公開セミネール 2024 記録「セミネール断章」
量子論的精神分析
Quantum Theoretical Psychoanalysis
理論と実践

2024年1月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2024年1月14日講義より

第1講:量子論的精神分析とは?

 
 毎年1月からテーマが変わるのですけども、以前、3~4年前かな、やはり似たようなテーマでお話したんですが、量子論的精神分析というのをずいぶん以前から提唱していまして、これは単に量子力学と精神分析を結びつけるというような話ではないんです。どういうことかというと、わたし自身、精神分析のクライアントを取り始めて20年以上経つわけですが、常に何か足りない、何か違う、という感覚がずっと続いていました。違和感というか、何か違うぞ、という感覚です。もしかしたら、世界中で精神分析をやっている方も同じ感覚を持っているのかも知れません。

 ご存じのように19世紀の末から20世紀の前半にかけて、フロイトが精神分析という思考法を提唱し、それに賛同した人たちが彼に追随し、あるいはその考えを修正したり、ということが起こりました。精神分析は、様々な分野に影響を及ぼしました。芸術の分野でシュルレアリスム運動が起こったことは皆さんご存じのことと思います。つまり人間の意識は心の活動のほんの一部であって、意識していない部分こそが、人間を根本的に支配していることが明らかにされた訳です。

 ラカンはフロイトの精神分析を熟読したんだと思います。というのもラカンには沈黙の期間があるんですよね。ラカンは1901年生まれで「エクリ」を出版したのが1966年ですから、すでに65歳でした。それ以前の1932年に『人格との関係からみたパラノイア性精神病』を出版していますが、セミネールを始めたのが1953年ですから、かなりの期間が空いています。つまり沈黙の期間がありました。おそらくその沈黙の期間にフロイトを読み込んでいったと思われます。当時は思想界に構造主義(structuralisme)の大きな潮流がありました。構造主義は20世紀初頭に言語学者フェルディナン・ド・ソシュールがその講義のなかで示した画期的な発想に基づいた思想です。彼は数名のゼミ生を相手に講義を行い、優秀な学生たちはノートを持ち寄って『一般言語学講義』を著したのでした。そしてこの著作が20世紀の思想に大きな影響を与えることになりました。簡単に言えば、ソシュール以前の言語は名称の集合でありコミュニケーションの道具と考えられていました(言語名称目録観)。ソシュールはその考えを覆しました。つまり、言語は道具ではなく人間の思考そのものであることを明らかにしたのです。

 道具だと思われてきた言語が、実は人間の認識そのものを規定しているということ。言葉は記号(signe)であり、言語は記号の集合体である。そしてソシュールは記号が2つの要素で構成されていることを指摘しました。つまり物理的な音の部分とその音が指示している意味の部分の2つです。そして前者を能記(signifiant)、後者を所記(signifié)と呼びました。この2つが対になったものが記号であることを明らかにしました。しかもこの対の結びつきは必然的なものではなく恣意的(arbitraire)なものであることを指摘しました。

 そして更に、記号相互の結びつき、記号の切り取られ方も恣意的であることを指摘しました。例えば、わたしたちは虹は7色であると思い込んでいますが、国によっては5色だったり3色だったりします。また、フランス語と英語と比べてみると、フランス語では生きている羊も食べる羊の肉も区別せずにmoutonと表現しますが、英語では生きている羊はsheep、羊の肉はmuttonと区別します。つまり記号の切り方が恣意的、つまり世界の切り分け方(分節)が恣意的なんですね。ソシュールは、言語がこの記号内部と記号相互の2つの恣意性によって構成されているということを示したわけです。そして更に、記号相互の関係は実態ではなく差異(différence)によって決定される、つまり言葉の体系は差異 différence の体系であることを明らかにしました。つまり2つの記号があるのではなく、記号相互の境目が記号を規定しているということを指摘したのです。つまり言語の体系は差異の体系なのです。

 ラカンはこの構造主義の観点からフロイトを徹底的に読み直したと考えられます。そして精神分析は徹頭徹尾ソシュールが指摘したのと同じく言語の差異の体系のなかで推移すると考えたのです。つまり構造主義的な観点に基づいた精神分析の再構築です。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という陳述も言葉であり「言葉を捨て去ろう」という発言も言葉、つまり言葉なしでは成立しない。言葉から逃れようのない形でわたしたちは既に言葉に絡め取られている。グレゴリー・ベイトソンという人類学者がいます。彼はフィールド・ワークに長けていて、イルカの生態研究などをおこないスキゾフレニアの発症に関する二重拘束理論(double bind theory)を提唱しました。確か彼が言ったと思うのですが、言葉は手についたハチミツのようだ、というのです。拭い去ろうとしてもその手にまとわりつくだけだと。言葉とはそういうものだと。

 ラカンによるフロイトの読み直し。フロイトが提唱した精神分析を構造主義的な観点から見直す作業です。わたしはラカンの仕事を大きく前期/中期/後期と分けて考えているのですが、中期の終わりぐらいまではフロイトの精神分析の構造主義的な敷衍(パラフレーズ)で、後期にはラカン独自の位相幾何学(トポロジー)を中心とした分析理論の数学化(mathématisation)の観点からセミネールを行うようになります。後期の頭に相当する第20回セミネール『アンコール』(1972-73)では、数学的な思考法に基づいて「性別の論理式」を提唱したりしています。

