公開セミネール 2024 記録「セミネール断章」
量子論的精神分析
Quantum Theoretical Psychoanalysis
理論と実践

2024年4月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2024年4月7日講義より

第4講:ホログラフィック理論と治療空間


 治療者は自らが大切なものを見落としていることに気づくことが必要です。数理科学的に言うなら、実数のみで考えない、複素平面で考えてゆくことが肝要です。例えば、頭が痛いとか、お腹が痛いとか、めまいがするとか、気持ちが沈むという訴えは、言語化(=シニフィアン化)された感覚であり、言語化されたということは、実数化されたということであり、実数領域にプロットできます。一方、言語化され得ない領域があるのです。たとえば、消えたい、死にたい、生きづらいと表現されるような感覚は、実数としての言語以外の領域を含んでおり、複素数を考慮する必要が生じます。わたしたちは、クライアントの状態を安易に実数上に落とし込まないようにしなければなりません。実数領域に落とし込むことによって症状が限定され「言語化された症状」に基づいた対処法(マニュアル)へと繋がってしまう。つまり「言語化された症状」に対応するマニュアルに従って治療を行なうことになってしまいます。

 わたしが提唱している量子論的精神分析もしくは量子論的治療が、従来の精神科の診療とまったく違うのはこの点にあります。クライアントの状態を実数領域に落とし込まないままにしておく。量子論的に言うなら、波束、波動を収縮させない形の治療をおこなう。このことが重要です。波束を収縮させる、波動を収縮させるというのは、治療者の側からクライアントに対して心的状態を評価して偏見のレッテルを貼ることになります。一例として、その「診断名」を耳にする度に疑問を感じるのが「発達障害」という診断名(=レッテル)です。発達障害というレッテルを貼る精神科医が後を絶ちません。わたしは「発達障害」という診断名は廃止すべきであると考えています。なぜなら「発達障害」というレッテルを貼られてわたしのクリニックに転院して来られる方の殆どは、脳の「個性」の持ち主であって、決して「障害者」ではないと実感するからです。

 言うまでもなく、人間の脳の特性には様々なヴァリエーションがあります。人類は他の霊長類に比べて、前頭葉、側頭葉そして後頭葉がかなり発達しています。前頭葉(の前頭前皮質)には脳機能の微調整を行なうコントロールセンターのような役割がありますが、この機能に注目するならば、人それぞれの判断様式の違いは前頭葉の機能のヴァリエーションとして考えられます。「発達障害」という障害者としてのレッテルを貼られている人たちは、前頭葉の機能の仕方が、「一般常識」を信じて生きている人とは異なっています。前頭葉の機能は、規則を守ったり、法則化したり、順番をつけたり、空間を計測したり、といった知覚や経験を「実数化する」ところにあります。前頭葉は収縮していない波動を収縮させて実数化する装置と考えることができます。

 「発達障害」と診断された人たち、つまりADHD(注意欠陥多動障害)とかASD(自閉スペクトラム症)といったレッテルを貼られてしまった人たちは、良い意味でも悪い意味でも、前頭葉の機能が「緩め」であるように見えます。「障害」なのではなく「緩め」なのです。前頭葉の機能が緩いということは、知覚や感覚や経験を実数化せずに捉えているということです。実数領域に落とし込むことがない、つまり波動のまま収縮させることがない能力を持っています。一方、常識的な日常生活では、前頭葉を使って様々な体験を実数に落とし込まないと生きてゆけません。社会の規範に従ったり、学校の校則を守ったり、実数領域に落とし込んで生活の基準を認識しているわけです。ところが精神現象においては、実数に落とし込めない領域こそが重要になってきます。そうすると、前頭葉の機能が緩めというのは、きっちり実数に落とし込むことなく生きているということになる。つまり波動を波動のままで捉えている。ですから実数で構成されているわたしたちの日常世界では、実数化し得ていない分だけ生きづらさを感じ続けてしまう。

 例えば、皆さんは右手や左手がどちらの手であるかは常識であると思っていますよね。ところが、波動を収縮させないまま生きている人では、時々右左がわからなくなります。右手だとわかるのはそれを実数化しているからです。ですから実数化していなければ混乱する。つまり実数化(=意味づけ)の手前の段階にいるわけです。クライアントはそういう状態で診察室に入ってきます。ですから治療者は、クライアントの訴えに対峙したときに、自分の流儀に従って諸症状を実数化してしまうことのないよう、注意していなければなりません。

