公開セミネール 2024 記録「セミネール断章」
量子論的精神分析
Quantum Theoretical Psychoanalysis
理論と実践

2024年3月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2024年3月10日講義より

第3講:量子論的観測問題と脳科学


 20世紀初頭に、言葉が差異の連続であり二つの恣意性で構成されていることをソシュールが明確に指摘したことに端を発して、20世紀の哲学、人類学、社会学など、様々な分野で思考様式の革命が起こりました。つまり構造主義 structuralisme の台頭です。この構造主義の思考法に基づいてフロイトの精神分析を再構築したのがフランスの精神分析医ジャック・ラカンです。ジャック・ラカンは遅咲きの人で、50代になって精神分析のセミネールを始めました。1953年から27年間に渡って画期的なフロイトの読み直しおよび独自の分析理論を展開しました。この期間を前期/中期/後期で分けてみると、後期のセミネールからラカンのオリジナリティーが如実に出てきます。特に結び目のトポロジー(位相幾何学)によって、精神分析の仮説を構成する3つの領域(現実界、想像界、象徴界)相互の位相関係によって症候論を展開しました。

 わたしがこのセミネールで試みているのは、フロイト/ラカンの精神分析そのものが依拠する古典的思考法を覆す量子論的視点から精神分析、精神療法を再構築することです。量子力学 quantum dynamics もしくは量子論 quantum theory が発見した法則によって「精神」に関する古典的な常識を覆して新たな治療論へと発展させてゆくことです。すでにご存じの方も多いと思いますが、量子論はわたしたちの常識を根底から覆す様々な理論で構成されています。たとえば量子力学における観測問題 measurement problem があります。わたしたちがそこに何かがあると認識したとき、わたしたちは何かを観測している。ここで常識と異なるのは何かがあってそれを観測するという図式ではなく、観測することによって何かがある、と考える点です。つまり宇宙は収縮することのない波動関数で構成されており(シュレーディンガー方程式)、観測者が観測することによって波動関数が収縮すると考えるのです。興味深いのはこの収縮と訳されている原語は collapse(崩壊) です。厳密には一義的に収縮するとする立場をコペンハーゲン解釈といいます。一方、一義的に収縮することなく多世界のまま存続すると考えるのがエヴェレット解釈です。この2つの解釈が量子論的精神分析にとってきわめて重要です。何かがある、というのは観測している観測者がいるからであり、観測されていなければ何かがあるとはいえないのです。つまり可能性はあるが、それが固定されたものとしてあるとは必ずしも言えないということが量子力学でわかってきました。むしろ宇宙は無数の波動で構成されており、その無数の波動の一部(=波束)を観測者が観測した途端に波束が収縮すると考えるのです。量子力学における観測問題です。単純化して言うなら、世界は斯く斯く然々であると決めることができるのは、無限の可能性から何かひとつのものとして波束を収縮させているからなのです。

 物理世界全体が波動で構成されていると指摘したのがオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガー Erwin Schrödinger です。彼はこれを波動方程式(シュレーディンガー方程式)で表現しました。つまり、世界は無数の波動で構成されているという理論です。つまりわたしたちが日常のなかで素朴に「ある」と認識している物事も実は元々一義的に決まっていたわけではなく、観測することで一義的なものと認識しているのです。とはいうものの、常識のなかに生きているわたしたちは、事物はわたしたちの外部に、客観的に、既に存在していると思い込んでいます。でもそうではないのです。

 たとえば見えるものの領野がどのようなプロセスで立ち現れているのか考えてみましょう。何らかの波動が直径数ミリの虹彩と水晶体を通り抜けることで選別され、網膜に到達し、無数の視細胞が分布する網膜上で平面画像が作られ、その平面画像を構成する電気信号(=平面情報)が視神経を介して脳に伝わり、脳で平面情報を再構成して立体的世界(=ホログラム)を創り出している。ですから波動の一部を取り込んでそれがあたかも全体像であるかのように認識している。現象学者が陥った誤謬のように、目の前にあるものはわたしに対峙する現象なのだと。ところが実際はそうではありません。たとえば、このホワイトボードに書いた「Erwin Schrödinger」という文字は、会議室のどこに座っていても見えますよね。正面からも、側面からも見えますよね。ということは、ここに書かれている文字に反射した光は四方八方に散乱しているのです。あなた一人に向かって飛んでいるわけではないのです。話を広げるなら、この会議室の無数の点から反射している光は会議室中に散乱している。つまり皆さんは「光の洪水」のなかにいるのです。その散乱している光のごく一部を、瞳孔を収縮させ、水晶体を通過させ、網膜上に特定の像を作って脳へ運んでいる。脳に運ばれた段階では平面(2次元)情報ですよね、なぜなら網膜上に投影された平面図ですから。その2次元情報が脳に運ばれ、情報が多次元化される。そしてそれが視覚領域のみではなく、すべての知覚領域で生じる。つまり空間、時間、質(色など)が脳の情報処理システムによってホログラムとして創り出される。

