公開セミネール 2026 記録「セミネール断章」
ラカン理論の陥穽
2026年1月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2026年1月18日講義より

第1回第1講:なぜラカン(理論)に惹かれるのか?


 わたし自身の立ち位置はとても低いと思っています。まだまだ足りない、まだまだ至らないと思っています。だから克己するというか、自分を戒めるためにセミネールを続けているところがある。言ったことには責任を持つ。ですから反論には誠実に答えてゆきたい。

 今年のセミネールのテーマは「ラカン理論の陥穽」です。「落とし穴」ではなく「陥穽」という言葉を使った理由があるのです。それは45年ほど前に神戸大学で日本精神医学会が開催された時に、会長の今は亡き中井久夫先生が基調講演で掲げたタイトルが「精神分裂病の陥穽」でした。その基調講演の直前に中井先生がわたしのことを手招きして呼んでくれて、こっそり基調講演の原稿を見せてくれたのです。読み終わったときに中井先生から感想を訊かれました。わたしのような若輩者に内容について感想を尋ねてくるなんて、ビックリして「素晴らしいです」とお答えしたのを覚えています。それ以来、わたしの心のなかでは中井先生の思い出とともに人生の要所要所で「陥穽」という言葉が、まるで交通標識のように心のなかに立ち上がるようになりました。

 世界には無数の落とし穴が仕掛けられています。それらの落とし穴に嵌まらないように注意深く生きてゆくことが肝要です。ラカンを学び始めて気づいたこと、それはラカンがそれと知られない形で多くの落とし穴を仕掛けているのだということでした。今でも「ラカン理論は臨床に使えない」と主張する人がいます。しかし、ラカンが仕掛けている陥穽に気づくと、この主張はある意味当たっていることに気づきます。確かに、臨床には直接使えないかもしれないが、その臨床を行っているその人自身の自己分析の役に立っていたりする。こういう所がラカン理論の特徴であり、まるでシンコペーションのようにテンポをずらしながらラカン独自の陥穽が仕掛けられています。これらの落とし穴に嵌まった人たちが、ラカンの研究書を書いたり、ラカンに惹きつけられている訳です。ですから、それらの営為の殆どが、ラカンを分析家の位置に据えた自己分析の開陳になっています。

 自己分析は決して悪くはない。ラカンの思想に惹かれて、自己分析を深め、自分の心のなかのコンプレックスが解消されたら、次に、クライエントの心のなかのコンプレックスを解消する方法について思考をめぐらすわけです。そもそもそのような方法があるのだろうか、と。

 わたし自身はフランスにずっといた時に自己分析を徹底的に行ないました。その方法は以前にもお話ししことがありますが、朝起きた時にテープレコーダーに自分の見た夢を目を閉じたまま録音する。録音するだけです。そして、その日の夜にそれを再生して、大学ノートの見開きの左側にその夢の内容を書き写すのです。後日、その夢の内容を振り返ってみた時に思いついたこと、連想されたものがあれば、その右側のページに日付を添えて書き加える。それを毎日2年間続けました。そうすると、自分のなかに溜まっていたゴミのようなもの、自分が今まで突き動かされてきた欲望や欲動、纏わり付いているコンプレックスがクリアに見えてくるのです。これを2年間続けた頃、もしかしたら自分は精神分析家としてやってゆけるのかもしれない、と思いました。

 結局のところ、これもまた自己分析ですよね。自己分析までの過程は、ラカンとフロイトは徹底して役に立つ。重要なのはその先です。自分が行なった心のなかの掃除を、クライアントに対して行うとすれば、どのような方法があるのかということなのです。そこでわたしは、量子論が提示している量子もつれ Quantum Entanglement がその役割を担ってくれるのではないかと考えました。量子もつれは、ラカンが重視した言語活動とはまったく別の次元で生じます。言葉(もしくはシニフィアンの連鎖)という古典ビット classical bit と言葉ではない量子ビットquantum bit の組み合わせで、情報を波動として伝達する。ちなみに古典ビットによって量子ビットを運ぶ量子テレポーテーションと量子ビットによって古典ビットを大量に運ぶ超高密度符号化(スーパーデンス・コーディング)によって、クライエントと分析家との間で情報交換を行なう試みです。

 量子力学の基礎としての観測問題があります。シュレーディンガー方程式で示される通り、宇宙は波動で構成されており、わたしたちがそれと認識しているものは波動が崩壊(収斂) collapse した状態とされます。崩壊していない波動はそれと知ることは出来ません。つまり、目の前のクライエントは波束が崩壊した状態です。と同時に、崩壊していない波動が波動のまま併存している。

 わたしの試みは、クライエントの場所で未だ崩壊していない波動とわたしの場所で未だ崩壊していない波動を言葉によってもつれさせること、つまり量子テレポーテーションを引き起こすこと。それと並行して、言葉ではない量子ビットによって言葉いう古典ビットを大量に運ぶこと、つまりスーパーデンス・コーディングによる情報交換を試みることです。更に言うなら、クライアント(の全体)という量子状態と分析家(の全体)という量子状態を量子テレポーテーションとスーパーデンス・コーディングの二つの水準でもつれさせることによって治療効果を引き起こすこと。これが可能かどうかを日常の診療のなかで実践してゆくことです。そして、この試みが驚くべき治療効果を生んでくれることを、日常の診療のなかで日々体験しているところです。


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