セミネール断章 2025年7月13日講義より
第7回第7講:観測問題と身体のコンディションの関係ーシューマン共鳴波など
※註 文中において二つの「障がい」つまり「障碍(石のように立ちはだかるもの)」と「障害(妨げになるような悪いこと)」を使い分けていますのでご留意ください。
殆どの精神症状は前頭葉症候群です。身体の不具合が「痛い」で表現されるとすれば精神の不具合は「辛い」と表現されるでしょう。熟練した精神科医であれば、その辛さの源泉に注意を払います。自律神経症状で辛いのか、ホルモンのアンバランスで辛いのか、感情の上がり下がりで辛いのか、感情の落ち込みで辛いのかを見極める。
それらを瞬時に鑑別する。その昔、躁うつ病とうつ病は類似の疾患と考えられていました。でも今は違う。治療薬も違う。うつ状態が中心症状であっても、急にふっと感情が持ち上がってしまう。ここでの鑑別は次の5つです。①双極性1型障碍、②双極性2型障碍、③躁病、④うつ病、⑤うつ状態。ここでは、感情に波があるのかを見抜くことが重要です。例えば、極端な例でいうと「先生すごい調子いいです」と語っていた患者さんが、その後ガクンと落ちてしまう。上がっている状態がメインであれば双極1型障碍、落ちている状態がメインであれば双極2型障碍と診断します。
従来うつ病と診断されてきたクライエントをよく見ていると、僅かの期間でも躁状態を呈していることが多い。つまり、臨床的には、詳細に観察していると、感情障碍を起こしているクライエントのほぼ全員に波がある。そして、治療の第一段階はこの波を穏やかにすること、消去することになります。この段階では薬物を補助的に使用します。従来、うつ病と診断されたクライエントには「抗うつ剤」を処方します。注意しなければならないのは、双極性障碍のクライエントに抗うつ剤を多めに処方してしまうと躁状態になってしまう場合があります。これを躁転といいます。躁状態は、はた目には愉快そうに見えても、実際は本人は苦しい場合が多い。ある意味、うつより苦しい。どうしようもできない自分に翻弄されている。
だからわたしは初診のクライエントの場合、どんなに落ち込んでいるように見えても、双極性障碍の可能性がある以上、診断名には「うつ病」とは記載せずに「うつ状態」と記載します。その逆もまた然りです。躁病とは記載せずに「躁状態」と載します。実際の臨床では「躁状態」と記載することは希です。簡単にうつ病とか躁病とかは書かないですね。狭山メンタルクリニックでは、わたしひとりで月に延べ1,100人のクライエントを診ていますが、カルテの病名に「うつ病」と記載している人は殆どいません。1年間でのべ1万3000人のクライエントを診ていますが、診断名にうつ病と書いた人はおそらく10人以下です。厳密に診察をしていると、殆どの方は双極性の特徴を持っているので、カルテには「うつ状態」と記載します。この記載の根拠は「治癒する」という前提があるからです。従来の「うつ病」という診断名は、ともすれば難治性の疾患であるという刻印になっています。「あなたは治りません」「この病気と一生付き合わなければなりません」という暗い宣告になってしまいます。わたしはそのような宣告はしません。そうではなく「あなたは治ります、治るための自然治癒力をもっていますよ」と伝え、薬が治すのではなく、薬はあなたのなかにある「治る力(自然治癒力)」を引き出すために少しだけ使います。ですから治れば薬も必要なくなります」という話をします。
当院に転院される方は、これまで通院していたクリニックや病院の紹介状(診療情報提供書)を持参されるのですが、そのなかでもひどいのは診断名に「適応障害」と書いてある診断書です。裏話を言えば、「適応障害」と診断名を付けることで精神障害年金や精神障害者手帳の診断書を書かずに済むのです。つまり適応障害という診断名では審査に通らないからです。診察してみると、適応障害という診断を付けられているクライエントたちは、ADHDだったりASDだったり、双極性障碍だったりするわけです。ところが『適応障害」だと年金や手帳をもらうことが出来ないのです。そもそも適応障害って何ですか? 人間誰だって環境や職場に適応できない状態になることがありますよね。ところが、今お話ししたような理由で「適応障害」と意図的に診断名を付けている医師がいます。後は、何も考えずに「適応障害」とカルテに診断名を書く医師もいます。いずれにしても、紹介状に対して返事を書かなければならないので「ご紹介いただきありがとうございます。当院にて引き続き診療を続けさせていただきます」と書きますが、返信時の診断名に「適応障害」と書くことはありません。
