公開セミネール 2016 記録「セミネール断章」
「精神分析原理」Principia Psychoanalytica
ーフロイト・ラカンが仕掛けた陥穽ー

2016年9月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2016年9月10日講義より
第9講:「享楽 jouissance」とはそもそもなにか?




 今日は、ラカンの精神分析でよく用いられる用語 jouissance についてお話ししたいと思います。この用語は一般に「享楽」と訳されていますが、この jouissance というフランス語には幅広い意味があって、肉体的な快楽の水準から精神的な満足の水準まで、さまざまな用いられ方をします。また、法律用語でもあり、その場合は「~の要件を満たす」という意味で用いられます。このように jouissance は幅広い場面や分野に登場する言葉なのです。


 ラカンの用語法に従えば、概ね身体が関わる形での快楽のことだと考えていただいてよいでしょう。但し、その広がりとしては、身体的な快楽のみならず、身体に関与する精神的な快楽も含まれてきます。いずれにしても、ラカン思想のなかでは重要な用語なので、どんな使われ方をしているのかということは十分考慮してゆく必要があります。


 ラカンの「セミネールXX Encore」のカバーに有名な彫刻家の作品の写真が載っていますが、この作者の名前を知っている方はおられますか?


参加者「ベルニーニ!」


 そうです、ベルニーニですね。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、イタリアバロック時代の天才彫刻家です。ご存じのようにバロックは、ルネサンスの後に起こってきた芸術運動なのですけれども、ベルニーニは、ローマの芸術的な部分を作ったとすらいわれている有名な彫刻家ですね。彫刻家であり、画家であり、建築家でもありました。生年1598年、没年が1680年なので、82歳で亡くなっているのですが、当時としてはかなり長生きした人だったんですね。


 セミネールの表紙に採用されているのは「聖テレジアの法悦」というとても有名な彫刻です。天使が、右手に持った矢の黄金の矢先を聖テレジアの胸に向けて今にも突き刺そうとしている場面です。注目したいのは聖テレジアの表情です。何ともいえぬ神がかった悦楽の表情といったらよいのでしょうか、刺さるから痛いはず、痛いのだけれども、何ともいえない快楽に襲われているかのごとき表情。ラカンは jouissance を念頭に置いて、あえてこの彫刻の写真を表紙に使ったわけです。



 「聖テレジアの法悦」は、ベルニーニが49歳の時に手がけて5年位かけて製作しているので、西暦でいうと1647年頃から1652年にかけて作り上げた作品ですね。もっともこの彫刻だけではなくて、礼拝堂のすべてをデザインしていますので、実はあの写真の両側にも素晴らしい彫刻と絵画があるわけです。ですから全体像を見渡すことができれば理想的なのですが、残念ながらわたし自身も礼拝堂を訪れたことがありません。ですから、わたしの心のなかで、いつか必ず訪れたいと思っている場所の一つになっています。


 実はこの「アンコール」の表紙には少し細工がしてあります。タイトルの Encore という文字を見ていただくとわかるのですが、あたかも聖テレジアの口から発せられたのではないかと思わせる位置に配置されています。ご存じのように「アンコール」は、コンサートの終わりなどに「アンコール、もう1曲、もう1曲」という意味で会場から沸き起こるリクエストのことでもあります。つまりこの表紙では、聖テレジアが、あたかも天使に向かって「もう一度」と言葉を発しているかのように見えるのです。


 ちなみに「聖テレジアの法悦」は、イタリア語で Estasi di santa Teresa 、ベルニー二は、Gian Lorenzo Bernini です。そして Encore はフランス語ですが、これは en corps という言葉と同じ音になります。en corps は「身体において」という意味のフランス語です。


 先に jouissance は身体が関わる形での快楽であるといいました。これは性的なもの、つまり身体に関わるような快楽のことです。ですから「もう一度」という意味と「身体において」jouissance が生じているという意味が同時に含まれています。さらには、殺され方もナイフのような刃物ではなく、通常は心を射止めるとされている弓矢の矢、しかも黄金の矢先のついた矢で刺されることや、刺される箇所も胸だというような細かいことも精神分析的に根拠のある意味が隠されています。


 一方、ラカンのいう jouissance は、jouisーsens=sens jouis=「享受された意味」という表現を含んでいます。sens は「意味」、 jouis は jouir の過去分詞で「享受された」となります。つまりわたしたちの享楽というのは、意味によって引き起こされている側面がありますよね。会田誠さんの有名な作品にこのようなものがあります。半紙に「美少女」と書いて壁の高いところに貼ってあって、後ろ姿の全裸の会田さんが、その文字を見上げながら自慰を行っている写真作品です。日常生活でも「梅干し」といったら口のなかが酸っぱくなるように、わたしたちはすでに言葉=意味によって身体的な変化が生じるような条件付けをされているわけです。わたしたちは言葉を覚えてしまったために、快楽の世界もまた知ってしまった、というわけです。jouissance という用語はそういう意味と身体が連動しているというニュアンスを持っているのです。さらに面白いのは、jouis! は「享楽せよ!」という二人称命令形なのですが、この命令に対して j’oui. 「承知しました」と 答える。命令もその答えも「ジュイ」という同じ音なのですね。


 いずれにしても、ラカンの精神分析のなかでは、jouissance は「言葉を話す存在=être parlant=parlêtre」を根本的に運んでいる意味と身体が織りなすひとつのベクトルのようなもので、この jouissance を反復しながら死へ向かっている、という人間の根源的なあり方を表わしている用語なのです。人間の一生を大きくひとつの流れとして見るならば、jouissance を繰り返し享受しながら、やがて命の最終的な到達点つまり死に向かっている、あるいは死に代わる何ものかに向かっている、という構図があるのですけれども、興味深いのは、ラカンは男性の領域の jouissance(JΦ) と女性の領域の jouissance(JA barré) を峻別しているということです。つまり、女性の享楽と男性の享楽は「構造的に」異なっているのです。そしてそれらは、皆さんよくご存じのボロメオの輪の重なりのなかに位置づけられています。すなわち、男性の享楽は象徴的なものと現実的なものの重なりの部分に、女性の享楽は想像的なものと現実的なものの重なりのなかに位置づけられているのです。