 純粋な物理世界には色も匂いも音もなく、振動のみで構成されている量的世界なのですが、その振動をわたしたちは知覚器官で電気信号に変換して脳に運び、脳は経験をもとに無数の情報を再構成し、ホログラムとして外部に投影しているわけです。ですから、皆さん方が認識している世界とは、客観的世界などではなく、皆さん方ひとりひとりが脳のなかで知覚情報を処理して創り出している立体映像(ホログラム)なのです。つまりわたしたちが客観的な実在だと信じているこの世界や身体はすべてホログラムなのです。この思考は宇宙に関しても有効であり、宇宙全体がホログラムなのだと考えるのがホログラフィック宇宙論です。宇宙は何か実体が、奥行きのある実体がずっと広がっているのではなく平面情報が多次元化したホログラムであるという考え方です。そうすると幼い頃に抱いた「宇宙に果てがあるのか」という疑問に対する答えは「本当は宇宙に奥行きが想定できるような実体はない」となります。

 シュレーディンガー方程式によって記述される物理世界は、わたしたちが「住まう」物理世界は、未決定な形で振動しているにもかかわらず、観測されることによって一義的に決まるということが起こる。これは理解しづらいかもしれません。シュレーディンガー方程式の解釈には二通りあります。ひとつはコペンハーゲン解釈 Copenhagen Interpretation です。この命名はデンマークの首都に量子論の育ての親とされるニールス・ボーアの研究所があることに由来しています。シュレーディンガーの方程式で規定される波動関数が通常収縮するという考え方です。波動関数は虚数を含む可能性としての複素関数ですのでわたしたちの知覚が直接それと知ることはできません。複素関数には虚数(i)が含まれているので計測器等では観測できないのです。わたしたちが観測できるようにするためには実数の領域に落とし込まなければなりません。一点に収縮する必要がある。これを収縮=崩壊 collapse といいます。宇宙の自然なあり方というのは収縮せず無数の波動でできているのですが、その無数の波動が観測されることによって収縮し一義的に決まるのだというのです。つまり実数となり実際に認識可能になる。わたしたちはこのような実数の世界に生きている。つまり無数の可能性のなかで特定の波束を収縮させて世界を創り出し、そのなかで生きているわけです。更に話を進めると、この収縮が自動的に起こると考える物理学者と、観測しなければ起こらないと考える学者がいます。いずれにしても世界が一義的に決まらないとわたしたちは生きてゆけない。ある人物が会うたびに違う人であるような世界では生きてゆけない。実はとある精神病ではこのような事態が実際に起こります(カプグラ症候群やフレゴリの錯覚)。いずれにしても世界は一義的に決まるようになっている。これがコペンハーゲン解釈です。

 これに異議を唱えた物理学者がいます。天才的な物理学者ヒュー・エヴェレットです。大学院生の時に異なる解釈を提唱しました。つまり波動関数は収縮しないのだと。波動はいつまでも収縮しないままなのだと主張したのです。様々な波動の群れ(波束)が、それぞれの世界を構成している。世界A、世界B、世界C、等々。つまり多世界解釈です。シュレーディンガー方程式に従えば、あらゆる物理世界は波動にすぎない。波動にすぎないものを、ヒトはそれを知覚で波動の一部を取り込んで収縮させ、実数化して一義的に世界を現出させている。幸いわたしたちの脳は同じような構造をしているので、同じような形で収束させているだろうから、同じ世界を創り出しているに違いない、という幻想を抱いている。つまり共同幻想のなかで生きている。しかしながら、あなたが見ている赤は、別の人の見ている青かもしれない。答え合わせは原理的に不可能です。わたしたちは知覚で構成された世界のなかに閉じ込められ続けており、各々の仕方で波動を収縮させて各々の世界を創り出している。収縮は波束の崩壊であり、自由な波動の世界が「崩壊して」一義的な世界へと「崩落して」いる。自由に振動しているのが自然状態であるのに、観測によってこの自由が崩壊すると考えるわけです。だから誤解を恐れずにいうなら、わたしたちが斯く斯く然々と信じている宇宙は壊れた残骸を見ているわけです。エヴェレットは、わたしたちの住まう世界は様々な可能性のうちのひとつに過ぎないのだよ(多世界解釈)、ということを言いたかったのかも知れません。

