セミネール断章 2026年5月10日講義より
第5回第5講:幻想の論理 ($◇a)
わたしが注目したいのは、ラカンの「中期」なのです。この時期が非常に面白く、ラカン理論が最もダイナミックに発展した時代です。そして、この中期に登場したのが、今ホワイトボードに書かれている「幻想の式」です。フランス語で fantasme(ファンタスム)と言いますが、これこそが、ラカンが提唱した彼の理論を最もコンパクトに表現しているものなのです。人間は皆、この幻想に基づいて生存している、この幻想に基づいて生きているのだということが、ここに凝縮されて描かれています。
$◇a
主体($)と言葉の世界
まず、一番左にある大文字のSに斜線が引かれた記号$。これはもともと、斜線のない単なる大文字のSでした。これはフランス語で主体を意味する sujet の頭文字です。この sujet に斜線が引かれている($:S barré)ということは「この世から追放された」ということを意味しています。
では、ここで言う「この世」とは何か。それは「言葉で構成された、わたしたちの生きる世界」にほかなりません。わたしたちは、言葉で構成された世界から追放されてしまっている。つまり、$は言葉の世界の「なか」には存在し得ない。だからこそ、斜線が引かれているのです。
対象a(petit a)の多義性
次に、一番右側にある petit a(プチタ)。急いで発音すると「フジタ」のように聞こえますが、それはさておき(笑)、この petit a は小文字の a のことです。
ラカンはこれをわざと筆記体で書きます。なぜでしょうか? フランス語では単独の「a」という文字にいくつかの重要な意味があるからです。たとえば動詞 avoir(持つ)の三人称単数形は「a」の一文字です。フランス語を勉強したことがある方ならばお分かりでしょう。avoir の直説法現在の活用を示すと次のようになります。

つまり、彼 il や彼女 elle や非人称の on にとって「持つ」は「a」の一文字で表されます。あるいは、場所を表す前置詞の「à」もあります。これは a の上に accent grave(アクサン・グラーヴ)という左上から右下に下がる記号がつきます。このように、フランス語のなかでは単独の「a」という音が何種類も存在するため、彼は混同を避けるためにわざと筆記体で書いたのです。
ですから、この幻想の式自体は、◇ (poinçon、刻印)が、左側の「斜線を引かれた主体($)」と、右側の「小文字の a」によって挟まれている構造を持っています。
この小文字の a について、ラカンは様々な説明をしていますが、フランス語の「愛」は amour(アムール)であり、その頭文字も a です。そこで興味深いのは、フランス語の amour という響きのなかに、後ろに ir をつければ「死ぬ mourir」という意味になる mour(ムール)という音が潜んでいる点です。いわば amour-mourir(愛と死)です。つまり、amour という言葉のなかには、さりげなく「死」という言葉が音素として組み込まれている。だからこそラカンにとって小文字の a は、愛の対象であると同時に、「死」を意味するもの、あるいは「死」を意味する場所でもあるのです。
◇(ポワンソン)と象徴界
そして、これらが中央の四角形――厳密には菱形ですが――によって隔てられています。これは poinçon(ポワンソン)と呼ばれ、日本語では「刻印」などと訳されます。品質表示のために錐の持ち手などにポンと押される四角い焼印のようなものです。
この poinçon が意味するのは、わたしたちはこの poinçon の「なか」に「生かされている」のだ、ということです。つまり、両端に挟まれたこの四角い領域のなかで、わたしたちは喜怒哀楽を感じ、人生を送っているのです。
言い換えるなら、ラカンの言う「象徴的なもの」あるいは「象徴界」と呼ばれているのが、この四角(菱形)の場所なのです。フランス語では le symbolique(ル・サンボリック)と言います。フランス語を学ばれた方ならお気づきでしょうが、通常 symbolique という名詞は女性名詞(la symbolique)です。しかし、ラカンはあえてこれを男性名詞の le symbolique として使います。つまり、これは特別な言葉の領域なのです。もっと厳密に言えば、それはシニフィアン(signifiant、意味するもの)が蠢いている領域にほかなりません。
量子力学における「観測問題」との邂逅
