公開セミネール 2016 記録「セミネール断章」
「精神分析原理」Principia Psychoanalytica
ーフロイト・ラカンが仕掛けた陥穽ー

2016年10月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2016年10月8日講義より
第10講:「死の欲動 Todestrieb」とはそもそもなにか?




 一般的に「自殺をするのは人間だけだ」と言われたりします。確かに、人間以外の動物でも、自殺に類することが見られたりはします。例えば、レミングが集団で海のなかに入っていったりとか、あるいは、イルカが集団で海岸に打ち上げられたりとか。一見、集団自殺のようにも見える行動ですが、人間の自殺とはまったく異なるものなのでしょう。人間が自殺をする最大の原因は「言葉を覚えてしまったから」だというのが精神分析の考え方のなかにあります。


 自殺の仕方についてまず思い浮かぶのは、縊死と飛び降り(飛び込み)です。実はその完遂の仕方によって、背後に想定されるメンタルな構造が異なっています。


 人が心を病むとき、何らかの形で生後間もない心性に「退行」していることが臨床のなかでしばしば確認されます。特に生後6ヵ月から18ヵ月までの期間が重要で、ご存じのようにラカンはこの時期を「鏡の段階 Stade du miroir」と呼んでいます。生まれ落ちた子が象徴の世界へ入って行く前に通り抜けてゆかなければならない母子未分離の世界です。厳密には母子未分離から子の母に対する忌避 abjection が生じている段階でもあります。この鏡の段階で起こっているのは二項対立の世界、つまり愛と憎しみが、母と子の間で目まぐるしく入れ替わる段階です。


 鏡のなかの「自分」の場所は母の欲望の場所でもあり、母に愛される唯一の「自分」であろうとする子は、鏡のなかの「自分」はライバルであるためにこれを忌避し殺害しなければならない。つまり、鏡の向こうの存在は、自分であって敵なのです。もし、鏡の向こうの自分に自分が殺されるというような事態が生じたとすれば、それは鏡の段階に心的状態が退行している。ここで「母から自分が切り離される」という想像的な去勢が生じる。すなわち、人は首を吊る(去勢される)ことを選択することになります。


 一方、その鏡の段階を通過すれば、言葉を獲得する段階が来ます。言葉によって母と子が切り離される事態で、精神分析ではこれを象徴的去勢と呼んでいます。二項関係において母親の不在が生じると、子は「ママ」と発声することによって母の不在を補填する。おそらく、子は発声すると同時に母の姿の幻覚を見ているのかも知れません。誰もいない方へ向かって笑っている子の姿を見かけることがあります。母が不在でも「ママ」と発音すれば、そこにあたかも母親がいるかのような幻覚を導くことができるのでしょう。つまり象徴的去勢というのは、いままで母親と一緒に親密にしていた生活から、母が言葉によって置き換えられ、実際の母からは切り離されるという事態なのです。


 ですから、鏡の段階が「二項関係」とか「対立」とか「愛と憎しみの交流」という状態的な言い方ができるとすれば、象徴的な去勢の段階は「切断」とか「切り離し」という出来事のことだと言えるでしょう。この象徴的な去勢を実行に移すのが飛び降り(飛び込み)という手段です。世界と自分を切り離す、つまり世界から自分を切って捨ててしまうということが起こるわけです。ですから自殺の様式によって、病的な退行がどの段階まで生じていたかということのおおよそ目安がつきます。ですから、首を吊った、ということを聞いたら、鏡の段階への退行があったのではないかと考えるわけです。鏡の段階への退行の典型的な病態は鬱病です。ですから鬱の自殺の手段には圧倒的に縊死が多い。一方、象徴的な去勢、つまり言葉を獲得するときになんらかの困難があった人、あるいはなんらかの恐怖がそこにまとわりついていた人の場合は、たとえばスキゾフレニアがそうですが、その自殺様式は飛び降りたり、飛び込んだり、ということになってきます。スキゾフレニアの患者さんが首を吊ることは稀です。不本意なことですが、精神科医であれば、多かれ少なかれ、自分の患者さんが自殺をした経験があるものです。


 今日お話ししようとしているのは、Todestrieb 「死の欲動」という概念の考え方です。あらゆる生命は、命を宿して大きくなっていきます。これは植物であろうが動物であろうが単細胞生物であろうが、皆そうですね。つまり生命には、ベルクソンがいうような跳躍がある。つまり組織化され、成長していく方向へ動いている。それは生命を運んでゆく力といってもよいでしょう。そういう生命を運んでいく力で支えられているはずの生命が、自らの命を断つことがある。あるいは自らを傷つけることがある。たとえばマゾヒズムでは、刃物で切られたり、鞭で打たれたりすることに快感を感じたりする。このように、言葉を話す人間は、単に他の動物のような生命を正しい方向に運んでいくエネルギーだけではなく、自らを殺害するようなエネルギーがどこかで働いていると想定されます。


 フロイトが「死の欲動 Todestrieb」を想定しなければならなかった時代背景として、二度に渡る世界大戦の影響を見逃すことはできません。死の欲動を問題にした「快感原則の彼岸」が書かれたのは、第一次世界大戦が終結して2年後の1920年です。また、第二次世界大戦では、ナチスドイツの侵攻のために、娘のアンナとともにイギリスに亡命せざるを得ませんでした。フロイトは第一次世界大戦後、どうして人間は殺しあうんだということを真剣に考え続けていました。1932年には同じユダヤ人であるアインシュタインに指名されて書簡を交わし「人はなぜ戦争をするのか? Warum Krieg?」という往復書簡も出ています。


 フロイトは、なぜ人が人を殺すのか、どうして人は死ぬのか、ということを考えてゆくなかで、生の欲動だけでは人間の行動は説明できないという結論に辿り着きました。「快感(楽)原則の彼岸」では、思弁 speculation であると断りを入れた上で、欲動の二元論について語っています。つまり人間の欲動は二通りある。一つは生き延びてゆくための生命共通のエネルギー、もう一つはその自らを殺害するエネルギー、その両方が働いていると考えたのです。


 つまり、生命が生き延びてゆこうとしている運動の一方で、その反作用のような形で生じる物質からの抵抗がやはりあるのです。だから生命の運動と物質の抵抗との鬩ぎ合いについて、わたしは以前から次のように表現しています。すなわち「あらゆる生命は物質の抵抗に逆らって立ち上がっているように見える」と。そこに相反する力の均衡が生じている。