セミネール断章 2016年12月10日講義より
第12講:精神分析とはそもそもなにか?(結語)
精神分析を支えている最も根本的な仮説は言うまでもなく「無意識」です。科学的な思考においては、仮説によってフレームができ、世界が再構築されるわけです。無意識はドイツ語で Unbewusste、 フランス語で inconscient といいますが、フロイトは意識 Bewusstsein という言葉に否定の接頭辞 Un をつけて Unbewusste という用語を作りました。そして、ここから精神分析の功罪が生まれることになります。つまり「無」意識としか名付けることのできない領域をあえて名付けてしまったために、精神分析は「検証不能」という最大の弱点を抱えることにもなってしまった。
ところが、精神分析を信奉している人たちは、それを弱点だとは思っていないようです。つまり無意識という逆説的な領域を正攻法で証明することができないということ、つまりエビデンスを示すことができないということについて不思議なくらい無頓着なのです。たとえ夢や多くの症例から一種の法則のようなものを演繹できたとしても、それを直ちに科学的なエビデンスに繋げられるわけではありません。精神分析は経験則のなかで擬似的な科学法則を見出しながら構築されてきた疑似科学体系であり、無意識の設定に意識を前提とするような逆説が紛れ込んでいるのです。
これに対して、現代の量子力学的な観点が教えていることは、前提となっているのは意識でも無意識でもなく、物質側の状態、厳密にいうなら宇宙を構成する波動のパラメーターの方なのです。シュレーディンガー方程式を思い起こしてみてください。波束が収斂していない非決定な状態のなかへ、生物学的な「意識」が関与することで観測が生じ、様々な物理学的な状態が一義的に定まってゆく。つまり、観測によって波束が収斂して世界が決定されてゆくわけです。二十一世紀はこの量子力学的なロジックこそが精神分析に要請されていると考えます。
したがって Ubewusste という概念の設定は、やはりフロイトが犯した過ちあるいは仕掛けた罠の一つと言わざるを得ません。Un ではなくて、例えば Vorbewusste という用語でーーーフロイトはこれを別の領域に割り当てているのですがーーー「波束が収斂する前(意識化される前)の状態」という意味合いを持たせて「意識によって到達できない領域」を名付けてみれば良かったのかもしれません。
たまたま今日発売された講談社学術文庫版の『テレヴィジオン』のなかで、ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールが「無意識、なんと奇妙な言葉なのでしょう!」とラカンに問いかけています。ラカンはそれに対して「もう名付けてしまったので後戻りはできない」と答えています。端的にいうなら、フロイトによる名付けの失敗、最初の失敗です。フロイトの後に続く者は、これを失敗と受け止めて精神分析を学んでゆくのか、もうこれを当然と思って進めてゆくのかで全然違いますね。
繰り返すなら、精神分析の弱点は、検証不可能な「無意識」を設定しているところにあります。つまり逆説的に意識を参照項として設定してしまっているのです。そういう意味では現象学の裏返しのような論理構造を持っています。つまり精神分析的思考と現象学的方法は、ちょうど紙の裏表のような関係にあるように見えます。思えば、かのサルトルも精神分析に刺激されて、まるでメビウスの帯を作るように、現象学的な精神分析みたいなことを考えようとしました。言葉の構造の基本に帰れば、否定の接頭辞をつけて命名するということ自体が、ひとつの心的なポジションのあり方を表わしています。否定形は言葉がもっている最も基本的な機能です。
言葉は否定形をそのなかに抱えているので、いろいろな矛盾を自分自身のなかに抱えることができます。否定形というのは単なる文法様式に留まらず、言葉そのものが抱えている根本機能のひとつです。この機能によって、様々な矛盾を作り出すことができます。例えば「今わたしが話しているのは日本語ではありません」と言える。文法的に誤りはないけれど、意味的には間違っていますね。この否定形こそが人が話す言葉の根本機能であり、人間が「無意識」なる何ものかを抱えることになった根本的な原因なのです。
もしも、受け取ったり想起されたりした情報をすべて肯定して意識のなかに確保し続けていたとしたら、意識は混乱し、判断不能になってしまうことでしょう。実際、精神医学で「混迷 Stupor」と呼ばれる状態がそれに近いものです。情報量が多すぎると判断ができなくなる。人間が現実の世界に即応して生きていくためには、その場その場で必要な情報量だけに絞る必要がある。つまり、不要な情報は意識から除外されていなければならない、つまり否定されていなければならない。フロイトはそのような心の働きを「抑圧」と呼んだわけです。
その後、フロイトは心の構造について、公表を前提としない思弁的な試みをしました。後に「メタプシコロギー」と呼ばれることになる一連の著作がそれに当たります。そのなかに「否定」についての論考があるのですが、そこには、否定」や「抑圧」に関するフロイトの基本的な考えが書かれています。フロイトは、無意識の形成には抑圧が不可欠であり、意識を単独で作動させてゆくためには、意識から除外する心的な作用すなわち否定=抑圧が必須だと考えたわけです。