 わたしが提唱している量子論的精神分析は、このエヴェレットの立場に立って考えてゆこうということなのです。つまり精神現象は一時的に決まるものではないということを銘記しておくこと。とすると、興味深いのは従来の精神分析家や精神科医がコペンハーゲン解釈の側に立っていることが見えてきます。つまり自由な波動が壊れて一義的に収縮した残骸を実在であるかのように見ている。わたしたちの常識もまたこれに支えられています。つまり「外部」なるものを実体化し、これが当たり前の世界だと思い込んでいる。ところがそうではない。なぜならば質と呼ばれる属性、つまり音色、色彩、臭い、味、等々、は脳が創り出しているのであり、振動のみで構成される物理世界には質なるものはありません。物理的な宇宙は静寂です。振動を音色という質に変換しているのは聴覚の仕業です。鼓膜が振動し、耳小骨を介して蝸牛に伝わり、電気信号に変換されて脳に運ばれ、音色という質(=幻)を創り出している。つまり音色もホログラムの一部です。色彩もそうです。そして従来精神分析が依って立つのがこの質の領域なのです。残念ながらラカンもフロイトもそこに留まっている。そうではなく、エヴェレットが主張するように、世界は多世界であり、各々の人が各々の多世界を創り出している。そして各々の人が各々の症状(症候)を創り出して生きている。そういう立場に立ち返って思考を継続してゆくことが重要です。

 「interpretation」という用語は様々な局面で使われており、それに応じて日本語では使い分けられています。たとえば楽譜を見て演奏家が演奏する。「演奏」は英語ではinterpretation です。つまり作曲家が譜面にしたものを「実現させて見せる」のです。interpretationという用語は非常に重要です。だからエヴェレットが提唱した解釈が臨床の場面でも重要になってくる。つまり目の前のクライアントは独自の世界を創り出しているのだと考える必要がある。ところが一般的な精神分析家はその症状を実体化されたシニフィアンと捉えて、実体の連鎖のなかに症状の原因を探ってゆく。つまり実数化されたものを頼りに分析治療を進めてゆく。ここで重要なのは実数化されていない虚数で構成されている領域です。つまり実数化されている症状のみならずそうでない症状(虚数部分)も含めて考えてゆかなければなりません。端的に表現するなら、クライアントの症状は「複素関数」なのだということです。クライアントの症状のある部分は収縮して実数化されていると同時に、ある部分は収縮せずに複素数のままで持続している。この複素関数としてのクライアントの症状を情報として取り込むには特殊な技法が必要です。そして、その技法こそが「量子もつれ」による情報交換なのです。

 通常の精神分析はコペンハーゲン解釈の領域つまり症状は収縮した実数と捉える領域に留まっていますが、量子論的精神分析はエヴェレット解釈の領域、つまり収縮しない多世界の領域も含める複素関数の領域で分析を実践するのです。重要なのはコペンハーゲン解釈的分析では観測者がクライアントを観測して実数化するのに対して、エヴェレット解釈的分析では分析家(観測者)も含む全体的かつ非決定な領域を含む複素関数的世界のなかで分析が進むということです。量子状態に注目して言えば、コペンハーゲン解釈的分析ではクライアントの量子状態は観測者(分析家)の外部にあると措定しますが、エヴェレット解釈的分析になると観測者(分析家)も含めた形での世界について考えるのです。この立場に立つからこそ、クライアントに対峙した分析家(治療者)は、未決定な波動のなかに生じる量子もつれ quantum entannglement によって、複素関数的症状の情報を交換して治療(治癒)へと向かうことが可能になると考えるのです。そしてこれが量子論的精神分析を提唱するにあたって、わたしが提唱している科学的仮説になります。