公開セミネール 2016 記録「セミネール断章」
「精神分析原理」Principia Psychoanalytica
ーフロイト・ラカンが仕掛けた陥穽ー

2016年5月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2016年5月14日講義より
第5講:精神分析が目指すもの




 構造主義は、ソシュールの考え方を基本にして20世紀に発展した思想です。その要点は、いわゆる現実そのものを探求するのではなく、現実を虚構 fiction として再構成している言語の構造に着目し、言語の持つ示差的かつ相対的な構造のなかに、心的構造や社会構造を見出していくというものです。そのような思想の流れのなかで、ジャック・ラカンは、心は言語によって構造化された構造であるという立場に立ち、フロイトの提唱した精神分析を構造主義の観点から再構成しました。

 しかしながら、厳密な話をすると、ソシュールのシニフィアン/シニフィエの図は、そのままだと精神分析にはまったく役に立たないのです。なぜなら、わたしたちの心的構造は常に流動しており、意味ひとつ取っても多様に変化しています。決して一対一に固定されたものではありません。常に流れているものですからこういう静的なモデルでは人の心のダイナミズムを表わすことはできません。もっとダイナミックな、動的なモデルが必要なのです。


 では動的なモデルに変換するためにはどのようにすればよいのか。「言葉とそれが指し示すものは一対一対応として良いのだろうか?」という問いがここに生じてきます。たとえば「青い鳥」という言葉。「青い鳥」と言われた時に、聞き手の心にはどのような変化が起こるのだろうか?心に浮かんだものもまたシニフィエではなく別のシニフィアンではないだろうか、という基本的な問いが生まれてきます。特に自由連想法などで次々と言葉が繋がってゆく時など、「繋がって出てくる言葉はシニフィエではなく、常にシニフィアンではないだろうか」という問いが生まれてくるのです。つまり、精神分析においては、ソシュールが言うように記号はシニフィアンとシニフィエで出来ているのではなく、異なるシニフィアンの対で出来ている、という発想を導入しなければならないのです。


 つまり言葉の意味と思われているものも実は別のシニフィアンに過ぎない。たとえば「玉露入りのお茶、これって何?」「玉露が入っているお茶だよ」「じゃあ玉露って何?」「玉露っていうのは、、、」とまた次の説明に連鎖します。つまり一対一対応ではなく、シニフィアンが次から次へと連鎖してゆく。つまり、辞書のなかである言葉を調べたらその説明が出てくる。しかしその説明のなかにわからない言葉があれば、更に辞書を引き直す。そしてまたその説明にわからない言葉があれば、また更に辞書を引き直すということになってゆく。特に外国語の勉強を、たとえば英語の勉強をする時に英英辞典を使っている人はよく体験することだと思います。つまり言葉は単純にシニフィアンとシニフィエの対で出来ているのではなく、シニフィアンとシニフィアンの対で出来ているということです。言葉の意味を探るということは、次のシニフィアンに送られてゆくうちに次第に「意味されるもの」が明らかになってくるということです。それが精神分析の基本にある、と考えたのがジャック・ラカンなのです。


 つまりわたしたちの心を分析するという行為は、とりもなおさず通常の言語のシニフィエ(意味されるもの)を聞いてそれでよしとするのではなく、そのシニフィエの先にまたもう一つ別のシニフィエがある。もっと正確にいえばシニフィアンの向こうにもう一つ別のシニフィアンがあると考えるのです。そして次々と芋づる式にその人の言葉の起源を逆に辿って、更にその奥に潜む基本的な意味群を明らかにしてゆく。



