公開セミネール 2024 記録「セミネール断章」
量子論的精神分析
Quantum Theoretical Psychoanalysis
理論と実践

2024年5月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2024年5月12日講義より

第5講:超高密度符号化による治療空間の構築


 このセミネールではありきたりのことはお話ししないことにしています。ネットで調べて簡単に出てくるようなことについてお話ししても仕方がない。そうではなく、このセミネールではこれまでにない考え方や発想についてお話ししたいのです。端的に言うなら、わたしは従来の精神医療や心理療法のあり方に満足していないのです。精神医学や心理学の歴史を振り返ってみると、症状をめぐる分類学 taxinomie であったり、マニュアルであったりする。そこで幅を利かせているのは常識に基づいた思考法です。ところが常識が常に正しいとは限らない。それを端的に指摘しているのが量子力学もしくは量子論です。常識と経験に基づいて症状を記述し分類してゆく行為(記述精神病理学)は、数理科学的に言えば、実数化つまり観察された具体的な事象のなかに対象の諸特徴を落とし込んでゆく作業です。

 例えば、20世紀に流行した現象学という哲学的思考法があります。この思考法には量子論的な視点が欠けていました。現象は波動の効果の一部なのだということに気づかなかった。わたしたちがそれと知り得ている事物は波動が収縮=崩壊 collapse した結果を見ているに過ぎないことに気づかなかった。つまり現象学は収縮せずに振動し続けている領域に無知であり続けたのです。

 この振動し続けている領域とは、シュレーディンガー方程式で言えば虚数で表現されている領域に相当します。つまり虚数領域は波動が収縮せずに振動し続けている状態を現わしています。波動が収縮していないということは、わたしたちが知覚によってそれと知ることができないということです。ところが脳は知覚器官を経由することなく収縮していない波動も受け取っているのだと考える物理学者がいます。ロジャー・ペンローズは彼の著書のなかで脳の神経細胞の内部に波動をキャッチする細胞内小器官があると述べています。微小管 microtubules がそれです。今では多くの生物学者や物理学者が量子論の観点からその機能について研究をおこなっています。この微小管において量子コンピュータ的情報処理が行われていると指摘している考察もあります(cf. « Conduction pathways in microtubules, biological quantum computation, and consciousness’ » Stuart Hameroffら)。興味深いことにこの論文では意識そのものが波動の崩壊過程 collapse process と考えられ得ることが指摘されています。

 つまり、わたしたちが得ている無数の情報は知覚を経由しないものもあるのだということを知っておかなければなりません。ところが従来の精神医学や心理学では知覚された情報を分類したり組み合わせたりして症状群に意味づけをしています。意味づけの仕方によって、たとえばアメリカの心理学者たちは、経験に基づいた独自の理屈を構築し、レクチャーを行い、受講者からお金を集めていたりする。理論ではなく、自らの経験から導かれた心理療法の手引き書を作成して学ばせ、聴講者に証書(ディプロマ)を付与する。聴講者はそれを有り難く頂く。EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)という治療法があります。眼球を左右に振らせて左右の脳を刺激してバランスを改善するのだそうです。ここでは人と人が対峙したときの様々な関係性(量子もつれ等を含む)が捨象されており、眼球の刺激効果に注目して判定し、心的外傷等に対して治療的なエビデンスがあると主張している。やはりここでも取り零しがある。知覚では察知し得ない波動を知覚ではない形で脳(細胞)が直接受け取ってるいること、知覚され得ない領域ゆえに実数化されておらず、それと知ることができないことが治療効果に影響を及ぼしていることが抜け落ちている。治療行為において重要なのは、虚数領域つまりわたしたちが知覚を介さないで脳(細胞)で直接キャッチしている振動領域(虚数領域)をいかに操作し得るのかということです。

