公開セミネール 2016 記録「セミネール断章」
「精神分析原理」Principia Psychoanalytica
ーフロイト・ラカンが仕掛けた陥穽ー

2016年11月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2016年11月12日講義より
第11講:50年後に精神分析があるとすればそれはどのようなものか?





 日本でラカンに傾倒している人は大きく三つのカテゴリーに分かれると思っています。一つはグループを作って集い、そこで何らかの研究成果を発表してゆくというカテゴリー。二つ目は自らをラカンと同一視して、教条的な講義をおこなってゆくというカテゴリー。三つ目は、大学教員としてその専門をラカンの精神分析としているカテゴリーです。


 すでにラカン派でもラカン信奉者でもないわたしがここで試みているのはひとつの新しい前進の仕方です。週一回のゼミと月一回のセミネールをおこなっていますが、グループ化する意図もなく、参加している方々もグループの一員などと思ってもいないでしょう。自由な時に参加して、自由な時に退出すればよいし、参加者もそこで他では聞けない新しいことが聞けたり、なにか面白いことが起これば幸い、という感じかも知れません。わたし自身も、一回一回の出来事を楽しんでいただければよい、と思って話をしています。


 もしここで「さあ、志を同じくするみんなでグループを作りましょう!」などとわたしが言い出したら「うわ、寒い」と感じたりしてゾッとするかもしれません。皆さんがゾッとしなくても、何よりもまず、わたし自身がゾッとします(笑)。ここで注意深く排除されなければならないのは想像的な欲望 le désir imaginaire の仕業です。別のいい方をすれば、ラカンを信奉している人が、想像的自我の確認作業 récolement du moi をおこなっているのではないかということです。そのような場合、聴衆に対して、指導者や伝道者のような立ち位置を取ってしまいます。


 ラカンは、今述べたグループ化に対して、注意深く行動した人でした。典型的なのは有名な Dissolution です。端的にいえば当時強力にグループ化しつつあった「ラカン派」をこのひと言で解散してしまったのです。ですから、ラカン派はともかく、当のラカン自身は、逆説的な意味で、ラカン派ではなかったというわけです。ところが、ラカンのエピゴーネンたち、つまり「ラカン派」を自任する人たちは、その殆どが想像的な欲望に突き動かされて活動しているように見えます。わたし自身は、少なくともそれに対して常に注意深くあらねばならないと思っています。そのためには、精神分析そのものをラカンからのみならず、フロイトからも引き離すことが重要であると考えています。つまり「精神分析」を、現代の数理科学的、脳科学的な見地から解体構築しつつ、未来に持っていくということを考えています。そもそも、人類の知の歴史とはそういうものではないでしょうか。特にサイエンティフィックな領域や実生活へ繋がるテクノロジーの領域というのは未来へと向かってゆく、あるいは未来を先取りしてゆくものなのです。


 たとえばわたしが子供の頃「スーパージェッター」というテレビアニメがありました。冒頭でテーマソングが流れるのですが、次のようなセリフで始まります。「ぼくはジェッター、一千年の未来からやってきた。流星号応答せよ流星号。来たな、よーし、行こう!」。流星号というのは流線型の空を飛ぶ乗り物で、腕時計型の通信機で呼ぶというものでした。あの頃は子供心に「すごい~!」と思ったのでしたが、現代では時計型の通信機など普通に作れてしまいますね。


 ここで、わたしが既成の精神分析に対して、数理科学的、脳科学的な立場から、どのような形で解体構築を持ち込もうとしているのかお話ししておく必要があるでしょう。わかりやすく喩えると、従来の精神分析は数理科学ではなく、単純な算術によって構成されているということです。算術の世界なんです、フロイトもラカンも。後期から晩年にかけてのラカンはボロメオの輪などのトポロジーを使って彼なりの境域(次元)を説明しようとしましたが、数学に詳しい方ならお分かりでしょうが、結び目のトポロジーなどは次元を上げると解けてしまいます。つまり、次元数でいうと結び目が成り立つのは三次元までで、四次元を導入すると解けてしまうのです。これでは使えないのです。


 それでは、わたしたちが依って立つことができるもっとましな思考法は何かというと、それは既にニュートンの古典力学でもなく、アインシュタインの相対性理論でもなく、あるいは初期の量子力学でもありません。今、わたしたちが採用するべきはわたしたちが実在していると錯覚しているこの宇宙の成立についての情報理論です。


 ここで重要になってくるのは、量子力学 quontum mechanics、超ひも理論 superstring theory、そしてホログラフィック原理 horographic principle です。特に脳の機能や病理については、算術に基づく精神分析や、古典的な物理学などではまったく太刀打ちできません。身体を含めた環境自体が電子系や量子状態として把握されることが前提となってきます。古典的な考え方では、人間の身体は細胞でできており、細胞は分子でできており、分子を分解してゆくと原子核や電子、さらには原子核は中性子や陽子でできている云々。つまり、粒々概念です。筋子や鱈子の世界で、分解すると粒々でできているという発想。これはギリシャ時代から続くアトミズム的世界観です。ア(否定の接頭辞)+トム(切る)=これ以上切れない、という発想です。現代の物理学ではそうは考えません。つまり、実在しているかのように見える諸々の基本構造は振動なのです。宇宙やわたしたちの身体を構成している「物質」と思われているものも、実はすべて振動として定式化され得るのです。それがアーウィン・シュレディンガーが提唱したシュレディンガー方程式です。あらゆる「物理現象」はこの方程式に従っているということは、今や物理学的常識でもあります。


 そこからして、わたしたちの知は、すでにフロイトの「精神分析という発想」からは遠く離れたところまで来ているということがわかります。たとえば、精神分析と脳科学は別々の分野のように思われがちですが、もし50年後に精神分析が生き残っているとすれば、それはもっと脳科学的であり、物理学的であり、数学的なものになっているはずです。脳は身体の一部ですが、少しレトリックを使うと、身体は脳の一部といってもよいくらい、身体全体に神経のネットワークが張り巡らされています。つまり、頭蓋骨のなかに収まっているものだけが脳というような発想はすでに時代遅れなんです。


 つまり、脳から末梢まで伸びている神経のネットワークのすべてを相手にしなければなりません。そうすると何が起こるでしょうか? 丁度クリスマスシーズンですが、クリスマスツリーに喩えるならば、その一番上に飾られている星が、脳科学者のいう「脳」に相当するのかも知れません。脳科学というと、まるでその星のことについての研究のように思われがちですが、実はツリー全体を見なければならないわけです。電飾がピカピカ光っていたりしますよね。


 わたしたちは、脳だけではなくて、脳を含む身体全体をひとつの電子系もしくは量子状態として考えてゆかなければなりません。自由電子の運動に左右される電子系の総和によってその状態が決まってくる。それはひとつの量子状態です。昔の大脳生理学では、脳のこの部分にこの機能がある、といった役割分担的な発想がありましたが、今日では脳の量子状態の解明こそが重要な課題になってくるのです。