公開セミネール 2020/2023 記録「セミネール断章」
意識・夢・幻覚のホログラフィック理論
Holographic Theory of Consciousness, Dreams and Hallucinations
オールフラットから多次元宇宙へ

2023年8月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2023年8月13日講義より

第8講:フーリエ変換とオールフラット理論



 わたしたちが知覚し得るもの、収集し得るもの、そのような情報は恐らく極々限られたものしかありません。わたしたちは、それらの極々限られた情報によって、世界全体とか、宇宙全体があたかもそこにあるかの如く創り出している。このことに気づいていないと、知覚の呪縛とでも言うか、知覚で得られたものだけを頼りに世界を描き出そうとしても、把握しようとしても、それは極々限られた部分的なものに過ぎないということを知っておく必要があります。つまり知は常に「部分知」に過ぎないのです。知覚を経由している以上、わたしたちの知は「全体知」ではあり得ないのです。その一方で、全体知を得たいという根源的な欲望があるわけです。その欲望が創り出したのが「神」という「システム」という訳です。この神というシステムは、人間の知を超えた「万能知」とか「全体知」を想定して措定されたものです。

 ですから、全体知を得るためには「万能の神」を想定しなければならなくなり、そこに宗教が生まれる。これに対して、わたしたちは、極めて限定的な知覚情報によって脳が「世界」や「宇宙」を描き出しているということを知っておく必要があります。さもないと、わたしたちの知が万能であるかのように錯覚してしまうでしょう。

 わたしたちの知覚を免れている情報は無数にあります。例えば電磁波や可視光線の外側の光や可聴域外の音などは知覚できません。厳密にいえば、もしかしたら身体は感じているのかも知れませんが意識に上ってこないですね。可聴域外の振動、例えば1Hzや100kHzやなどは聞こえないわけで、聞こえている範囲は限定的。光も同様です。赤外線や紫外線を網膜は感知できません。言うまでもなく、わたしたちの知覚器官は、外界からの刺激を神経伝達という電気信号に置き換えて脳に運び、脳はそれらの電気信号を演算処理して空間、時間、質を創造している。このことに気づいていないと、知覚で再構成された世界を自明なものとして展開される思索は、いろんな落とし穴に嵌まってしまう。そうではなくて、わたしたちの目の前に展開する世界は、知覚情報という2次元情報によって構成された「平面情報」に過ぎない、ということを知っておくこと。これが、ずいぶん以前からお話している「オールフラット理論」の基本になります。

 誤解を恐れずにいうと、わたしたちが「このようなもの」と思っている目の前の事物、世界、宇宙も、実は立体でもないし、奥行きもないし、時間性もないし、クオリティもない、色もない、音色(ねいろ)もない、臭いもない、味もない。つまり、実際の物理世界は振動のみで構成されており、ヴィオラの美しい音色とか、フルートの綺麗な音のような「質(クオリティ)」はないわけです。

 すべての質は脳が創り出しているのです。脳が質を創り出す基本情報は知覚器官、知覚神経を通過して脳に届けられる2次元情報なのです。ところがわたしたちは、目の前に展開している世界を多次元であるかのように認識している。つまり、知覚器官から届けられた平面情報をある仕方で処理をして、世界が多次元であるかのように再構成している。ここにオールフラット理論の真髄があります。わたしがオールフラット理論を提唱してすでに20年近くの年月が経ちました。実際、認識の原点に立ち返ってトレーニングをしていくと、目の前に広がる風景が平面的な白黒写真のように見えてくる。つまり自らの意思によって色というクオリティを取り去ることができるようになる。同様に奥行きも打ち消すことができるようになる。

 アイルランドの哲学者ジョージ・バークリーが主著『視覚新論』で報告した患者のように、長期にわたって視覚機能を失っていた状態から突然見えるようになった時、知覚した風景は目に張り付いたように感じる。つまり風景はそもそも平面なわけです。同様に、わたしたちは、トレーニングによって、フラットに見える次元を再現することができるのです。これは意外と難しくなくて「フラットなんだ」という意識を再現する。たとえば座禅を組む時のような、フォーカスを定めないような意識のあり方を体験する。通常、わたしたちは知らないうちに何かにフォーカスを定めている、つまり現象学者が言うように「意識とは常に何ものかの意識」であり、つねに何かを見ているわけです。オールフラットの意識の場合はそうではなく、どこにも焦点を定めない状態、すべてを見ていると同時に何も見ていない状態、とでも表現できるような状態なのです。何も見ていない状態、満遍なく漂う意識、強弱がなく、焦点を結ぶこともなく、フラットな意識状態。そのような境地に達したときに「世界は平面だ」と気づく瞬間が訪れます。そのような気づきの先に「実は色は脳が創り出している質なのだ」と気づく段階が来る。そうすると、目の前に展開している世界がモノクロームの濃淡の世界であることがわかる。