では、その両脇とは一体何なのでしょうか。
シニフィアンが蠢いている中央の領域は、わたしたちが言葉や文字として察知できる世界です。しかし、その両脇は、通常は決して察知することができません。ここで考えなければならないこと、そしておそらく世界でわたししか指摘していないことですが、この「察知できない両脇の領域に挟まれる形で察知できる領域(言葉の世界)が存在している」という構造は、現代量子力学における「観測問題(observation)」と深く結びついているのです。
つまり、わたしたちの言葉の世界(中央)は「観測可能」ですが、その言葉の世界を両脇で操作している領域は「観測不可能」なのです。
波束の収斂と世界の出現
量子力学では、観測された瞬間に波動関数が壊れることを「波束の収斂(しゅうれん)」あるいは collapse(崩壊)と表現します。シュレディンガー方程式によれば――この方程式は時間軸の取り込み方によって二通りあり、のちにハイゼンベルクが異議を唱えた部分でもありますが――世界の本質は「波動」であり、宇宙は波でできているのです。
その波動の段階では、わたしたちは世界を察知することができません。しかし、わたしたちが観測した瞬間に波動が collapse(崩壊)し収斂します。わたしたちは、この collapse した世界を見ているのです。
今、この日仏会館の部屋にあるわたしの姿も、テーブルも、あるいは皆さんご自身の身体も含めて、すべては波動が collapse しているからこそ、物質として察知できるわけです。これを「観測問題」と呼びます。
しかし、幻想の式の両脇だけは、絶対に観測できません。つまり、そこでは「波束が収斂していない」のです。
この幻想の式を量子力学的な視点からもう一度眺めてみると、わたしたちは「両脇の収斂していない波動の領域」に囲まれながら、一時的な「観測」によって生じる世界(中央)を生きているのだ、ということになります。
死と拡散のプロセス
さらに興味深いのは、波束は収斂した後に、再び「拡散」していくという点です。
左から右へとこの式をたどってみてください。まず、収斂していない世界である「斜線を引かれた主体($)」がある。そこからヒトが言葉を覚えることによって「観測」が生じ、言葉の世界(中央)に入ると、波束が収斂します。つまり、波動が壊れた状態になる。わたしたちが「これだ」と認識できている物質や事象は、すべて「波束の残骸」なのです。
そして興味深いのは、中央の領域を通り過ぎると、その後にまた波動へと拡散していく(右側の a へと向かう)ということです。わたしたちがそれと認識している間だけ物質や世界は存在し、わたしたちが観測をやめたとき、すなわち「死んだとき」に世界は再び拡散へと向かいます。
最近の量子力学の領域では、非常に興味深い指摘をする研究者がいます。肉体が死を迎えても、その人が持っていた固有の振動(波動)は残るのだと。ですから、観測による collapse(崩壊) は死によって解除され、再び拡散へと向かいますが、固有の振動自体は残るわけです。
ここでハイゼンベルクは「では、その波束は永遠に同じ調子で続くのか」という問いを投げかけました。現在の定説では、波束はいつまでも一定の振動数を保つのではなく、時間の経過とともに徐々に「拡散」していくと考えられています。
これは、わたしたちの日常の感覚とも一致します。たとえば、身内のどなたかが亡くなったとき、しばらくの間は「まだこの部屋にいるような気がする」という気配を感じることがあります。しかし、さらに時間が経つと、もうその部屋にはいないような感覚へと変化していく。つまり、波束はいつまでも同じ調子で振動し続けるのではなく、やがて拡散し、消え去っていくのです。現在の量子力学ではそのように考えられており、ある意味でシュレディンガー方程式は少し乗り越えられたと言えます。
20世紀思想の限界
翻って、ラカン自身はこの量子力学について殆ど語ることはありませんでした。そういう意味では、ラカンの思想はすでに「古典的なもの」すなわち典型的な「20世紀思想」の枠内にある思想なのです。
残念なことに、現代の思想家のほとんどは、いまだにこの20世紀思想にこだわり続けています。この20世紀思想の限界とは何か? それは、すでに collapse(収斂)してしまった目の前の残骸を操作し、あたかもそれによって世界を説明できるかのように思い込んでいる、そういう思考停止の態度にほかならないのです。
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