精神科医の使命は、苦しんでいるクライエントを、その辛さから解放してあげて治癒を導くことです。「生きることの辛さ」から脱却して、幸せな心の状態へ導いてあげることです。辛さを消去することが出来れば、本来の幸せ感が戻ってくる。わたしが掲げている「治療の目標」は、一日の終わりに、布団に入った時に「ああ、今日は幸せな日だった」と思えるようになることです。このことをしっかり心に留めておかないと、薬を出すマシンのような、治す気のない精神科医になってしまう。そのような精神科医にかかると、治らないまま、ひどい場合は10年間も治らないで症状を抱え続けている人がいます。とても残念なことです。
そういえば昨日、「治りましたね、もう来なくても大丈夫ですよ」と伝えた方がいらっしゃいました。わたしは「卒業」と呼んでいるのですが、きのうも「卒業生」が2人いました。「先生、再発しませんか?」と訊かれたら「卒業というのは治ったという意味なので、まず再発はしません」と答えます。実際再発した人はこの5年間で数人です。
「根本から治す」ということ、の意味を知っておかなければなりません。つまり、症状に対して薬を投与するような対症療法ではなく、症状を創り出している原因を見抜いて、その原因に対して治療をおこなうことです。わたしは「量子もつれ」を使います。クライエントと治療者の両者の量子状態を繋げるのです。何か怪しいことのように聞こえるかもしれませんが、量子もつれが診療場面において効果を発揮することが、漸くこの歳になってわかってきました。
クライエントと治療者との間に量子もつれが生じるためのキーワードがあります。それは「真心(まごころ)」という言葉です。これは想像以上に重要な言葉です。ある意味、昔から言い古されている言葉ですが、治療者が「本当の真心」を持っているのか否かでクライエントの回復に大きな違いが生じてくるのです。以前『性倒錯の構造』(増補版)の最後の章で、人間の精神性の変遷について書きました。端的に言えば、道徳→倫理→献身という変遷です。そして「真心」は献身の水準において実現されるものなのです。
恐らく、殆どの人は「何だかんだ言っても、結局、人は自分のために考え、行動している」と思い込んでいることでしょう。端的に言うなら「エゴイズム」です。批判的な言い方をするなら「そのレベルに留まっている」ということです。正直、わたし自身も、高校生の頃は、何をやっても結局自分のためなんだ、と思っていました。しかしながら、その後、世界の各地、特に、砂漠やジャングルや太平洋の島々を旅してゆくにつれて、特にポリネシアの島々の生活と文化に心を揺さぶられたりしながら、人の心についての重要な事実に気づいたのでした。道徳は特定の文化圏での規律であり、倫理は特定の文化圏の枠を超えた規律であり、倫理は人 l’être としての根源的な規律であることに気づいたのです。献身のレベルに到達することができれば、容易には信じてもらえないかもしれませんが、クライエントひとりひとりの診療のなかで「真心」をもって対峙することができるようになるのです。真心を以て診療をおこなうと、量子もつれが起こるのです。にわかには信じられないかもしれませんが、クライエントが辛さから解放されて治癒するのです。「わたしのことを真剣に治してくれようとしている」ということが伝わると治る。ですからクライエントには、薬は治るための補助に過ぎないのであり、あなたのなかの自然治癒力を回復させる補助なのだ、ということを伝えます。
昨日の診療で卒業した方が2人いると言いました。1人は中年の女性で、もう1人は十代の女性。中年の女性の方は「先生のおかげです」と言ってくれましたが、わたしは「あなたは自分の力で治ったんですよ。ご自分のなかにある自然治癒力が回復したのです。わたしはそのお手伝いをしたに過ぎません」とお答えしました。真の意味で「治る」ということを真面目に通院してこられたクライエントは体験して卒業されてゆきます。「治ったように見せかける治療」ではなく「本当に治る治療」があるのだということ。そしてそこには治療者の「真心」があるのだ、ということをもう一度強調しておきたいと思います。
藤田博史 「セミネール断章」バックナンバーは下記のリンクから
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