セミネール断章 2026年2月15日講義より
第2回第2講:ラカンの語り口の特徴
フランスの著名な哲学者、ルネ・デカルト(René Descartes)の著作に『方法叙説』があります。フランス語の原題は”Discours de la méthode”。méthode は「方法」、discours は「叙説」を指します。日本では当初この「方法叙説」という訳で世に出されました。
今日では、このタイトルを巡って二つの日本語訳が並立しています。「方法叙説」と「方法序説」です。ここで用いられている「ディスクール」という言葉は、ジャック・ラカンもしばしば用いますが、本来的には「語り」という意味を持っています。
さて、当初の翻訳で採用された「叙説」の「叙」という字は、自らの考えを述べることを意味します。一方で、現在一般的となっている「序説」の「序」は、本論の手前で述べられる導入すなわち「順序」を指す言葉です。
わたしは、デカルトの意図に照らせば「叙説」を用いた旧来の翻訳こそが正しいと考えています。ところが、現在流通している翻訳のほとんどは「方法序説」に書き換えられてしまいました。繰り返しますが、「序」とはあくまで序盤、あるいは手前に過ぎません。しかし、デカルトは『方法序説』に続く「本説」なるものを書き残してはいないのです。
例えば、吉本隆明氏の有名な『心的現象論序説』という論考があります。これは彼が本論となる『心的現象論』を著すための準備として記したものですから、正しく「序説」なのです。しかし、デカルトの場合は異なります。Amazonなどで検索すれば「序」の字を用いた翻訳が溢れていますが、当時の翻訳者たちが言葉の意味を厳密に吟味して選んだ「叙」の重みを、現代の知識人たちは忘却してしまったのでしょうか。「どちらでもよいではないか」という声もあるでしょうが、断じてそうではありません。discours という言葉に「序説」という意味は存在しないのです。
わたしはかつて、自著においてこの構図を反転させ、『叙説の方法(Méthode du discours)』という表現を掲げました。これこそが、ラカンが重視した視点です。重要なのは「方法の叙説」ではなく、「叙説の方法」、すなわち「いかに語るか」という語り口の方法なのです。
フランス語の du は、前置詞 de と男性定冠詞 le が縮約された形です。Méthode du discours。これはわたしが1990年代の初期の著作で強調したことですが、デカルトとは全く逆の、この「叙説の方法」こそが肝要なのです。ラカンはディスクールを「主人のディスクール」「大学人のディスクール」「分析家のディスクール」「ヒステリー症者のディスクール」の四つに峻別しましたが、これらもまた語り口の区別なのです。
語り口には、いくつかの層があります。わたしが翻訳を手がけたラカンの『テレヴィジオン』は、実際にフランスで放送された番組の記録です。パリに滞在していた折、わたしはビデオテックに通い、アーカイブに残されたラカンの姿を具(つぶさ)に観察しました。ラカンの語り口は、極めて演劇的で興味深いものです。淡々と話していたかと思えば、要点に差し掛かった瞬間に突然声の調子が強まり、手を大きく振り上げる。それは聴衆を煽動し、自らへと惹きつけ、尊敬の念を向けさせるための精緻な「仕掛け」でした。その劇的な身振りは、どこかアドルフ・ヒトラーの演説をも彷彿とさせます。
ラカンの語りは、穏やかさと強調の波を巧みに繋いでいきます。『テレヴィジオン』の冒頭、彼は台に手をつき、いかにも疲れ切った風を装って間を置き、こう切り出します。 「わたしは語る(Je dis)……わたしは常に真理を語る(Je dis toujours la vérité)」。 ここで聴衆は落とし穴に嵌まるのです。「常に真理を語る」と言いながら、彼は即座に付け加えます。「だが、そのすべてではない(pas toute)」。なぜなら、すべてを語ることは、物質的に不可能(impossible)だからだ、と。
聴衆は一気にその世界へと引き込まれます。淀みながら流れる川が岩を迂回するように、ラカンの語りは始まります。そして最高潮に達したとき、彼は手を挙げ、「そこに言葉が欠けているからだ(les mots y manquent)」と叫ぶのです。言葉のなかに開いた「穴」、それこそが真理の場所であり、現実界への通路である。そう彼は説くのです。
翻訳の過程で気づいた驚くべき事実があります。冒頭の Je dis(わたしは語る)という響きのなかには、彼の娘である Judith(ジュディット)の名が密かに刻印されています。かつてジャック=アラン・ミレール氏の自宅に招かれた折、わたしは彼に「あなたの奥さんの名前が入っているのではないか」と問いました。彼は「まさか」と否定しましたが、編纂者である彼ですら、その罠に気づいていなかったのでしょう。ラカンはテクストのなかに、à la cantonade(一座に)のなかに「ラカン」という名を忍び込ませるような、アナグラムの罠を無数に仕掛けています。
我々は、活字化されたテクストという別の「検閲」の問題にも直面します。ミレール氏が編集した公刊本は、海賊版(実際の講義を忠実に記録したタイピング原稿)と比較すると、驚くほど削られ、整理されています。わたしが翻訳した『アンコール』も、海賊版を読めば思考の流れが明快に理解できるものの、公刊本では中途が抜け落ちているため、文脈を繋ぐのに多大な労力を要しました。ミレール氏による「洗練」が、逆にテクストを難解にしている側面があるのです。
晩年のソシュールが魅了されたように、言語は単線的ではなく、多重に響き合うオーケストラのような「ポリフォニー(多声性)」を備えています。一つのシニフィアンが複数の意味を奏でる「ポリセミー(多義性)」こそが、ラカンの語りの真髄です。
わたしが『テレヴィジオン』の翻訳において、肝要な箇所にフランス語の音が立ち上がるようなルビを振り、時にはルビのなかにまで太字を用いたのは、この多重性を紙面上に再現するためでした。前代未聞のこの技法は、世俗的な「翻訳大賞」などという評価軸をとうに超えています。それは、精神分析家がテクストの無意識的な構造と対峙するための、一つの「叙説の方法」そのものだったのです。
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