セミネール断章 2025年8月3日講義より
第8回第8講:身体が創り出すホログラムとしての世界4a
「世界は観測によって立ち現れている」という認識で精神科の診療をおこなっていると、ありふれた日常の診療と異なった形でクライアントが治療者の目前に立ち現れます。そしてクライアントにとっての治療者もまた同様に立ち現れます。クライアントの眼には治療者の姿が日常とは違った風に見えてくるのです。
そこでは何が起こっているのか?古典的な精神分析の観点に立てば「転移 Übertragung」であり、量子論的には「量子もつれ quantum entanglement」と考えることができるでしょう。
フロイトが指摘した転移という現象。英語ではtransference、ドイツ語ではÜbertragung、フランス語ではtransfertと言います。よく誤解されるのは、フロイトが提唱した転移とは、しばしば感情転移と呼ばれるような感情に纏わるものではなく、もっと根本的な問題、つまり量子論的な問題、量子もつれに関わる問題なのです。治療者とクライアントの間に量子もつれが生じれば、クライアントの抱えている諸症状は軽減し、消失してゆく。そのためには、治療者自身が徹底して自己分析されている必要があります。
サリヴァンの「関与しながらの観察」という有名な言葉があります。厳しい言い方すると、症状はホログラムによって構成されているということが理解されていない。診察室には様々なクライアントが来ます。眠れない人、生きづらい人、死にたい人、消えたい人、他人を傷つけたい人、自分を傷つけたい人、幻覚が生じている人、妄想を抱いている人、様々な人格が現れる人。それらはすべて、当のクライアントが創り出しているホログラムの特性なのだということを掴んでおかなければなりません。そのために、フロイトのいう転移が必要なのです。
落語やお笑いの世界では「掴み」と表現される現象もそうです。初診時に「掴み」ができない精神科医は、上辺の関係のなかでクライアントを長年にわたって治らない治療関係のなかに引きずりこむことになります。治療は惰性的なものとなり、クライアントは辛い人生を送り続けることになる。ですから、初診時での転移が生じるために、真心を込めてクライアントに対峙するようにしなければなりません。
2、3日前に、小さな女の子とお母さんが初診で来院されました。いわゆるADHDの症状を呈している女の子でした。わたしは「この二人が今の辛さから解放されますように」と心のなかで反復しつつ、本人の話を聞きながら、その女の子が抱えている症状を言い当てるようにしてゆきます。「音が大きく聞こえるよね」「お天気の良い日は光をまぶしく感じるよね」「臭いに敏感だよね」とか「人から見られている感じするよね」とか「ものを無くしやすいよね」「部屋が散らかっているよね」「どうってことのない道で躓きそうになるよね」等々、そんな話をすると女の子は目を丸くしてニコッと笑いました。お母さんも女の子と驚いたように顔を見合わせる。その時母親とも量子もつれが生じていれば「お母さんは買い物行くと大事なものを買い忘れますよね」と付け加えます。「先生、どうしてわかるんですか?」となります。ここで最初の「掴み」が上手くいって転移が生じる。10分ほど話をして、別の用事で受付に呼ばれたので少しだけ席を外して戻ってきたら、お母さんと女の子が一緒にニコニコ笑っている。「どうしました?」と声かけたら、お母さんが「人が大嫌いな娘が、ここ大好きって言ったんですよ、先生」と。ありふれた精神科の診療ではあり得ないことです。「ここ大好き」と言ってくれたその女の子とは、以後の診療においては、その子が話したいことに耳を傾けるだけです。そして、対等な立場から雑談になる。そこではすでに転移つまり量子もつれが生じている。入室時に活発に身体を動かしていたその子が、終了時には大人しく椅子に座っている。「またね!」とお互いに手を振って、女の子はニコニコしながら診察室を出て行きました。初診の方は必ず1週間後に再診を取ることにしていますが、おそらく次に来た時にはかなり良くなっているはずです。
離島における総合診療も含めて、40年以上に渡って臨床に携わってきて思うのは、駆け出しの頃には気づかなかった大切なこと。それは真心と量子もつれなんです。漸くこの歳になって、心という空間がどのように生じて、どのように構成されていて、症状がどのように具象化するのかが分かってきました。そして、そのメカニズムを辿って、症状に対してではなく、原因に対しての治療を心がけるようになりました。
そのようななかでわたしが心を砕いてきたのが「真心」の尽くし方です。真心をもって診療にあたれば、クライアントもまた心を開いてくれます。初診時に閉じていた心が開いてくるのです。別のクライアントですが、女の子のような髪型をした8歳の男の子で、母子家庭なのですけれど、診療中にいきなり「先生、わたしのパパになって!」とニコニコしながら言ってきました。「パパになって!」という言葉の重さ、非常に重要ですよね。ラカン的な解釈をすると「わたしのファルスになって!」「わたし(の心)を支える心棒になって!」つまり「わたしの(心を支える)パパになって!」ということなのです。その裏には、自分の心を支えてくれるはずだった父親が今はいないということ、そのことに気づくのです。
狭山メンタルクリニックでは、わたしひとりで1日に60人から70人のクライアントの診療しているのですが、殆どの場合「薬は自分で勝手に減らしても良いですよ」と伝えることにしています。調子悪くなったら戻せば良い、とも付け加えます。飲む飲まないの自由をクライアントに渡すのです。
最近、自分のことをすべてAIに訊ねる天才的な男の子が通院しています。発想が奇抜で豊か、電子機器の設計とかプログラミングを考えている。その子が「わたしの診療で使っているこの薬は本当にわたしに合っていますか?」と AIに訊ねたそうです。AIの答えは「おおむねOKだけど、ひとつだけ試してみたら?」と提案してきたというのです。試しに、その通りに処方したのですが効果を感じることができなかった。わたしは「やっぱり」と思うわけです。AIには「真心」が欠如している。AIに欠けているものは「真心」なのです。確かにAIは情報収集能力や計算能力は素晴らしい。ビッグデータのなかへ様々なサプライヤーから吸い上げた膨大なデータを吸い上げているのですから。人間が習慣的にとるような行動とか、発言とか、そういうものは確かに吸い上げることができる。しかし「真心」は吸い上げることができない。だから「AIは人と同じ立ち位置に立つことができない」というのが現時点でのわたしの考え方です。
藤田博史 「セミネール断章」バックナンバーは下記のリンクから
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