 このモノクロームの濃淡の次元を診察の現場に導入するわけです。これが量子論的精神分析のもっとも基本的な部分であり、ただ単に「量子もつれが生じる」というマクロなレベルの話ではないのです。治療者であるわたしが、診療室でクライアントに目線を向けた時、クライアントのみならず見えるものの領野すべてがフラットで、モノクロームに映る。そうするととても不思議なことが起こる。何が起こるかというと、モノクロームの平面の一部に色がついたり、奥行きが現れたりする。

 不思議な事ですが、実際に起こります。まずはトレーニングしてみなければわからないのですが、実際、クライアントの特定の部分に色や奥行きといったクオリティが発生する。わたし自身も、まだ未知の部分が沢山ありますが、これが「量子もつれが生じていることの証左」ではないかと考えています。つまりクライアントの量子状態、脳だけではなくその全体の量子状態と治療者であるわたしの量子状態の間で量子もつれが生じる。生きているもの同士の間に生じるひとつの物理現象なのです。生きているもの同士の量子もつれにとって、おそらくもっとも重要な役割を担っているのが「水」です。クライアントの身体全体と、治療者の身体全体との対峙において、生命同士の関係性のなかで、もっとも重要なのは「量子が水を含んでいる」ということです。水のなかに浮かんでいる脳と水のなかに浮かんでいる器官、これは人工知能(AI)とまったく異なる重要な特徴です。つまり水を介して(水はある種のシールドです)クライアントとの間に生じた量子もつれをそれと知ることができる。実際、わたし自身、診療のなかで「量子もつれが起こったな」ということを感じることが頻繁に起こります。

 そのときにクライアントと治療者との量子もつれの答え合わせをする。実際、オールフラットの場面のなかに先程触れた色や奥行きなどのクオリティが発生するのです。臨床経験を重ねてきて分かってきたことは「Autismのクライエントはとくに量子もつれを起こし易い」ということです。ちなみにAutismは「自閉症」などと訳されていますが、Autismという用語に「症」などという意味はありません。「自閉主義」と訳した方がまだましな気がします。つまりAutismという用語が示しているのは「その人の生きざま」の様態です。Autoには「ひとり」という意味ばかりではなく「自動」という意味もあります。つまり「ひとりで自動で生きている」、そういう主義のもとに生きているのだと捉えておいた方が良いでしょう。Autismを自閉症と日本語に訳した途端に、一種の疾患単位のように錯覚されるわけです。ですから、わたしたちが「自閉症」と呼びたくなってしまうようなある種の量子状態や脳機能のあり方を、ひとつの疾患単位のように扱ってしまうことに、わたし個人は根本的に反対なのです。

 そもそも、脳のあり方は人さまざまです。超鈍感な人もいれば超繊細な人もいる。「Autismではない」人たちをさして「健常者」などと呼んだりする。何をもって「健常」といえるのか?ひとりひとり話をしていると皆さん何らかの異常を抱えています。まったく異常がない人などいるのでしょうか?にもかかわらず「Autismでない人」を「健常者」と呼んで健常者と非健常者に分ける。疑問も持たずにこういう分け方を日常的に行っている医療従事者は山ほどいます。もし、このような分類をしている心理学者に、あらためて健常と非健常の違いを問い質したら、何と答えるのでしょうか。おそらく、この「健常者」という言葉の裏にあるのは「自分が健康であることを確認するための差別主義」つまり「健常」を基準として「健常に見えない人」を「非健常」と定義して「障害(障碍)」のレッテルを貼って安心する。困ったものです。わたしたちが確認しておかなければならないのは「脳機能には様々なあり方がある」という事実です。