 思えば精神分析を創始したフロイトはこの虚数領域に気づいていたような節がある。彼が「転移 Übertragung」と呼んだ現象がそれです。フロイトが転移と呼んだものはおそらくこの虚数領域が脳に直接伝わることだったのかも知れません。普通に精神分析や心理学を勉強している人は「転移には陽性転移と陰性転移がある」と学んでいます。しかしながら、実際はそんなに単純な話ではないのです。転移という現象は、治療者の脳の量子状態とクライアントの脳の量子状態が相互に情報を交換していること(量子もつれ)を示唆しています。その結果、実数化された感情が生じる。つまりネガティブな感情もポジティブな感情も生じ得る。ここでは脳が知覚を介さずに相互に情報交換していることが重要です。従来の精神医学や心理学は、感覚的に気づいていてもそれが量子もつれ quantum entanglement によって生じているとは思いませんでした。ましてや、実際にそれを臨床に応用し得るなどとは夢にも思っていなかったのです。

 二十数年前にこのセミネールを始めて以来、様相論理や量子論に基づいてわたしたちの認識や治療がどのように変化し得るのか、どのような効果を導き得るのかについてずっと考えて来ました。そして漸く、クライアントと治療者との間に量子もつれが生じ得るのだということ、あるいは既に生じていたのだ、生じているのだという考えに辿り着きました。対峙する脳の量子状態、対峙する身体の量子状態が相互に情報交換をしているのだという量子論的な立場です。

 「アリスとボブ Alice and Bob」という有名な思考実験があります。ネットで検索すると出てきます。アリスとボブとの間で情報を交換する時、アリスとボブが量子もつれを引き起こしている場合には、アリスが通常のビット(古典ビットclassical bit)つまり実数化された情報を送った時に、ボブは量子ビット quantum bit で受け取るのです。アリスが 2つの classical bits を送った時にボブが1つのquantum bit で受け取る。このような思考実験をずいぶん以前に物理学者が提唱しており、量子もつれによる量子情報理論を説明するときに用いられます。もちろん「アリスとボブ」は擬人化された比喩表現ですが、ここに目をつけた精神科医や心理学者がどれほどいたのか、ということを問題にしたいのです。



 現実には、治療関係を根底で規定しているであろう量子もつれという事象について正面から論じている精神科医や心理学者には出会えません。診療現場ではいまだに手探りの How to式の治療が行われています。経験に従って、知覚し得る、言語化し得る領域を頼りに、実数化された領域の範囲だけで治療行為を行なっている。そうではないのです。誰もが一度は経験する恋愛感情について考えてみてください。恋愛感情は実数以外の領域が作用していると感じませんか?その昔、松田聖子さんが「ビビッときた」という表現を流行らせました。言葉では表せない、実数化し得ない領域、つまり波動の虚数領域において、互いの波動がもつれ合っている。臨床においては、この虚数領域をいかに把握し、情報交換し得るかということを考えなければなりません。つまり量子ビットによる情報(交換)理論を考慮する必要があります。

 量子ビットを応用すれば、大量の古典ビットを瞬時に先方に運ぶことができます。大量の実数化された情報を運ぶことができる。それが今日のテーマである「超高密度符号化 superdens coding」という方法です。一方、わたしたちの日常言語は波動が収縮した結果としての実数領域であってすべて古典ビットで構成されています。皆さんが使っているパソコンやタブレットの内部で処理されているのは古典ビットです。興味深いのはその処理を行っている中央演算処理装置(CPU)は量子ビットを考慮して設計されています。日常のなかでわたしたちが行なっているコミュニケーションや情報交換は波動が収縮した(崩壊した)結果としての古典ビットに依存しています。これは日常生活のみならず、精神科診療においても、知らないうちに唯一の拠り所とされています。

 たとえば法律がそうです。法律は実数化(=文章化)された領域で機能しています。逆に言えば文章化されたもの以外では拘束され得ないのです。つまり法律では虚数領域が考慮されていない。これに対して道徳や倫理や献身など、法律の外部にあって人を見えない力で拘束している領域があります。つまり人は実数化され得ない領域にこそ縛られている。そしてその領域に真摯に対峙しなければならない。そこに目を付けたのがアリストテレスです。彼はその著作『ニコマコス倫理学』において、実数化され得ないものゆえに実数化し続ける試みを行なっています。アリストテレスの思考法が未だに新鮮なのはそういう量子論的な領域に踏み込んでいるからです。