 治療者は、波動を収縮させたり症状を実数化したりしないように心がけなければなりません。量子論における「収縮」は「collapse」つまり「崩壊」です。つまりクライアントが何ものでもない状態で診察室に入ってきて、そこでクライアントを診断したり、病名を決めつけたり、処方を決定したりした瞬間に「崩壊 collapse」が起こるわけです。崩壊を起こすことでクライアントを実数のみでできた世界に落とし込もうとしているわけです。実数の世界にクライアントをうまく引きずり込むことで、見かけ上の現状維持や寛解や治癒を捏造しています。

 考えてみれば、現行の精神医療や精神分析はいまだ実数領域での操作に留まり続けています。残念ながらジャック・ラカンの理論も実数化の領域に留まっています。晩年にはトポロジーによって心的な領域の関係性を語るようになっていましたが、心的な領域をトポロジーに落とし込んで時間概念をも含めて思索を進めて行く途中で1981年に他界してしまった。例えば、ジェイムズ・ジョイスというアイルランドの有名な作家で『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』などの非常に素晴らしい、ある意味支離滅裂な感じの作品を書いた人がいます。ラカンはこのジェイムズ・ジョイスの作品を読解するにあたって、自身が展開させてきたトポロジー(補填 suppléance、補綴 protèse等を含む)のなかに落とし込むことを試みました。つまりジョイスのエゴ(ego de Joyce)を現実界、想像界、象徴界という3つの輪の交叉エラーを修復するための「補綴」として説明しました。

 一方、補填は、まさにそれがなければ心的世界が崩壊するような位相にあります。補填には象徴的、想像的、現実的補填があります。ラカンはトポロジーに拘り続け、量子論、シュレーディンガー方程式、複素平面をその射程に入れることはありませんでした。ただし、ラカンが100歳ぐらいまで生きていたら違っていたかも知れません。いずれにしても物理学の最先端領域と数学の最先端領域つまり数理科学的思考を進めてゆくことこそ、わたしたちの知をさらにその先に運んでくれるのであり、この数理科学的思考法をわたしたちの診療のなかに導入することによって、クライアントとのリアルな情報交換が可能になると考えています。

 症状を実数化してクライアントを誤解し続ける。これが常識のなかで診療を続けている治療者の姿です。誤解を恐れずにいうなら、巧みにクライアントの「(量子)状態」を「観測し」実数化してきた治療者の例として中井久夫氏や神田橋條治氏の名を挙げることができるでしょう。中井久夫氏はわたしが最も尊敬する精神科医のひとりですが、その語り口や理論構成は実数領域に落とし込むタイプの治療者だったと言わざるを得ません。こんなことを言ってしまうと中井先生を信奉されている方々からお𠮟りを受けてしまうでしょう。「いやいや、中井先生は決めつけてなんかいないよ」「あるがままの状態でクライアントを診ていますよ」と反論されると思います。しかしながら、これは保留にしていたのであって実数化であることに変わりはありません。「保留」と「波動を収縮させない」というのは別の問題なのです。保留というのは「いずれ収縮するよ」「収縮するまで待つよ」という姿勢であって、量子論ではコペンハーゲン解釈 Copenhagen interpretation と呼ばれ「波動は観測によって自然に収縮する」という考え方です。

 確かに、多くの物理学者は「波動は観測によって自然に収縮する」というコペンハーゲン解釈の立場をとっています。わたし自身はこのセミネールを20年ほど続けていますが、10年ほど前からエヴェレット解釈 Everett interpretation つまり多世界解釈こそが精神科診療のみならず日常生活においても重要であると言い続けてきました。つまりあえて波動を収縮させない、あえて実数領域に落とし込まないことによって治療へと繋げてゆくこと。そういうことを考えると思い浮かぶのがビートルズの『Let It Be』です。量子論的に解釈するなら「波動を収縮させないでおこうよ」ということです。ここで「波束 wave packet」と「波動 wave」の違いについて少し触れておきます。波束は、無数の波動のなかの一部を指す用語です。たとえば網膜に入ってくる特定の光は波束です。あらゆる波動が入ってくるのではなく、瞳孔、水晶体、硝子体を通って網膜に到達する。無数の波動のうちの一部が波束です。

 このように考えてくると、わたしたちは様々なことを実数化しなければ生き延びてゆけないような世界のなかに生かされていることに気づきます。上手に実数化できる人たちが頭が良いと言われ、学校の成績が良かったり、親の言うことをよく守ったり、社会のなかで優等生だと言われたりする。この実数こそが社会を規定している「法 law(英)、loi(仏)」を構成している訳です。法を遵守できる人、禁止されていることをやらない人、こういう人たちは、世界を上手に実数化できています。つまり前頭葉が多世界を収縮させて単一の世界へと実数化する術を身につけている人たちということになります。