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公開セミネール 2018 記録「セミネール断章」
「ラカン理論の批判的再考
Critical Reflections on Psychoanalytic Theory of J.Lacan

前期・中期・後期の全セミネールを俯瞰する

2018年1月講義
講義:藤田博史(精神分析医)

セミネール断章 2018年1月13日講義より

第1講:Les écrits techniques de Freud(S1)、Le Moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse (S2)


シェーマL

 第1回目セミネールでラカンは何を目論んでいたのでしょう?
それは何よりもまず、聴講者の気持ちを自分の方へ引き寄せることだったはずです。なぜなら、聴衆を前にして、ラカンは一人の分析家としてのあり方そのもののお手本を示さなければならないからです。フロイトが残した精神分析という遺産をどのように考え、どのように評価し、そしてどのように発展的に引き継いでゆくか、その姿勢そのものを聴衆の前で示すことによって、聴衆の心を掴み、分析家としての位置を明らかにしてゆく。

 以前からわたしが指摘している治療三原則、すなわち①つかみ、②本ネタ、③オチ、のつかみの部分に相当するのが今日お話ししている第1回目と第2回目のセミネールなのです。この掴みに失敗するとその後に聴講生が来てくれなくなるということもラカンの頭のなかにはあったのだと想像します。ですから、いきなり理論ではなく、フロイトの技法について話をして、最初のつかみ、つまり精神分析への興味を惹こうとしたのだと考えます。そしてそれが果たして成功したのか失敗したのかは、微妙なところです。なぜなら、今日、ラカンを勉強しようとして、第1回、第2回のセミネールの記録を読んだとき、おそらくその感想は「フロイトの言っていること以上の何ものでもない」となる可能性が高いからです。

実際、1994年に青土社から心理学の雑誌『イマーゴ』のラカン特集の責任編集を依頼されたときに『甘えの構造』で高名な土居健郎先生に原稿をお願いしたのですが、土居先生はセミネール第1巻の邦訳をお読みになって、まさに上記のような感想をお書きになりました。

 さて、ラカンは第2回セミネールで「自我」について触れています。ここで出てくる有名な図式が「シェーマL」と呼ばれるものです。見た目はZの形をしているのですが、フランス語の筆記体では大文字のLはZのような形に書きます。

フランス語筆記体のL.png



 本当はZでも良かったのでしょうけど、LはなによりもLacanの頭文字ですので、暗黙の内につまり精神分析的に自己アピールしていますね(笑)。

Le-schema-L-Lacan-1966-47.png



 で、左上に大文字のSが書かれていますね。これは「主体 Sujet」を表すと同時に同音のドイツ語「それ Es」も表しています。ご存じのようにこのエスはフロイトの第2の局所論に出てくる心的審級です。その右横のa’ は「小文字の他者 autre」の頭文字です。次にこの小文字の他者の想像的な対として自我が「a」で表現されているので小文字の他者にはアポストロフィーが付いています。そして右下に「大文字の他者 Autre」の頭文字Aが書かれています。

 これでラカンが説明しようとしたのは、まず無意識の主体と自我は峻別されるべきものであるということ。そして理想的な自我 a(=理想自我)は、自我の理想 a’(=自我理想)をお手本として生じるのだということです。主体とは何よりもまず無意識の主体であり、自我とは異なるものであることを確認しています。通常わたしたちは自らが主人公のように考え行動しているけれども、実は考えさせられ、行動させられているのかも知れないということ。つまり「自我は判断の主体ではなく、主体の判断の一部」(ラカン)なのだということを教えている。いってみれば、自我は操り人形のようなもので、背後に自我を操っている何ものかがいるだろうと推定するのが精神分析の視点です。ラカンはこの背後にいる何ものかを主体Sと表現し、大文字の他者Aの場所からはこの主体は無意識の主体としてのみ想定されるものだとしたわけです。そして自我理想と理想自我を結ぶラインつまり想像的なラインを超えて主体に近づくことはできない。つまり大文字の他者Aから無意識の主体Sに向かう象徴的なラインは自我理想と理想自我を結ぶ想像的なラインを超えて主体に近づくことができないわけです。ラカンは第2回セミネールのなかで、この想像的なラインを想像的軸、象徴的なラインを象徴的軸というふうに説明しています。

 ラカンの有名なテーゼ「無意識はランガージュのように(として))構造化されている」は第2回目のセミネールの時点ではまだ出てきていません。ですから、お笑いの3原則(つかみ→本ネタ→オチ)に喩えていうと、まだ芸人が舞台に登場して30秒ぐらいしか経っていないという感じでしょうか。ですからラカンの最初のセミネールは観客の心をつかむために丁度最初の話を切り出したところに相当するかも知れません。

 のちにこの「小文字のa」は進化して「対象a 」と表現されるようになります。ただし、本日ご紹介した第1回、第2回のセミネールの段階のaは、フロイト理論に照らして、自我理想(a’)、理想自我(a)という風に区別されます。

 ちなみに、ドイツ語では自我理想が Ich-Ideal、理想自我が Ideal-Ichと言います。理想自我は具体的なもので、自分が尊敬している人や模倣する対象として登場しますが、自我理想は五官では察知することのできない幻想的な対象になります。