公開セミネール 2018 記録「セミネール断章」
「ラカン理論の批判的再考
Critical Reflections on Psychoanalytic Theory of J.Lacan


前期・中期・後期の全セミネールを俯瞰する



2018年2月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2018年2月10日講義より


第2講:Les psychoses (S3)、La relation d'objet(S4)

第3回セミネール「諸精神病」、第4回セミネール「対象関係」



 ラカンの第3回セミネールで扱われる症例にフロイトの「シュレーバー議長の手記」の分析があります。これはフロイトが実際に本人を診たわけではなく、おそらく今日ではスキゾフレニア(統合失調症)という診断になると思いますが、控訴院議長のシュレーバーという人物が書いた手記を基におこなわれた分析です。この分析についてラカンは第3回セミネール「Les Psychoses(諸精神病)」のなかで触れています。また、第4回セミネール「La relation d’objet(対象関係)」のなかではフロイトの有名な男児の症例ーーこれはフロイトがはじめて子供の分析をしたと言われている症例ですがーーが「ある5歳男児の恐怖症分析」の話です。略して「Der Kleiner Hans(小さなハンス)」と呼ばれています。
 ラカンの業績で、実際に書かれたものとして残っているのが『エクリ』、記録として残っているのが「セミネール」ですが、事前にフロイトの著作をしっかり読んでいる人にとってみれば、さほど難しいものとは映らないはずです。ところがフロイトを読まずにいきなりラカンの書籍を読もうとすると訳(わけ)がわからなくなってしまうのです。「ラカンはわからん!」という訳です。フロイトを知っている人であれは、ラカンの言っていることが、フロイトがすでに書いていることのパラフレーズ(焼き直し)であることをすぐに見抜くでしょう。


 シュレーバー議長の手記はそれじたい非常に面白いものです。単独の本として出版されています。検索していただくと分かりますが、複数の邦訳があります。そのうちのひとつが東京医科歯科大学神経科の研修医時代にシュナイダーの原文講読などでお世話になった精神科医渡辺哲夫先生の単独翻訳です。シュレーバー議長の手記でもっとも重要な箇所は「女になって性交されたらどんなに気持ちいいだろう」という妄想が出てくる場面です。つまり精神病の背後には女性化願望がひそんでいるという視点です。これはフロイトそしてラカンの鋭いところですね。そして、観念的なものが具体的な形で出てくる。たとえば小人たちが沢山でてくる、という形で無数の精子が表現されていたりする。この手記によってわたしたちが目の当たりにするのは「精神病になると性的なものがダイレクトな置換物によって表現されている」ということです。つまり精神病になると、例えて言うなら、マンホールの蓋が開いてしまい、そのなかに閉じ込められていたはずの性的なものが直裁的なイメージの形で現れてくるという訳です。


 で、そのマンホールの蓋こそが、ラカンの言うところのla vérité(真理)です。 さらに言うならこれは見えない場所から力を発揮するファルス(男根)Phallus であり、人間が獲得した最初の言葉の断片すなわち1番目のシニフィアンでもあります。つまり人の心の底で蓋をしているもの、これは真理であり、ファルスであり、最初に取り込んだ一番目のシニフィアンでもある。そして、その蓋が外れてしまう。この事態をフロイトはVerwerfung(排除)と呼びました。フランス語に訳すとforclusionです。つまり精神病者は本来閉じているはずのマンホールの蓋がきちんと機能していないということを指摘したのです。


 ただし、この頃のラカンは、おそらくシュレーバー議長の手記を読みながらセミネールを継続していたのではないかと思います。セミネールの記録を読んでも、なんだか言い澱みながらセミネールをやっている感じがある。思考しながらセミネールを進めている感じです。この精神病のセミネールをおこなったのが1955年で、ラカンが生まれたのが1901年ですから54歳の時です。ラカンのすごいところは、50代から亡くなる80歳までの間にほとんどの業績を残しているという点です。しかもその殆どがソクラテスのように自身で執筆することなく、セミネールの記録という形で残している。ですから当時は、今でこそ事後的にラカン理論についてーー想像界とか象徴界とか現実界とか、objet petit a とかS barré、斜線を引かれた主体とか、他者とか、大文字の他者とか小文字の他者とか、様々なラカンの概念についてーー語ることができるけれども、おそらく当時のラカンは、フロイトの思想を数学的にパラフレーズしてゆくという発想法をどうやって聴講者へ伝えようかと模索していた時期だったはずです。ですから、ゆっくり道を確かめながら歩いている感じ、試行錯誤しながら語っている感じ、言い澱みながら語っている感じがあります。自宅でシュレーバーを読んで次のセミネールに備えていたような感じがありますね。