「否定」は「抑圧」へ繋がるわけですが、端的に言うなら精神分析は「抑圧」の理論なのです。意識のなかに過剰な情報が入り込まないようにその外部に過剰なものを除けておくという発想がある。だからやはり、まず意識ありき、なのです。
そこから無意識から意識への様々な弁証法が生まれる。つまり、無意識が抑圧を潜り抜けて意識のなかへ入ってくるという事態を想定する。これについて、フロイトは「日常生活の精神病理」のなかで「失策行為 lapsus」として記述しています。つまり、人は、普段間違える筈のないことをある特定の状況下で間違えてしまうことがあるわけです。例えば、ピアノの発表会のために一生懸命練習して、完璧に弾ける状態にして、いざ発表会で弾いてみたら、間違うはずのないところを間違えてしまった、というようなことがある。ここで興味深いのは、あらかじめ準備されたものに対して、意識外のなにものかが邪魔しに入ってくるということです。
しかしながら、日常生活を考えてみると、意識と無意識の二分法のみだと都合が悪いことがわかります。普段忘れているのだけれど、思い出そうと思ったら思い出せる領域があるからです。思い出そうと思っても思い出せないのが無意識の領域とすれば、思いだそうと思ったら思い出せる領域も想定しなければなりません。たとえば、皆さん、今現在まったく意識のなかにのぼっていなくても、突然「小学校時代の親友を覚えていますか?」と尋ねたら、今まで思いもしなかったことがすぐに想起される。つまり普段は忘れていても取り出し可能な貯蔵庫があるわけです。フロイトはこの領域を Vorbewusste と名付けました。Vor は「前」を意味する接頭辞ですから訳せば「前意識」となります。こうして、フロイトは心の領域を意識、前意識、無意識の三つに区別することになります。これを第一の局所論と呼び、後に提唱される自我、超自我、エスという三領域に分ける第二の局所論と区別されています。
考えてみたらフロイトの発想はとても単純です。算術の世界です。三つに区分するという発想。例えばヘーゲルの弁証法や三段論法などがそうです。あるいは弁論術の基本でも「重要なことは三つあります」と言っておいて、それから何かなと考える(笑)。一般に三を出しておけば大体間違いはないという不思議な約束があります。例えば「人の生活において基本的な要素は三つあります」と言っておいて、食べる、住む、着る、と言えばいいわけです。弁論術で頻繁に利用される数字は三なのです。
そういう意味ではフロイトの発想そのものは算術的です。その算術的な発想の背後には、秘教的、カバラ的なものを指摘することもできるでしょう。実際、そのような研究もなされています。
振り返ってみれば、フロイトが精神分析を本格的に始めたのが1900年の『夢の解釈』の出版であるとすると、すでに116年の年月が過ぎ去っているわけです。ところが不思議なことに、116年経った今日でも、フロイトが提唱した古典的「精神分析」を大事に伝承してゆこうという根強い流れがあります。実際、フロイトの強い影響を受けて、二十世紀には弟子たちが様々な流派を作りました。アドラー、ユング、フェレンツィなどがそうです。ところが、興味深いことに、精神分析に傾倒している人たちの大部分は「結局はフロイトだね」というようなことを口にする。つまり、このような形でフロイトが信奉され続けている。様々な流派が出たけれどもやはりフロイトだね、と口にするよう仕向けられている。わたしは敢えてこれを「フロイトが仕掛けた陥穽」と呼んでいます。確かにフロイトの著作を原書で読むと、とても惹きつけられるものがある。慎重さと大胆さを備えた絶妙な筆の運びに心を奪われてしまう。わたし自身、フランスで『精神病の構造』を書いていた三十代の頃、フロイトの原書を読みながら多くの感動を得たものです。フロイトの文章はゲーテと比較しても遜色ないくらい文学的なものでした。余計な断言はせずに、慎重に思索を進めているのです。少なくともそういうポーズを取っている。今となってはそれがポーズだと気づくのですが、当時は「なんて慎重な人なんだろう」とその姿勢に心を奪われていました。
フロイトは、新しいアイデアが浮かんだら、とりあえず論考や論文にしていたのです。ですから、亡くなった時には未発表の論考や書簡が沢山残されていました。それをフロイトの意志とは無関係に、マリー・ボナパルトがパリに持ち帰って発表してしまったのです。公表して欲しくなかったものまでもが、死後に公開されてしまったのです。友人のウィルヘルム・フリースに書いた手紙などもそうです。天国のフロイトは地団駄踏んだに違いありません。というのも、フロイトは人からどう見られるか、どう評価されるかということに関して敏感な人だったからです。つまり、尊敬の対象、憧れの対象となることに拘っていたので、その偶像を破壊するようなプライベートな資料の暴露は絶対に避けたいと考えていた筈です。ところが、フロイトの没後にプライベートな資料が衆目に晒されても、すでにフロイトに対する「信仰」は揺らぐことなく、むしろ「実はこんなものを書いていました」という暴露に対して「やっぱりフロイトは凄い」という評価が後を絶たなかったのです。実はもうその時点で分析家たちは「フロイトが仕掛けた罠」に完全に嵌まってしまっていると言わざるを得ません。