 つまりラカンは表現されたものはすべてシニフィアンと考えたわけです。このソシュールの図を使って説明すると、たとえばこのシニフィアンはここに連鎖する、次にここに連鎖する、更にここに連鎖する、という風にして次々と連鎖していくわけです。ソシュールはこの部分、このひとつの囲みの単位を記号(シーニュ)と呼んだのです。記号は例えて言うならサンドウィッチ、下がシニフィアン、上がシニフィエ。このソシュールの考え方、つまり下がシニフィアンで上がシニフィエというのは、あのアラジンの魔法のランプの絨毯みたいに下が乗り物 vehicleでその上に意味が乗っかっているというイメージだったのかもしれません。ところが精神分析は上下が逆になります。つまりシニフィアンとシニフィエを区切る横棒を抑圧の蓋とみなし、棒の下の場所に抑圧されているであろうシニフィアンを置いた。シニフィエとシニフィアンを隔てているこの横棒を抑圧とみなしたところにラカンのオリジナリティがあります。つまりその横棒の下はもう意識に上がってこない。つまり鍋の落し蓋みたいにその蓋の底に格納されていますよという意味を同時に表わしたというわけです。ですからソシュールが考えたようなシニフィアンが乗り物という発想を逆転させ、ラカンはシニフィエは隠されたものであり、横棒は抑圧を表わしており、わたしたちが通常意識上でそれと認識しているものはシニフィアンなんだ、としたのです。


 そうすると実はシニフィエと思っていたものも、その正体はシニフィアンだった。そしてこのシニフィアンはまた別のシニフィアンへと連鎖してゆく。つまりいつまでたってもシニフィエに辿り着かない、これが精神分析行為と言われているものです。つまり最終的な意味を求めてシニフィアンを手繰り続けても、そこに現われるのはすべてシニフィアンなのです。もし、シニフィエを、真の意味あるいは最終的に辿り着くもの、と考えることができるならば、それは永遠に辿り着くことのできない穴のような場所とでも表現せざるを得ないものです。とすれば、連鎖し続けるシニフィアンは最終的にどこへ辿り着くのか?というのが精神分析の根本的な問いになります。フロイト自身も「終わりある分析と終わりない分析」という論文でそのことに触れています。精神分析の区切りはどこにあるのか?そもそも精神分析に終わりがあるのか?それとも果てしなく続くのか?シニフィエに辿り着くことなどできるのか?これが根本的な問いです。


 ここで臨床について考えてみます。具体的な治療場面でおこなわれる精神分析は、最終的なシニフィエに辿り着くことを目標にするのではなく、暫定的なシニフィエに辿り着くことによって構成されています。ですからここで得られるのは厳密に言うなら暫定的なシニフィエつまりシニフィアンなのです。そしてこの暫定的なシニフィエの場所にリビドーの固着があると考える。ですから、暫定的なシニフィエであってもリビドーを解放させることは可能なわけです。ここに精神分析が抱えている根本的な矛盾がある。つまり最終的に治すことができないが暫定的に治すことはできる、というわけです。


 暫定的なシニフィエとはどのようなものでしょうか。「ドラ」というフロイトの症例がありますが、ここでは「咳」という一つのシニフィアン=症状を介した愛の対象との同一化が見られます。この症例では、ドラの愛の対象との同一化が問題となるのですが、そこでの精神分析の役割は最終的なシニフィエを見出すことではなく、暫定的なシニフィエを確認し意識化させる行為にとどまります。それでも症状が消えれば、最終的なシニフィエに辿り着くことはなくても治療はそこでとりあえずの終結を迎えることができるということなのです。


 フロイトの鼠男の症例(L’homme aux rats)をご存知でしょうか。強迫神経症の症例ですが、治ったはずだったが時間を隔てて再び治療現場にやってくるような症例。これは暫定的な治療の例になるでしょう。そうすると精神分析が、最終的に大きなクエッションマークで書いた「どこへ向かっているのか?」「どこを目指しているのか?」、つまり「精神分析が目指すもの」という今日のタイトルは本当は正確ではなくて、正確に表現するならば、「精神分析の行き着く先は?」とか「精神分析のなれの果ては?」とかそういうことになるのかもしれません。しかも、これがわたしたちの幸せに果たして繋がっているのかというと、決してそうではありません。なぜならば、わたしたちの幸せというのは、実はなにかここにあるわけではないのです。