 そして興味深いことに、翌年のセミネール「La relation d’objet(対象関係)」 になると講義の雰囲気ががらっと変わるのです。なんだかお調子者みたいな語り口になる。筆記録を読む限りでは、淀みなく語っているのです。症例ハンスの話はその年のセミネールの後半に出てくるのですが、おそらくシュレーバーのセミネールをやって何かが吹っ切れた感があるのです。それで翌年のセミネールの時には非常にすらすらと進んだ。なぜか、それは、マンホールの蓋ーーマンホールの蓋という比喩はわたしが勝手に使っているのですがーーすなわちファルス、一番目のシニフィアン、真理、これらの位相が、フロイトのエディプスコンプレックスとの絡みによって、ラカンなりに腑に落ちる形で措定できたからでしょう。


 ここでエディプス・コンプレックスについて少し触れておきましょう。人の子は、野生動物と異なり、そのまま放っておくと死んでしまう。母の助けなしには生きてゆけない。つまり乳児にとって母親は切っても切れない重要な愛の対象なわけです。ところが生後6ヵ月から18ヵ月の間にこの母子の絆が切り離されるという事態が起こる。何によってか、言葉によってです。母親の不在を、ママという発音=シニフィアンによって置き換える。つまり母親の代わりに言葉を掴んでしまう。母の不在が言葉に置き換えられるというのはどういうことでしょうか。それは異質な壁が子と母の間に入り込んでくるということなのです。その異質なものがマンホールの蓋というわけです。誤解を恐れずに言えば、そのマンホールの蓋の役割を担うのが父なのです。ここでラカン的なフロイトのエディプス・コンプレックスのパラフレーズが出来上がる。つまり密接な母子の間に異質なものが入ってくる。その異質なものこそが父なのです。子の父は、真理あるいは一番目のシニフィアン、あるいはファルスのポジションと機能を担っている。


 先ほどのマンホールの喩えで言うと、マンホールの穴の下に母親がいる。母親が見えている。それを横から父親がマンホールの蓋を持ってきてバーンと閉めてしまった。母親が見えなくなる。その代わりマンホールの蓋をとりあえず母親代わりに措定するというようなそういうイメージですね。症例ハンスの場合は、そこで一つの問題が起こったわけです。何かというと、要するに、蓋が完全に閉まっていないが、蓋がないわけでもない。蓋が完全に閉まっていない訳です。穴の隙間から何かが見える。穴の下も真っ暗なので、本来はそこに母親がいるのだろうけれども、母親がいるということすらわからない。つまりマンホールの穴の奥が真っ暗、暗い。なんだかわからないけれども、蓋がされていないことに対して心が安定しなくなる。これをラカンは「不安」と呼んだのです。


 不安というのは対象を特定できないまま心が落ち着かなくなる心的な状態です。例えば、真暗闇のなかでそこに何があるのかわからない。それが不安。そこで、その不安を解消するためにマンホールの蓋を閉めようとします。そうすると今度はマンホールの蓋そのもののが不安の源泉になる。これが不安の源泉すなわち恐怖の対象として立ち上がる。つまりそれまでは何が不安なのかわからなかったのだが、今はこの蓋が怖いのだ、という具体的な形で措定可能になる。ですから、不安神経症というのは対象なき恐怖症と言われたりします。恐怖症は不安の対象が具体的なものに固定されたものということができます。


