公開セミネール 2015 記録「セミネール断章」
「オールフラット理論」-ホログラフィック精神分析入門
2015年2月講義
講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2015年2月14日講義より




講義の流れ〜第2回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜




第2講:「ホログラムからホログラフへ・脳機能とフーリエ変換」「オールフラット理論、ホログラフィック精神分析とはなにか?」

フロイトの方法→シャルコーと催眠→自由連想法→IPAと自由連想→ラカンと短時間セッション→『精神病の構造』出版まで→村上春樹と大江健三郎→ラカンの精神分析の限界→原理主義の問題→外部の否定と他者廃棄→「切れる」こと→duel と感情 duel の顕在化→ duel な段階への退行→母と子の間に入る言葉→ Non-du-Père は Nom du Père →母の場所に欠如している想像的ファルス→ désir de la mère 母の欲望→愛と死が同じラカン理論→遮断するところまで行く→ 父との同一化の強い願望→1つのスノビズム→編み上げられたセーターとしての人間→「ラカン曰く」と他者廃棄→ duel をコントロールする最大の防御としての知性→ラカ二アンとコミュニスト→ Ready-made の世界がどうやって出来ているかを扱う→ Ready-made の 世界は bulk →バルク内の法則→ホログラフィック宇宙論の考え方→平面情報の立体化→変換様式の一つとしてのフーリエ変換→非決定から決定へ→バルクが生じる→ホログラム(2次元情報)のホログラフ化→→ホログラフィック変換装置としての脳→記憶の積分→プロジェクション・マッピングと世界の分節→プロジェクション・マッピングの異常→症状を消すことと肯定すること→「症状を肯定する」という立場→→捏造されたトラウマ→概念的な症状の問題→「知ってるつもり」の概念→恐怖症の対象としての小動物→恐怖症と不安神経症の違い→強迫神経症と就眠儀式→母の欲望と強迫神経症→トラウマとスクリーンメモリー→薬を出すこと出さないこと→後弓反張→人間関係の齟齬と症状→スプリッティングについて→ファンクションとしてのファルス→質を与えるプロジェクション・マッピング→ジョークとしての精神分析



ホログラフィック変換装置としての脳



 実際、わたしたちは世界が世界であると察知するために知覚情報を利用します。知覚といえば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のいわゆる五感を思い浮かべますね。このような五感の特徴について考えてみます。
 たとえば視覚は、何よりもまず目から入ってきた光を制限する器官です。絞りがついているわけですね。絞りを開放して光を全部取り入れたら、真っ白になってなにも見えなくなってしまう。これがまず一つのポイントです。つまり光学カメラと同様に、入ってくる光を瞳孔(絞り)の大きさを変えて制限し、網膜の上に一定の像を作り出すわけです。網膜には二種類の視細胞すなわち桿体細胞 rod cell と錐体細胞 cone cell があり、前者は明暗を、後者は色彩を弁別します。弁別された差異は神経刺激に変換され、二次元情報として脳に伝達されます。
 触覚も似たような働きです。手で何かに触れる、皮膚に触覚を感じ取る細胞があるわけですが、ここでもやはり、神経刺激は二次元情報としての電気信号に変換されて中枢に運ばれる。ここで重要なことは、各知覚から運ばれてくる諸情報は二次元情報であって、立体情報ではないということです。
 聴覚も同様です。鼓膜の振動が二次元情報としての電気信号に変換される。こうして、各知覚器官から中枢へと電気信号が運ばれてくるわけですが、脳には各器官から運ばれてきた信号を最初に受け入れる場所があります。それが大脳辺縁系の一部を構成している嗅内皮質 entorhinal cortex と呼ばれている場所です。
 運ばれてきた様々な平面情報は、脳内である種の変換の手続きを経て時空化されます。つまりホログラフィックな処理を受けるわけです。平面情報が立体情報へと変換される。変換された立体情報は「意識」として統合されます。
 このように、五感で生成された知覚情報は、脳に運ばれ、大脳辺縁系の内部で、立体情報としての意識へと変換されているわけです。つまり、脳は知覚で生成された情報をもとに時空化された意識を生成するホログラフィック変換装置というわけです。

記憶の積分



 どのような変換が生じているのでしょうか。端的にいうなら、そこで生じているのは積分なのです。つまり平面情報が積分され、立体情報へと変換されているのです。脳内を流れる平面情報とは神経パルスつまり波動です。その波動を積分して立体情報へと変換するのが脳という装置なわけです。先取りしていっておけば、それはシュレーディンガー方程式のような複素関数が積分されるようなプロセスを経ていると考えられ、これを数理科学的に考えるならフーリエ変換や二次元マトリックスを三次元以上のマトリックスへと変換させる行列式のような手続きを経ているのではないかと推測されます。
 このような積分計算をする装置として想定されているのが海馬を中心とする閉じた回路です。すなわち嗅内皮質→歯状回→海馬→海馬支脚→嗅内皮質という閉じた回路内で、出力が再入力される形で、情報が回転して積分され、時空化されるとわたしは考えています。例えば、聴覚情報と視覚情報が照合関係におかれて積分されることで、独自の視聴覚時空が生成されるわけです。このような照合がすべての知覚相互で生じることで、わたしたちの住まう知覚=意識世界は次々と時空化されてゆくのです。

