セミネール断章 2019年11月9日講義より
第10講:スキゾフレニアを治癒に導く技法 - 崩壊する超自我
第11講:究極の自己分析技法 - 教育分析は不要
問題は「その人には何が欠損しているか?」ということに尽きます。ラカンの用語で言えば「objet a」。有り体な言葉で言うなら「愛」です。スキゾフレニアで重要なのは幻覚や妄想などの陽性症状ではなく、何かが欠けているという欠損症状です。何が欠けているのか?それが「愛」なのです。つまりスキゾフレニアには「愛」が欠如している。
人間ー愛=スキゾフレニア
そしてここには「愛とはそもそも何か?」という根源的な問題が潜んでいる。
愛とは、人を牽引してゆくなにものか、それなしでは人がどこに向かってよいのかわからなくなるような道標。それにしても、なぜ愛が欠損しているのでしょう。それは、愛は「外部」に存在するものだからです。言い換えるならスキゾフレニアは内部だけで構成された世界に生きている。内部だけで構成された世界のなかには「愛」が見当たらない。「愛」は「外部」に見出されるものだから。そして、その外部に見出される愛の役割を演じるのが分析家という訳です。
夜寝てみる夢。その夢のなかで欠損しているもの、それは愛です。つまりみなさんが見ている夢には愛が欠損しているのです。夢のなかでは何かが足らない。だから夢のなかでずっと探し物をしていたりする。あるいはどこかに辿り着こうとしていたりする。愛が欠損している。ここでは、残念ながら、手垢のついた愛という言葉しか思いつかないのです。もっと別の言葉があると良いのですが。つまり、夢とスキゾフレニアの最大の特徴は愛が欠損しているということです。フロイトがいみじくも夢の臍(Nabel)と表現したものこそが、実は愛、母の断片、どこか未知の次元へと連続している何ものかなのです。臍の部分だから気づくことがない。
あるいは、自分の眼球は直に自分の眼球を見ることができないという関係性にも似ている。そういう形での欠損。これが覚醒している時に起こるのがスキゾフレニアであり、眠っているときに起こるのが夢です。覚醒しているときに愛が欠損しているのがスキゾフレニア、だからスキゾフレニアのクライアントはつねに探し物をしている。分析家はそのことをしっかり念頭に置いておくことです。
来歴否認という症状があります。自分には父も母もいる。でも目の前にいる父や母が自分の本当の父や母である保証はどこにもない。本当に父なのだろうか?本当に母なのだろうか?と疑問を持つ。それで、役所に行って戸籍謄本を取って確認する。確かに、そこには父の名前、母の名前が書いてある。しかしながらそこに書いてあるのは文字に過ぎず、目の前にいる父や母が、本物の父か母であることを証明することはできない。スキゾフレニアは、自分に欠損しているもの、つまり本物の愛を探しているわけです。本物を探していると言い換えてもよいでしょう。
スキゾフレニアの超自我に注目してみましょう。そもそも超自我は「定言命法」で語り掛けてくる。車の自動運転を可能にしている人工知能(A.I.)に喩えられるかも知れません。人工知能が壊れてしまうと車がどこを走ればよいのかわからなくなる。どこを走っているかわからなくなる。超自我は人工知能に似ている。超自我が壊れてしまうと、わたしたちは、どこから来て、自分が何ものかも、これからどこへ行くのかもわからなくなる。治療者は、壊れた人工知能を修理するように、クライアントの超自我を治療する。そのためには、壊れていない超自我が必要になる。そこに治療者が現われる訳です。治療者の超自我が彼の超自我とシンクロナイズすること、別の言い方をすれば量子もつれを起こすこと、そこに量子論的精神分析技法が要請されるのです。そのためには「つかみ、本ネタ、オチ」の「つかみ」の部分、つまり転移の操作技法の習得が必要です。
スキゾフレニアの治療の要点は「転移を引き起こすことができるか」という一点にかかっているといっても過言ではありません。不思議なことに転移がピシッと生じると、連鎖反応のようにパタパタパタと自動的にクライアントがよくなっていく。本当に不思議です。ひとつのゴミを中心に雪の結晶が構成されるように、自動的に治るということが治療にとって非常に重要なことです。それは薬を投与して変容させることでもなければ、俗流の精神分析を用いてスキゾフレニアを崩壊させることでもない。必要なのは、超自我の位置に治療者が存在すること。しかも穏やかな感じで。超自我は本来命令形で語り続ける司令塔のようなものですが、だからこそ、穏やかだけどしっかり作動してくれるナビゲーション・システムのような超自我を、分析的手法を用いて、スキゾフレニアに転写させる技法の開発が要請されているのです。