公開セミネール 2019 記録「セミネール断章」

〈超自我〉新論


Essai pour une nouvelle théorie du "Surmoi"


数回のセッションで境界例・神経症・メランコリーを
治癒へ導く技法について



2019年8月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2019年8月10日講義より


第8講神経症を治癒に導く特殊技法 - 誘惑する超自我






 精神分析的な考察の途上で、フロイトはTopik(局所論)という考えを提唱しました。心の装置という仮説です。当初は意識、無意識、前意識という3つの境域(register) を想定しました。この装置である程度のところまでは説明できるのですが、うまくゆかないところがある。というのも、この静的(static)な装置は、言ってみれば、地図に描かれた国境線みたいなもので、動き(dynamism)が入ってこない、つまり力動が入ってこない。


 そこで、フロイトは力動を念頭に置いた第2の局所論を提唱しました。自我、超自我、エスの3つの境域で構成される心的装置です。みなさんにお配りしている受講証の表に描かれています。これはフランス語訳です。自我、超自我、エスという一種の擬人化によって、境域相互の力動すなわち鬩ぎ合い、力の均衡等を説明できる。つまり、心の装置の働きが説明できると考えたのです。


 精神分析は無意識の発見から生まれたのですから、当然無意識に、第2の局所論で言えば、エスに考察の目がゆきます。失錯行為や機知など、わたしたちの日常生活のなかで頻繁に見られるものも、そこには無意識の働き、エスの動きが見て取れると考えたわけです。フロイトの「自我とエス(Das Ich und das Es)」という論文にはそのことが書かれています。


 重要なのは今年のセミネールのテーマでもある超自我(Über-Ich)なのです。Überというのはドイツ語で、英語に直すとover(上)という意味ですから、原語に忠実に訳せば、上位自我と言っても良いでしょう。要するに上位の審級。たとえば裁判でいうと、地方裁判所があって高等裁判所があって最高裁判所があるような審級です。上位自我によって自我が監視されているというわけです。


 上位自我と自我が仲良くやっていることもあれば、逆に上位自我が強力な命令を下してくることもある。あるいは自我が思っていることと反対の命令をしてくることもある。自我は、快楽原則(Lustprinzip )に従いつつ、この複雑な世界のなかで生きていくための舵取り役として現実原則に従っている。つまり複雑な世界と自らの欲望の折り合いをつける審級な訳です。


 言ってみれば乗合バスの運転手のようなものです。だから疲れる。外界と内界の折り合いをつけてゆく必要がある。それで疲れるんです。現実原則(Realitätsprinzip)と快楽原則の間にいるのが自我、つまり世間に合わせつつ快楽も手に入れようとする。休みの日に一日中寝ていたり、喜んで布団のなかに潜り込んでいるのも快楽自我です。


このように超自我の機能を一言でいうなら「定言命法」を仕掛けてくるということです。ご存じのように定言命法はイマヌエル・カントの用語です。ドイツ語で Kategorischer Imperativ とい言います。これは条件のない命令。無条件な命令。絶対的な命令です。これが超自我の働きの基本を構成しています。


 超自我は遺伝する。つまり親の超自我を子供が引き継ぐ。そしてその親もまたその親の超自我を引き継ぐ。こういう遺伝形質によらない遺伝のことを、『利己的遺伝子』の著者ドーキンスは、ミーム( meme )と呼んでいます。遺伝子によらない遺伝形式、社会の様式もそうですね。日本文化もそうです。ミームというのは広い意味での遺伝情報を表わしており、たまたまフランス語の même とアクサンを別にすれば綴りが同じです。ドーキンス自身が、そういう意味もある、と言っています。


 私たちは上位自我によって常に監視されコントロールされています。しかもそれと知らずに。もしそれと知ってしまったらどうなるでしょうか。それと知らずにコントロールされているから良い。例えば、赤信号を見たら自動的に止まりますよね。習慣化されているわけです。それと知らずにコントロールされることによってわたしたちの自我は方向付けされている。いきなり人を殴っちゃダメですね。これもそれと知らないうちに超自我の命令に従っているわけです。


 定言命法は誰のなかにもある。だからイマヌエル・カントの功績をあげるとしたら、それをしっかり言語表現で抜き出してきたことでしょう。というのも、彼こそがが定言命法に一番支配されていた人でしたから。それと知らずに命令されている命令としての命令、それが強迫神経症と呼ばれている病態です。つまり超自我の命令がそれと知られてしまっている。ガスの元栓を閉めたか、家を出た後に鍵を閉めたか。歩いていて電柱の数数えざるを得ない、横断歩道で白い線踏むな、等々。定言命法に従わざるを得ない。従うのは自我。命令を下すのは上位自我、つまり超自我。


 つまり、強迫神経症は、通常はそれと知らずに下されている超自我の命令をそれと知ってしまったことによって生じており、常に命令に縛られることになるため自我は窮屈なのです。しかも超自我は親から受け継いだものですから、親の倫理観や価値観を引き継いでいる。ということは、たとえば両親が、たとえば母の知的レベルが高く学歴も高い、そしてその母親の父親も立派な人である、ということになると、エディプス的な女性が出現する。エディプス的女性は社会規律をきちんと守り、悪いものは悪い、良いものは良いという思考様式の母が生じる。そういう母の超自我を引き継いだ場合、自分のやることなすことに対して、それはいいとかそれは悪いという定言命法が下っており、自我はその命法に従わなければならない。


 残りの神経症について説明する前に、フロイトの思想に欠けていてラカンが補ったものについてお話しします。それを導入することによって、残りの神経症、つまり不安神経症、恐怖症、ヒステリーの構造がわかってくる。それは何でしょうか?上位自我に対してさらに命令をしてくる審級があるということなのです、実は。上位自我が一番トップではないのです。


 例えて言うなら、地方裁判所が自我、高等裁判所が超自我、だから最高裁があるのです。それは何でしょうか?それこそがみなさんよくご存知の小文字のa、objet petit a なのです。おそらくフロイトは objet petit a に気づいていたはずです。しかしながら、実際の議論では自我と超自我のレベル。だから裁判所にたとえれば、地方裁判所が自我、高等裁判所が超自我、そして最高裁に objet petit a がある。そして この objet petit a は何かというと、発達のごく初期に失ってしまった母のポジションであり、永遠に失われてしまった究極の対象です。それに裏打ちされているわけです。





Ich←Über-Icha





 この赤い矢印はなんと呼ぶのが適切でしょうか?誰か思いつく人はいますか? ありふれていますが「愛」なのです。ただし、簡単に「愛」と言ってしまうと、薄っぺらな感じがしますが、重要なのは「愛はひとつのベクトルである」ということです。