 わたし自身、20代後半から30代前半に掛けてラカンのセミネール記録の読解に心を砕いていた時期がありました。出版されているもの以外に、いわゆる海賊版のセミネールの記録をパリまで買い出しに行ったりしていました。海賊版というのは、出版権を持つスイユ社以外に、会場にタイプライターを持ち込んで打ち込まれた原稿が製本されてパリのいくつかの書店で販売されていました。わたしは専ら「リプシー(Lipsy)という書店で海賊版や海賊版のテープを購入したのを懐かしく想い出します。

 海賊版のセミネールにはいろんな版があります。わたしがが翻訳した『アンコール』は、ラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールが編纂してスイユ社(Edition du Seuil)から出版されているものです。これが「正規版」とされているのですが、海賊版と比べるとかなり異なった部分があります。正規版とは言え、意図的に省略されていたり、取りこぼしの部分があったりするので、むしろ海賊版の方が語られたことに忠実だったりします。ですので海賊版の方がかなり分厚いのです。翻訳にあたっては、もちろん海賊版にも目を通していますし、海賊版を読んでいないとスイユ版のみでは理解に苦しむ箇所も多々あります。ここにスイユ版に沿って翻訳せざるを得ない辛さがありました。

 世間ではラカンの精神分析に依拠して精神分析を行なっている人たちを「ラカン派」と呼んだりしますが、ラカン自身は「わたしはフロイト派です」と断言し「フロイトに還れ」と主張しました。元はフロイトなんです。ラカンが登場して、フロイトの精神分析は構造主義的観点からリファインされ、精神分析は徹頭徹尾言葉に依拠している、という立場から語られてきました。言葉という象徴的なもの=象徴界(le symbolique)以外に、想像的なもの、身体的なものなど、言葉以外の領域を仮説として措定して分析的考察のなかに導入しました。それが想像界(l’imaginaire)であり現実界(le réel)であるわけです。ラカンは感情的なものは想像界に措定して、言葉でも感情でもない身体そのものの領域、物そのものの領域を現実界と措定しました。そしてこれらは実態ではなくあくまでも科学的に心的な領域を解明するための仮説(hypothesis)であることを忘れてはなりません。とりあえず象徴界、想像界、現実界と暫定的に翻訳されていますが、わたしはいつも違和感を感じています。適切な訳語である気がしないのです。わたし自身が『精神病の構造』(1990年)で書いたように、真言宗では胎蔵界、金剛界という用語があるので、現実界、想像界、象徴界という訳語は仏教的ニュアンスが付いて回ります。

 世界におけるラカン派分析家の分布を眺めてみますと、フランス以外には南米に多くのラカン派の分析家がいるようです。ラカンがベネズエラの首都カラカスで行った講演の影響もかなりあると思います。ラカンの提唱したフロイトの読み直し、パラフレーズはフランス、南米のみならず、世界中の思想家たちに大きな影響を与えました。わたし自身も40年ほど前からラカンが残したセミネールの記録、パリフロイト派の出版物、その他関連書籍などにしつこく目を通してきていますが、一方で何か納得できない部分がずっとありました。これは何かというと、患者を実際に治療しているとすんなりゆく場合とそうでない場合があるのです。これは何なんだろう、とずっと気になっていました。

 そのことを明らかにする一例として渡り鳥の群れが上げられます。群れがひとかたまりになって季節に応じて南北に移動してゆきますが、一羽一羽の鳥の集まりというより、まず全体として塊がひとつの生き物のように運動しているように見える。わたしはスキューバダイビングのライセンスを持っていますので、小笠原諸島の近海で美しい海に潜ると大小の魚の群れに出遇います。そして渡り鳥の時と同じように群れがひとつの生き物のように見えるのです。あるいはバッタなどの昆虫が異常発生した時など、ニュースを見ると空を飛んでいる昆虫の群れが、あたかもひとつの巨大な生き物のように見える。これらの実態はまだ科学で完全に解明されていません。科学的に解明されていないと言えば、例えば人間でも、虫の知らせとか、初対面で相手に対する好き嫌いの感情が湧いたりとか、フロイトが少し触れてはいますが、まだまだ解明されていない領域です。

 思えば、鰻がマリアナ海溝近海の特定の海域で生まれて親が住んでいた川に上ってくる。産卵期になると生まれた海域に戻ってきて産卵する。これも科学では解明できていない。ここでわたしが考えているのが量子もつれ(quantum entanglement)という現象です。この量子力学の思考法から再検討してみれば、鰻も鰻の逆パターンである鮭の生態も説明可能になるかも知れません。もしかしたらこの先に量子力学を超える思考法が生まれてくるかも知れませんが、量子もつれを前提に考えてゆくことで、臨床の現場でも、言語外の情報交換が生じていることに気づき、治療技法へと繋げてゆける。これがわたしの提唱する量子論的精神分析の基本的な考え方なのです。