなのです。
わたしは、この量子もつれを引き起こすことに、精神分析の第一の主眼を置いています。ラカンもまた、この量子もつれを引き起こすタイミングについて鋭い洞察を持っていました。量子もつれを引き起こすためには、目の前にいる分析家がどんな質問にも答えてくれる、分析家はすべてを知っている、という感覚をクライアントに持ってもらうことが必要なのです。
知の蓄積とsujet supposé savoir
だから、駆け出しの分析家にはこれは難しいです。わたし自身、70歳になって初めて、その極意がようやくわかってきたという気がします。「藤田先生に聞けば何でも答えてくれる」と、皆さんは思ってくださっていますし、実際にわたしは答えます。とにかく若いころに本を読みすぎました。フランスにいたころは、本当に読みすぎて、書棚の棚板が曲がってしまうほどでした。一度数えたところ、三万冊ほどありました。
過去の人々が考え抜いてきた思想、それに小説や詩――そうしたものを読んできた蓄積があるからこそ、クライアントが聞いてくることに答えることもできますし、「あなたが思っていることは、わたしにはすでに見えている」という感覚を相手に持ってもらうことができます。この感覚こそが、量子もつれ、すなわち転移の極意なのです。
疑いを抱きながら精神分析を受けているのであれば、それはもはや精神分析とは呼べません。実際、そういう例は数多くあります。フロイトの遺産をただ引き継いでいるだけのものです。ラカンはこれを皮肉って、patrimoine(遺産)という言葉を使いました。先人の遺産をただ引き継いでいるだけなのだ、と。
そうではありません。精神分析が生じるためには、「この分析家はすべてを知っている」とクライアントが思うことが必要です。ラカンはこれをSSS、フランス語で sujet supposé savoir(知っていると想定された主体)と呼びました。sujetは主体、supposéは想定された、savoirは知っている、という意味です。分析家が「知っていると想定された主体」として機能することによって、クライアントはそのsujet supposé savoirとしての分析家のもとで自己分析を始めるのです。つまり、実際に分析しているのは分析家ではなく、クライアント自身なのです。
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