プロジェクション・マッピングと世界の分節



 人間の発達過程で言うと、生まれたばかりの子どもって立てもしないし、ものも認識できないのだけれど、だんだん知覚情報を脳のなかで処理して、それを処理された情報と突き合わせることによって、外部に立体的な世界があるかのように措定していくわけですよね。つまり知覚情報へ脳のなかで処理されたいわゆる意識情報を重ね合わせている。その重ね合わせを何度も行なうことによって、ペラペラだった世界が奥行きができ、そしてものとものとの区別がつき、という風にいわゆる実体と見まがうような、要するに現実の世界が分節されていくのですよね。
 わたしはこれをプロジェクション・マッピングに見立てたのだけれど、ディズニーランドとか行くと、シンデレラ城に『アナと雪の女王』が映し出されると、単なるお城ではなくて、そのお城が生き生きとなんかこう動くように見えてくる。あるいはちょっと前にあった新しく生まれ変わった東京駅の壁面にプロジェクション・マッピングして、なんか壁面がすごい生き生きと動き始める。そういうプロジェクション・マッピングのような働きがある。つまり知覚と意識って本来全く別のシステムなのだけれども、わたしたちが今こうやって生きているる世界というのは、知覚と意識が見事に重ね合わされているわけですよね。

プロジェクション・マッピングの異常



 そのように考えてゆくと、知覚と意識の関係は、今流行のプロジェクション・マッピングに似ています。知覚で構成された平面的な世界に意識が立体構造を投影してゆくというわけです。そして、このようなプロジェクション・マッピングの様々な異常こそが、実はわたしたちが従来精神の病や異常として記述してきたものではないか、と考えるのです。そのように考えると、スキゾフレニアの幻覚、デプレッションの世界の見え方、等の精神症状が知覚と意識の重ね合わせの異常、時空化の異常として統一的に説明できるようになります。
 たとえば離人症では、プロジェクション・マッピングの投影装置が故障して、時空化された意識の重ね合わせが不可能になり、今まで生き生きと見えていた世界から時空情報が奪われて、平面的な非生物的な世界が立ち現れてしまう。つまり本来生き生きとした現実感を帯びているはずの世界が、その現実感を喪失して、知覚情報だけのメカニカルな平面へと立ち戻ってしまうのです。つまり一種の時空化の異常がその根底にあると考えるのです。
 このように考えてゆくと、従来の精神病理学、あるいは精神分析が取り扱ってきた「症状」と呼ばれているもの、人間の知覚=意識のなかで生じる病理学的な心的状態というものは、今述べたようなプロジェクション・マッピングの不具合、つまり脳のホログラフィック化機能における処理過程の何らかの不具合や異常で起こってくるのではないかと考えることができるわけです。
 記憶の異常とか、あるいは現実のなかに非現実的なものが割り込んでくるとか、そういう症状のすべてが、わたしたちが個々に創り出している時空、今ここで生きている時空のなかで生じている一種の幻影の異常であることが見えてきます。

症状を消すことと肯定すること



 このように考えてくると、従来の精神医学で取り扱っている様々な精神症状というものも、今述べたプロジェクション・マッピング的な発想から再考してみると、色々な症状がスッキリとした形で見えてくるのです。つまり、症状をネガティヴなものとして治療の対象にするという領域から距離を取ることができるようになる。つまり、症状を脳の時空化のヴァリエイションとして肯定的に考察することができるようになるのです。異常でなくヴァリエイションなんだ、と。
 そして、このような「症状を肯定できる」ということが「心の病」を取り扱うべき精神科医にとって、一番重要なポイントなのだということがわかってくるのです。驚くべきことに、従来の精神医学は、症状を好ましくないものとして否定し、否定された症状を、例えば薬剤を使用して、消し去ることを自己目的として成立しているようなところがあります。「症状を消す」ということが「患者の幸せ」に繋がるという短絡的な発想がここにあります。ところが実際の臨床に携わっていると、患者さんを助けている症状というものがかなりあるのですね。
 「症状」には、それが出ている理由や原因がある。わたしが指摘しているのは、まずその症状を肯定することから始めるということです。なぜなら、何よりもまず、わたしたちが正常だと思っているこの世界こそが異常すなわちわたしたちの出している症状なわけですから。正常であると自任するわたしたちがおこなっているプロジェクション・マッピングが絶対で唯一無二である、という保証はどこにもありません。たまたま人類がこんな風に進化してきて、脳の処理がこういう風になっているから、こういうプロジェクション・マッピングが起こっているというだけで、愛犬が住まう世界はまた別のプロジェクション・マッピングで構成されており、海のなかを泳いでいるイルカにはイルカのプロジェクション・マッピングが成立しているわけです。当たり前のことですが、それぞれの生物がそれぞれの仕方で世界を構成して共存しているわけです。

「症状を肯定する」という立場



 したがって、人間が自分たちの知覚の様式と意識の都合によって勝手に創り出している世界を、唯一無二だと決めつけて、他の生物事物すべてにその世界を当てはめようとするとおかしなことが起こってきます。これと同様に、わたしたちが正常だと素朴に信じているこの世界と同一のものを相手に与えることを治療だと思っている治療者が沢山います。
 本当のところは、わたしたちが生きているこの世界は、様々なものが混在している坩堝のようなもので、そこでまず取らなければならない姿勢(当為)は「肯定する」ということです。「隣にいる人が変だから、わたしはもういやだ」とか「うちの近くに精神病院ができるらしいけれど、それはもう絶対極力大反対」とか「うちの近くに火葬場が出来るけどそれはもう地域住民で反対している」とか、おそらくそれと似たようなことが起きていますね。
 本来、わたしたちがそこに含まれている宇宙とは、世界とは、雑多で様々な意味や価値が混在しており、それが根本的な特徴だと思うのです。だからこそ、わたしが治療現場のみならず日常のなかでも取っている基本的な立場は、まだまだマイナーだと思いますが「症状を肯定する」という立場なのです。