セミネール断章 2025年3月9日講義より
第3回第3講:あらためて、量子もつれとは何か?
人間が人間として立ち上がっていく上で、前頭葉の前頭前皮質は非常に重要な役割を果たしています。
幼い頃、0歳から3歳ぐらいの間に、両親が不仲だったり、大声を出して言い争ったり、ひどい場合は子どもを殴ったり叩いたりした場合、さあこれから外界に関わってゆこうとする子どもの前頭前皮質 prefrontal cortex の機能にブレーキがかかる。
いわゆるADHD(注意欠如多動症)やASD(自閉スペクトラム症)と診断されている症状群には大きく二つの原因が考えられます。一つは幼少時において、乳幼児を前にして、親が大声を挙げて争ったりすることによって前頭前皮質の機能にブレーキがかかり、わたしが提唱している「前頭葉症候群」の諸症状を呈してくるというパターンが一つ。
もう一つは、もともと遺伝的に前頭前皮質の情報処理に何らかの不具合がある場合です。すなわち親にも前頭前皮質の不具合が見受けられる場合です。つまり子どもと同じように幼少時に堪えがたい経験をしてきている可能性がある。この耐えがたい経験は、遺伝子の形質発現が後天的に操作されるエピジェネティックス epigenetics を引き起こしている可能性があります。遺伝子(DNA)を取り囲んでいるタンパク質(histon)に影響を与えて(メチル化)特定の遺伝子形質の発現を抑制する。つまり生来の遺伝子に対して、遺伝子の発現形質を制御してしまう。それによって後天的に形質が遺伝していくということが起こり得る。診療の際にしばしば経験するのは、子どもを連れてきた親も、子と似たような発達特性を持っているという事実です。
前頭前皮質の話をはじめた理由は、量子もつれ quantum entanglement の話に繋がってゆくからなのです。前頭前皮質の情報処理に不具合があると、つまりその機能にブレーキがかかっていると、脳自体が創り出している投影(ホログラム)としての世界が曖昧なまま構成されてゆく。前頭葉は外界を具体的に形成してゆくコントロールセンターとも言える部位ですが、そのなかでも前頭前皮質は自らが生きてゆく具体的な世界を創り出している基本的な部位なのです。たとえば物理的な空間距離も曖昧に構成されているため、距離感が適切に掴めなくて躓き易くなったりする。
時間的な感覚も同様で、空間距離や時間感覚が曖昧なのです。たとえば道を歩いている時に、空間距離が正確に予測できていないと踏み外したり引っかかったりする。つまり前頭葉症候群の人たちは、何でもない道を歩いていて躓いてしまうという特徴がある。つまり外界の距離のみならず、身体図式的な距離もまた曖昧なのです。つまり自分の脚の長さとか、一歩踏み出す距離とか、その全体に対する自分の身体感覚および空間感覚が全体的に曖昧。だから持っているつもりで、ものを落としてしまったり、食器を洗っていて割ってしまったりする。
身体図式や空間認識が曖昧なまま構成されているということが前頭葉症候群の特徴の一つとして挙げられます。躓き易さだったり、家具に身体をぶつけてしまったりということが起こりやすい。たとえば道の段差を計測し間違えて踏み外しそうになる。ここまでお話しすると『精神の幾何学』『ファントム空間論』等の著作で高名な精神科医・安永浩先生のファントム理論を思い起こさずにはいられません。安永先生は統合失調症における空間認識がズレていることをウォーコップの理論を援用して論じておられます。現在わたしが提唱している前頭葉症候群の空間認識の様式は、安永先生のファントム空間の認識様式に通じるものがあるのです。
