セミネール断章 2025年5月11日講義より
第5回第5講:0ポイント理論(藤田)について
わたしが『精神病の構造』を出したのは1990年ですが、その頃は、日本的社会構造を考えるにあたって、母系社会あるいは母原病などをめぐる議論が盛んにおこなわれていました。
そして今現在、わたしが提唱したいのは「日本人の心性の特徴は自閉 autism である」ということです。ここで注意しなければならないのはautismを自閉症と訳さないことです。「ーism」とは「ー主義」という感覚に近い。ですからautosmは「自閉主義」と呼んだ方がまだ適切だと考えます。自閉を脳科学的にみるならば「前頭葉症候群」と言えるでしょう。ADHD(注意欠如多動症)やASD「自閉スペクトラム症」あるいはアスペルガー症候群、サヴァン症候群などがここに含まれます。
前頭葉症候群の特徴は前頭葉の機能不全があるということ。幼少時から前頭葉の機能にブレーキ(抑圧)がかかっているために、前頭葉による世界構築が上手くゆかず曖昧なままになっているのです。たとえば言語空間の構築において主語が抜け落ちてしまうようなことが起こってしまう。主語が省かれてしまって、正確なコミュニケーションが成立しなかったりする。これはまた、日本語の特徴でもあるのです。ここで気をつけたいのは、主語を省く日本語を話すから自閉なのではなくて、日本的な心性そのものが自閉だということ。そしてそこから様々な日本的心性の特質が明らかになるのです。例えば自閉の特徴として、他者の視線が気になる、他者の会話が気になる、集団に対して臆病になる、等が起こる。代償的に言語脳である左脳のかわりに右脳を使うようになるため非言語的な関係性に敏感になる。敏感になるが言語空間が曖昧なために「空気を読むことが苦手」になり、表面的に他者に合わせる心性が生まれる、等々。世界が曖昧にできているから、社会で行動するにはマニュアルが必要であり、そのために礼儀作法というマニュアルが重視される。新しいものを生み出すのは苦手だが、それらを改良することには熱心になる。つまりアレンジするのは得意なのだけれどもオリジナルが作れない。これも前頭葉症候群の特性と考えられます。
機会があれば「日本的心性の本質は自閉である」といった論文を書きたいくらいです。つまり「日本的なもの」の本質は前頭葉症候群として考えることができるということです。だから曖昧な世界に生きる日本人は自分の決定に対して自信がないが、誰かが提唱したことについては一生懸命研究する人が後を絶たない。つまりある斬新な考え方を提唱するのではなく、提唱された理論や考え方を身に纏うことが得意になる。例えば、哲学の世界では「誰々の専門家」「誰々をやっています」という人が山ほどいる。「誰々」には既存の哲学者の名前が入る。それに対して自らがこの「誰々」になろうとする人は少ない。なろうとしてもその自閉的は特質によってなることが難しい。その代わり、自分を支えるために特定の思想家(の研究)には夢中になれる。つまり基準になるものがあれば自閉は前に突き進むことができる。
「わたしはカントをやっています」と自認する哲学者がいるとします。カントという支えにより、自閉世界に定点(基準点)が生まれ、そこからクリエイティブな仕事ができるようになる。これは、雪の結晶が出来るためにはその核となるものが必要なのと似ています。その核になるものを取り込めば、自閉は力を獲得する。つまり、そこから雪の結晶のように思想を展開することができる。だから、日本人的な心性について語るときに「母系」という古びた発想ではなく、前頭葉の機能にブレーキがかかっているということ、それによって曖昧な世界が構築されているということに思い至らなければなりません。日本語自体が、主語をはじめとして文章の諸要素を省略できるようになっていたり、語相互の結びつきが緩いので語順をバラバラにしても伝わる。つまり要点だけの発話で会話が進んでゆくことが可能になっている。それが日本的なものの特徴を構成しているわけです。
目をヨーロッパに向けてみると、フランス語は基本的に文の諸要素は省かれずに会話が進むのに対し、イタリア語は主語を省いたりする。だからイタリア人はフランス人より自閉的と言えるかも知れません。自閉的だから第2次世界大戦では同盟を組むことができたのかも知れません。そして、自閉的な集団は、先程の雪の結晶のようにリーダーを必要とする。そこでドイツと組んだ。つまり、ドイツ、イタリア、日本という三国同盟は、ドイツという中心、つまり雪の結晶を作る核があって、そこに自閉的な国民がくっついたというのがわたしの見方です。ここで興味深いのはドイツ国民もまた自閉的でヒトラーという核の存在によって強固な国家を構築していたという事実です。
一方、日本には天皇がいる。天皇は自閉的な日本的心性を収束させるための装置として働いている。これに対し、フランスは革命によって国王を消去して核を必要としない自由・平等・博愛の心的水準を「設定」しました。わたし自身、フランスに住み始めて46年になるのでフランス人と日本人の心性の違いを日常のなかで屡々実感します。つまり、日本語が自閉的な言語であることを痛感します。自閉的言語だから内側で熟成され続けており、同音異義語が多数存在し、ひとつの物事に対して様々な言い方がある。つまり多様性に富んでいます。「やまとことば」のなかに外来語も閉じ込めておける、言ってみれば、おもちゃ箱みたいな心性になっている。
カタカナを使って外来語を自分たちの国の言葉に取り込んで使っていますが、そもそも日本古来の固有の言葉は「やまとことば」であって、そこへ漢字や他国の言葉などが入ってきて音読みとか訓読みにすることで日本語に取り込んでいる。だから現代の日本人は「やまとことば」だけで会話することが困難になっている。
日本語がおもちゃ箱のようになってしまった理由は、地政学的にもそうで、日本の国土は弓の形をしており、西の方から見てみると、インドから中国、朝鮮半島を経て日本に大陸の文化が流れ込んできたときに、日本で止まる地理的な弓形構造になっている。つまり日本の反対側は広大は太平洋なの諸思想は国内で停滞する。いわばゴミ溜めみたいなもので、入ってきたものを全部受け取って様々なものが混在する。地理的な構造を見ても、列島が手で受け取っているような弓形になっている。その結果、日本人が生き延びてゆく知恵としては、何でも取り込めるような、柔軟(受難)な時(自)空間を構築することで対処することになる。そうして出来上がった時空間こそが日本的な自閉的な曖昧な世界を構築している訳です。