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公開セミネール 2018 記録「セミネール断章」
「ラカン理論の批判的再考
Critical Reflections on Psychoanalytic Theory of J.Lacan

前期・中期・後期の全セミネールを俯瞰する

2018年3月講義
講義:藤田博史(精神分析医)

セミネール断章 2018年3月10日講義より

第3講:Les formations de linconscinet (S5), Le désir et son interprétation (S6)


無意識の形成物

 今日お話するのは第五回と第六回のセミネールです。前者のタイトルは「無意識の形成物 formations de l’inconscient」です。無意識の形成物と聞いた時に、フロイトを読んでいる人は、次の三つの論文を思い浮かべるでしょう。
 1901年に出版された「日常生活の精神病理 Zur Psychopathologie des Alltagslebens」、その一年前に出た「夢の解釈 Traumdeutung」ーーこれは長い間「夢判断」という不適切な訳が与えられていましたーーそして「機知」の三つです。正確には「機知の無意識との関係 Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten」という論文ですが、これが1905年に出ています。ですから1900年から1905年までの5年間で無意識の形成物についての主要論文が出ているわけです。たしかにフロイトはその前にも1895年にブロイアーとの共著である「ヒステリー研究」を出していますが、精神分析におけるフロイトの実質的なデビュー作と言って良いのはやはり「夢の解釈」です。

 ラカンが「無意識の形成物」について語るときには、まずフロイトのこの三論文が脳裏にあるわけです。「日常生活の精神病理」での無意識の形成物と言えば、言い間違いややり損ないですね。そのような失錯はラプシュスと呼ばれます。更に言えば、ラプシュスは、往々にして日常生活の自我のレベルでの失敗であると同時に無意識の主体(エス)のレベルでは成功なのです。例えばピアノの発表会での間違いなどはラプシュスである場合が多い。ここは間違えてはいけない、と意識すると間違えてしまう。これは何か自我にとっては失敗なのですがその人の無意識の主体がそれを引き起こした、いわば自我に対する反乱とも言うべき事態です。つまり主体にとっては狙い通りの成功なのです。ですから、ラカンはこの成功に suprême という形容詞を付けて、究極の成功、最高度の成功と表現しました。この頃は専らフロイトの言説をパラフレーズしていた時代で、構造主義的な視点を交えながらフロイト理論を言い換えたりしています。

欲望のグラフ I , Point de capiton

 要点を先取りしてお話しすれば、第5回と第6回のセミネールの中心的役割を果たしているのが欲望のグラフです。

(ホワイトボードに書く) Graphes du désir

 グラフという用語は日本語で使われる意味とほぼ同じで、図とか表という意味です。わたしたち人間は成長の初めの段階で言葉を獲得しますね。つまり、理論的には、言葉を獲得する前と言葉を獲得した後とがあるわけです。ラカンは、ヒトが言葉を獲得する生後6ヵ月から18ヵ月の間の時期を「鏡の段階 stade du miroir」と呼んでいます。言葉を獲得する以前の自我にとって、最初は言葉なしのイメージの領域で自分の姿を獲得してゆく鏡の段階が訪れるわけです。そして次に来るのが母の不在を言葉で補う段階。そして言葉によって自分を作りあげていく段階があるのです。その一番最初の段階をラカンはこういう風に描いたのですね。

(ホワイトボードに描く)

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 これは、川の流れのようなものです。これは何かというとシニフィアンの流れです。ここにシニフィアンが流れている。そこへ欲望の運動が下から上に横切ってさらに上から下に横切る。しかも流れを遡る方向へ動いて横切る。この運動によってシニフィアンの対が形成されて主体は対のシニフィアン(=記号)によって再現代理され、斜線を引かれて($)シニフィアンの世界から抹消されてしまう。ここで運動の起点に描かれているギリシャ語のΔ(デルタ)はラテン語のdつまり欲望の頭文字です。ここで、なぜラカンはdではなくΔで書いたかのでしょうか。それは運動の出発点における欲望は、未だ欲望にならない欲望、欲望になる前の欲望、また形が見えない欲望だという意味を持たせてΔと書いたのです。

 欲望の前に必要 besoin という考え方があります。生命が生きてゆくために必要なもの、つまり水とか空気とか酸素とか、そういう besoin の領域がある。そしてその領域が欲望 désir へと連続してゆく過程がある。生まれ落ちた赤ん坊が生き延びるために行なっている生命活動とか運動みたいなものですね。それがシニフィアンの流れを横切るのです。下から上に横切ってもう一度上から下へ横切る。流れとは逆方向に動いて2回横切るわけです。そこで初めてこの身体的な運動が記号化され、主体は記号に取って代わられて記号の世界から抹消される形で逆説的に「現われる」つまり姿を消す。これが「斜線を引かれた主体」という概念の意味です。つまり「姿を消すという形で姿を現わす」のです。

 これが最初の欲望のグラフです。もう一度、喩え話を交えて説明してみます。今、川のなかで多くの魚が泳いでいるとします。そして実際にはあり得ませんが、川の底からモリみたいなものでぐさっと魚を刺す。そうすると一匹刺さります。それからさらに川面の上から再度別の魚を刺す。すると魚が二匹刺さる訳です。モリに魚が二匹刺さっている光景。この魚(=シニフィアン)の対こそが、構造主義的な記号 signe の概念に他なりません。余談ですが、この signe を構成しているアルファベットを入れ替えると猿 singe という単語になります。まるで猿がヒトへ進化する過程で記号が出現することを暗示しているかのようです(笑)。