セミネール断章 2017年9月9日講義より
第9講:パーソナリティ障害を投薬なしで治癒させる理論と技法
パーソナリティ障害の基本病理は不完全な象徴的去勢によってもたらされているということをまず最初に確認しておきたいと思います。1990年に『精神病の構造』を出版したときからこの基本病理について言及してきました。本日は、治療のお話をするわけですが、治療の主眼は、この不完全な象徴的去勢をいかにして堅牢なものにすることができるかということがテーマになります。わたしが嫌いなDSMではパーソナリティ障害を大きく三つに分けています。嫌いですが少し利用してみましょう。
世の中には一見して「奇妙」という印象を与える人がいます。対人関係において、対峙した人の心のなかに共感不能な違和感を与える人です。そのような感覚を英語では odd といいますね。気味が悪かったり、不思議な感じがしたりする。そこで odd なタイプのパーソナリティ障害があると考えるわけです。
あるいは、必要以上に大げさだったりわざとらしかったりする人がいる。一部のお笑い芸人などそうかもしれませんが、演技的でドラマティック dramatic な言動をする。病的であれば、これは dramatic なパーソナリティ障害と言えるかも知れません。
あともう一つは、何事にも自信がない。できれば人と関わりたくないといったタイプの人。言ってみれば不安な anxious 心的状態をもったタイプ。
つまり、Odd Type、Dramatic Type、Anxious Type の三つのタイプがあると考えるわけです。これらのタイプを注意深く見ていると、いずれも象徴的去勢の「強度 intensité」に関連していることがわかってきます。ここで問題になるのは構造のみではなくその構造に作用している強度が関わってくるということです。この事実がパーソナリティ障害という状態像の判定を難しくしている。つまり構造に強度という要素がかかわってくるということが重要です。例えば電気こたつの温度などはダイヤルで微調節できますよね。これはアナログです。このアナログ的なものが関わってくるところがパーソナリティ障害のむずかしいところ。
このような観点から俯瞰してみると、Odd Type は象徴的去勢の強度がかなり弱い。そうすると、言葉によって去勢される以前の想像的な母子関係のなかで起こってくる妄想や空想が心的領域のかなりの部分を占めてくる。そのようなものとしては Schizoid Personality Disorder や Schizotypal Personality Disorder と呼ばれる病態があります。さらには母子関係(二項関係)に関連するような妄想を抱いている Paranoid Personality Disorder もある。いずれも象徴的去勢の強度が弱くスキゾフレニアに近似のタイプです。
一方、Dramatic Type には、女の子に見られる境界性パーソナリティ障害 Borderline Personality Disorder や男の子に見られる反社会性パーソナリティ障害 Antisocial Personality Disorder などがあります。「自殺する」と宣言したり、お騒がせなことをして周囲を巻き込んだり、お酒を一升瓶全部飲んじゃったりする女の子がいますね。男の子の場合は、暴走族や昔流行った渋谷のチーマーなど複数で連んで反社会的な行為に及んだりする。つまり、男の子における境界性パーソナリティ障害は反社会性パーソナリティ障害という形を取るわけです。その他、自己顕示性が強い演技性パーソナリティ障害や自己愛が強い自己愛性パーソナリティ障害もDramtic Type に分類されます。
ここで興味深い事実について触れておきます。それは女の子の自傷行為と男の子のそれとは実行のされ方が微妙に異なるのです。女の子の自傷行為で圧倒的に多いのはカッターナイフなどを自分の腕の皮膚に当てて「切り傷」を作る行為です。皮膚が裂けて出血する。割れ目(裂け目)を作って出血させるという象徴的な行為。これはあたかも初潮もしくは初体験を再現反復しているかのようにも見えます。つまり耐えがたき現実に直面した主体が、自らが女性であるということを確認するための原点(アイデンティティ)まで回帰(リセット)することで、困難が生じる以前の安心の場所に戻ってくる行為のようにも見えます。これはまるでダムの貯水池に過剰に貯まった水を放流(放水)して、水位を下げることにも似ています。フロイトも指摘するように、身体の内部から沸き起こってくる形のない耐え難い苦しみから身を守る直接の手段を持ち合わせていない主体は、自らを傷つけるという間接的な行為に手段を置き換える(あるいは投影する)ことによって辛うじて逃れることができるのです。女の子の場合この行為は刃物で皮膚を「切って割れ目をつくる」という女性器の機能を象徴する行為となり、男の子の場合は煙草の火などを皮膚に「押しつける」刃物を「刺す」という男性器の機能を象徴する行為となります。つまり、それぞれが無意識のうちにそれぞれの性器の機能つまり自己の性の同一性を確認し再現しているのです。
男女いずれの場合にしても、自分では制御不能な内的な強い衝動が沸き起こってきており、それに対する防御として自傷行為が生じている。こういう行為の背後にあるものは、かつて誰もが経験したであろう、想像的な欲望の交流の段階なのですね。ご存じのようにラカン派ではこの段階を鏡の段階と呼んでいます。誤解を恐れないいい方をすれば、自分の場所に、大好きでもあり大嫌いでもある両価的な母親が無条件に介入してくるのです。それが基本になっている。つまり自分の内部から正体不明な強い衝動が迫ってきたとき、それを断ち切らなければならない。防御壁を作らなければならない。それが言葉の機能なわけです。つまり言葉による去勢が生じて衝動を抑え込むことが可能になる。ところがこの言葉による去勢の強度が弱い場合には、衝動を抑え切ることができなくなる。そして、その代わりに刃物を以て衝動の源泉と見做される身体に立ち向かってしまう。つまり「行為化」が起こる。
更に言うなら、自傷行為とは、不完全なままの去勢を然るべき「正規の」去勢に戻して欲しいという「去勢要求」の行為でもある。別の言い方をするなら、自らを救おうとする無意識の行為、あるいは自己治癒の試みであるということもできます。