 フロイトはその症例ハンスのなかに何を見たのでしょうか。ハンスは結構頭の良い五歳の男の子で、両親は精神科医です。しかも両親共に精神分析を実践している精神科医です。つまり精神分析の専門家なわけです。実際はフロイトがハンスに会ったのは一回のみで、あとは父親にアドバイスをしながら、父親にハンスの治療をさせています。これが非常にフロイトらしい。というのは、日本の精神科医だったらどうするでしょうか。おそらく、父ではなく、母に治療させようとするのではないでしょうか。ところが、精神分析の経験が教えているのは、恐怖症を治せるのは父親だということなのです。ですから、フロイトは父に指示してハンスの恐怖症を治させようとしたわけですよ。ハンスの恐怖症は、家の外に出て、街に出ると馬に噛まれてしまうという恐怖つまり馬恐怖症でした。ハンスの心のなかに「馬に噛まれる」という恐怖心が湧いてくるのですが、その馬に相当するのが実は父なのだということをフロイトは言っています。つまり本来の正常発達のなかでは、父がうまく母と子の間に入り込んで言葉を獲得する段階へと移行するのですが、ハンスの場合は、母親との愛着関係が強く、父がうまく母子間に割って入ることができなかった。そのようななかでハンスは父のことが大好きでした。つまり、父親のことが直接嫌いという形を取らずに、父は馬に置き換えられ、馬が怖いとなってしまったのです。


 ところで、精神分析で去勢不安の話をするときによく言われる譬えは、男の子に対して「そんなに悪さしているとおちんちん切っちゃうぞ」と脅される場面です。あるいは「そんなにおねしょしているとおちんちんを切っちゃうぞ」と言われる場合もそうです。そして、ハンスの場合、馬に噛まれるというその恐怖症の背後には去勢不安がある、ということをフロイトが指摘したわけです。ラカンは、ハンスの症例を引き合いに出すことによって、恐怖症や不安を引き起こす「対象」についての考察が、ラカンの思考回路のなかで洗練されてゆく。ひとつは小文字の対象a objet a、もうひとつはファルス Phallus、あるいは一番目のシニフィアン S1。小文字の対象aはもともと母親の場所で、漠然とした不安はこの小文字の対象aにつながっているのです。一方、その母親との間を断ち切るファルス、あるいは一番目のシニフィアン、これは具体的な対象に置き換えられる。これが恐怖症の対象。ラカンはそんな話をし始めるわけです。ですから、前年のシュレーバーの話が終わって翌年の対象関係の講義になると結構スムーズに進んでしまった。わたしに言わせれば、ラカンはシュレーバー議長を対象とした同一化をおこしているのです。シュレーバー議長の手記を読むことによって、ラカン自身がシュレーバーになっているというか。ですから、興味深いことに、対象関係のセミネールをおこなっているラカンは、シュレーバー議長の語り口になっているとわたしは考えています。ラカンに限らず、人ってそういうところがありますよね。誰かが、乗り移るまではゆかないけれども、必ず誰かの真似、誰かをお手本にしていたりします。それほどまでにシュレーバー議長というのは非常に興味深い人物だったのでしょう。手記を読んでいない方、読んでみてください。そこでは様々な症状が出てきます。


 シュレーバーは控訴院議長という責任あるポジションに置かれた時に発症しました。一般にスキゾフレニアは自分が責任あるポジションに置かれた時に発症し易かったりします。なぜなら、それは父親のポジションの隠喩だからです。そこで父的なものが自分のなかには欠けているということが明白になる。「あれ?マンホールの蓋、開いたままだった」ということに気づく。マンホールの蓋の代わりに、誰かの言動を模倣して誤魔化してきた。だからそのマンホールの蓋は気づかなかった。マンホールの蓋の上に立って生きていたわけではなかった。実際、親分的な友だちにくっついて生きているような小学生とかいますよね。子分のように従属している。このような同一化は想像的な同一化ですが、この同一化によって精神病の具体的な発症が防がれているということもあります。もちろんこの想像的同一化は「蓋=ファルス=1番目のシニフィアン」への象徴的同一化ではない、つまり絶対的な切断ではないので、常に危うくて、蓋が閉まっていないことに気づいてしまう(=精神病が発症する)危険性がつきまとうわけです。