ファントム空間のなかでは「躓きやすい」ということが起こるのです。興味のある方はぜひ『ファントム空間論』と『精神の幾何学』を読んでいただくと良いと思います。2011年にお亡くなりになったのですが、安永先生がまだご健在の頃、わたしはフランスに住んでおり、安永先生と書簡のやり取りをしていました。当時、安永先生はラカンに大きな興味を持たれており、ラカンの精神分析に関して雑誌等に寄稿されたりしていました。そしてフランスにいたわたしのところに安永先生からいくつかの質問を交えた手紙が届いたのでした。それから手紙のやり取りが始まり、安永先生のラカンについての認識の正しい部分とそうでない部分についてやり取りしてゆくうちに、安永先生が「もうわたしはラカンについて語るのをやめます」と仰ったのです。確かに、それ以降安永先生はラカンについて言及することはありませんでした。安永先生のファントム空間論というのはイギリスの哲学者、O.S.ウォーコップという人が提唱した考え方で、AとBという二つの関係性の逆転につい指摘しているのですが、安永先生はこの思考法を統合失調症の空間認識について応用されたのでした。それから、わたしとしては大変光栄なことですが『安永浩著作集』のなかでわたしのことを取り上げておられる箇所があります。できることなら、いつか安永先生との往復書簡を出版できたらと考えています。
前頭葉症候群という考え方をすれば、様々な症状が連鎖的に生じていることがわかります。たとえば時空の認識が曖昧であるということ。ですから「空気を読む」ことが苦手になってきます。雰囲気とか空気とか、つまり時空認識が曖昧なので、雰囲気をくみ取ることが苦手になります。
言語空間についても同様のことが生じます。というのも、言葉のやり取り、相手に対して言葉を投げかけてその言葉が返ってくるというのは時空のなかで生じます。言葉のやり取りには時間軸が必要です。会話は一定の時空のなかで生じてゆきます。
言葉のやり取りは時空にまたがったものです。相手から言葉を投げかけられた時に、時空が曖昧なので、一瞬相手が何を言っているのかわからなくなるということが起こります。「何言ってるんだろう」と一瞬戸惑ってしまう。あるいはまた、時空が曖昧に構成されているので、右と左を混同したりします。たとえば右手と左手を一瞬混同することが起こったりします。
そうすると、生活空間も曖昧で、2階建ての家屋に住んでいる人が1階におりる際に踏み外して滑り落ちそうになったり、実際に滑り落ちてしまったりする。前頭葉症候群の場合、幼少時から2階建ての家に住んでいる人は、一度は階段から落ちそうになったり実際に落ちたという経験があったりします。
実際の診療のなかでは、何気なくそのような経験について訊いたりします。さらには、家のなかで家具などに身体をぶつけてしまうことがないかも伺います。知らないうちに脚にあざが出来ていたりする。ですので、わたしから「知らないうちに脚にあざができていませんか?」と訊ねると、驚いた顔で「先生、どうしてわかるんですか?」となります。これは簡単で、上半身もぶつけるのですが、衣服の関係で上半身はあざになり難い一方、脚はぶつけ易くあざになりやすいからです。
要するに、前頭症候群では時空の認識が曖昧、物理空間のみならず言語空間についても曖昧なので、曖昧な世界のなかで、曖昧に生きてゆくことになる。つまり世界の立ち現れ方がゆるいのです。そんな世界に生きているのですね。なので、何事も上手くゆかないことが多い。机の上のもの、たとえば鉛筆や消しゴムなど、を落としやすいとか、テストの時に簡単なミスをしてしまったりとか、スマホの置き場所がわからなくなったりとか、そういう世界、言ってみれば「生きづらい世界」のなかで生きていることになる。
わたしが前頭葉症候群と呼んでいる症状群を抱えている人たち、一般にADHD、ASDと診断されている人たちが、幼少時の辛い経験を経て、必然的に創らざるを得なかった曖昧空間に生きているということに思い至らなければなりません。残念ながら、この「自ら創り出した曖昧な空間に生きている」という重要な観点について触れている専門書に未だ出遭ったことがありません。
重要なのは「そもそも~」という考え方が重要です。ADHDやASDの症状を抱えて生きている人たちに対して、単に診断つけて治療するのではなく、そもそもそういう人たちは、どのような時空間に、どのような世界に生きているのかという思考を持っていることが重要です。たとえば「世界-内-存在」のような、かつて実存主義哲学が頻りに拘った思考法です。